第五話:さわるなよ
こんにちは、名前もしらないあなたへ。
ともだちがほしいな。
たまに、そんなことを思います。ずっと退屈だから。
病院のみんなはやさしいけど、わたしとどう年代の子はいないから。
一度でいいから、気の許せるともだちと一緒にあそびたいです。
ドキンと心臓が跳ねた。
登校日で唯一勉強する国語の授業に、気まぐれで解読をして浮かび上がった文章は、それまでのイタズラの限りを綴った気楽な病院生活の話題ではなく、ついさっき蒼太がおぼろげに思い浮かべて心配していたものとドンピシャで合っていた。
何故か胸が締め付けられるように苦しくなり、他人事なのにジンと何かがこみ上げた。
「――――――じゃあ、この時の作者の心情を……海原。答えろ」
「…え? あ! はい!!」
更にドキンと心臓が跳ねる。
運が悪いことに、適当に気分で回答者を指名することで有名な佐藤先生の指が蒼太に向けられていた。ノートはおろか、教科書さえ開かずに本の解読をしていた蒼太はビクッと体を硬直させて慌てて席から立ち上がる。
が、元々蒼太は教科書も読んでいないし、話もまったく聞いていなかったので今何を問われているのかも分からない。
背中を冷たいものが流れる。完全に不意打ちだ。
一途の望みを掛けて、少し後ろの方に座っている猛の方をチラッと見てみるが、「バーカ」と口パクで言うとクスクスと笑うだけで親友の窮地を救う気はサラサラ無いらしい。いよいよピンチだ。
「どうした海原。答えろ」
「え、え~っと……」
当然のことながら、解からない。
それ以前に、何を問われているのかも不明なので答えること自体が不可能だ。
完全に頭がパニックに陥ってきた蒼太は、何か答えなければとグルグルグルグル頭を更に混乱させる。
そして、何故か出てきた言葉が、脈絡もクソもない。それ以前に蒼太以外は存在すら知らない少女の言葉だった。
「え、え~~っと……………と、友達が欲しい」
シーーンと、一瞬空気が凍る。
この場にいる全員がキョトンとした顔を浮かべると、数秒沈黙が教室を支配する。
蒼太にとっては死刑宣告がされる時の囚人の気分だ。額から滝のように冷たい汗が流れ落ちる。蒼太には永遠に感じられた数秒の沈黙を破ったのは、後ろでクスッと笑った猛の声だった。
その声がスイッチだったかのように、クスクスと笑う声は教室中に伝染し、ついには教室が爆笑で包まれた。
「ぶっ! アハハハハハ!!」
「キャハハハ!! もう海原くん何言ってんの~?」
「どうせ寝オチしてたんだろ? ナイス寝ボケだな~アハハハバーカ」
「意味分かんな~~い。でもオモロー」
教室各所から笑い声とお調子者の声が蒼太に掛かる。
図らずもクラスの笑い者となってしまったが、凍った空気と比べれば有り難い限りである。
ホッと息をついて苦笑いしながら適当に流していると、隣の席の真面目でしっかり者な野沢泉ちゃんが無言で開いた教科書をこっちに向けてくれた。
覗き込んでみると、どうやら今勉強している箇所はかなり真面目な文章なところだったようだ。
と言うよりも、小説ではなく評論をやっていたらしい。『日本文化の表裏性』なるなにやら小難しい内容であった。
言うまでも無く「友達が欲しい」等の内容文章はない。野沢さんがヤレヤレと呆れた顔をしている。
教室の雰囲気が、砕けた空気になった。…ように思えた時だった。
「静かにしろ!!」
ビクゥと、一瞬で教室が再び凍る。
そこまで厳しいと言う噂は聞かない佐藤先生が、怒鳴り声を上げて生徒を黙らせた。
再びシーンとなった教室にポツリと一人立っている蒼太を佐藤先生が睨みつける。
「海原。お前、ずっと授業と関係の無いことばかりしていただろう。ん?」
「え、あ、いや…その…」
肝が冷えた。どうやら最初からバレていたらしい。
ツカツカとスリッパを鳴らして佐藤先生が蒼太の元に近づいてくる。
「教科書も開かずに、読書とはいいご身分だな。ほら出せ」
「え?」
「本を出せと言っているんだ。没収だ」
どうやら本を開いていたことまでバレていたらしい。誤魔化したのが酷く滑稽だ。
もっとも、この本を読んでいたわけではなく、解読していたのだが。しかしそんなことはどうでもいい。
グイッと高圧的に手を差し出される。握手ではなく本を出せと言うことだろう。当たり前だが。
シンとした教室の空気が息苦しい、唯一音を発していた先生のスリッパが蒼太の席の前で止まる。
恐らく、周りの人間は佐藤先生の怒り具合やこの後にある説教を思い浮かべて顔色を悪くしているのだろう。
だが、しかし、不思議なことに、当事者である蒼太に先生の怒り具合や説教のことなど…更に言えば、教室の凍った空気や自分の犯した失敗など、全て綺麗さっぱり頭の中から抜け落ちていた。
”本を盗られる”。ただそれだけのことに自分でも不思議なぐらい頭が一杯になっていた。
教室の空気とか、目の前に居る先生とか、そんなことはとても些細な問題に思えるぐらい。名前ぐらいしか知らない少女との唯一の繋がりである『数奇な運命』を盗られることを、何故か蒼太は恐れていた。自分でもそれが何なのかよく分からない。
一瞬、視界に入る全てのものが薄らいだような錯覚に陥る。
「…さっさと出さんか!!」
いつまでも本を出そうとしない蒼太を諦めた先生は、おもむろに乱暴に蒼太の机に手を突っ込もうとする。
咄嗟に『数奇な運命』を隠した机に、先生の手が伸びた。
――――やめろ、それは大切な本だ――――
――――――俺の本じゃない。彼女の本なんだ――――
――――――――何も知らないアンタが触るなよ。やめろ。やめろ――――
「やめろ!!!」
パシィと小さくも鋭い音が、静かな教室に響く。
気付いた時にはもう遅かったようだ。理性で本能を押さえようとする前に、手が出ていた。机の中に手を入れて本を取ろうとする先生の腕を、激しい声と一緒に払いのけていた。
シンと静まり返っていた教室の空気が更に張り詰めたのを肌で感じた。数人の息を呑む音さえも聞こえるほどの静寂。バクバクとありえない速度で心臓が鳴り響く。
払いのけた体勢のままピタリと動きを止めた蒼太の体。しかし、目だけは先生を睨みつける。
「…この本に触るな」
自然と口が動いていた…のか。
自分でも自分が言ったのか信じられないぐらいに、滑らかに威圧的な言葉が出ていた。
蒼太は”せんばさくら”との繋がりが途切れることを異常なまでに恐れていた。
永遠なんじゃないかと思うほど長い長い静寂を最初にやぶったのは、蒼太だった。
「…すいません、急な用事を思い出したので帰ります」
小さく呟いただけなのに、やけに大きく響く。
勿論こんな都合の良い用事なんてあるわけないのだが、これ以外の選択肢が咄嗟には思いつかなかった。
とにかく今すぐこの場から離れないと、何か取り返しのつかないことになると感じていた。
聞こえているはずの佐藤先生から返事が無いことなどはこの際気にせずに、最低限もっていた筆箱と本を引っ掴んでロッカーに向かって歩き出す。
投げやりな気持ちで猛の方を見てみると、何か言いたそうな真剣な眼差しを向けていた。親友のこんな真剣な顔をみるのはいつ振りだろうか? いや、初めてかもしれない。それほど真っ直ぐな目だった。
その他にも、教室中から複雑な色の視線が蒼太に集中する。
その全てを無視した蒼太は、ロッカーに向かうために教室の扉を極力静かに開けて外に出る。
結局、蒼太が教室を出ても誰一人として喋ろうとはしなかった。
その静けさがザックリと蒼太の胸に刺さる。
「何やってんだ、俺」
ポツリとそう呟いた声が、馬鹿馬鹿しくて頬が緩んだ。