第十五話:イタズラ好きの彼女
濡れた手で、金属の取っ手を掴んだ。
掴んだ直後に、やっと大人しくなっていたはずの心臓がまた暴れだした。ドクドクドクと、流れる血流の音が聞こえるぐらい鼓動が大きくなって、痛くなる。
これまで蒼太が経験したことの無い状態。
全身の血流が全て頭部に集中したのではないかと思うほど、顔と脳の温度が上昇して、目の前がクラクラする。
本人でも訳のわからない感情が爆発して、頭から湯気が出そうになるのを必死で抑えて取っ手を握った手に力を込める。
コンチクショーこうなりゃ勢いだ。と半ばヤケクソになって取っ手を横にスライドさせた。
妙に重いドアが開かれる。
そこで、蒼太のまだ冷静さを保っていた一部の脳味噌は疑問符を浮かべた。
はて? ドアとはこんなに重いものだったか?
「失礼しま―――――わぶっふっ!!!??」
第一印象は良い方がいい、と大きな声で発するはずだった声が最後まで続くことはなかった。
なぜなら、蒼太はある物体によって襲撃を受けたから。より正確にこの状況を説明するならば、ある物体というよりは、ある液体。
そもそも、ここまで小難しく説明する必要もないほど単純な現象。
―――――ドア付近上空に設置されたタライより、大量の水が蒼太に投下された。
「ゴボボボボッ!!?」
時間にして約四秒間、蒼太の顔面はしっかりと水没した。
蒼太はかなり突然のことで状況を理解出来ないが、上空に設置されたタライは奇跡とも呼べるほどのジャストミートで落下点に蒼太の頭部を捕らえ、その内部に保有されていた水を余すところ無くターゲットに投下した。
バッシャァ!と蒼太の頭部を満足そうに包み込んだ水は、病室の壁やドアに飛び散って、床全体を水浸しにする。
怪我の功名(?)不幸中の幸い(?)なことに蒼太の急激に上昇した頭部の温度は冷却されたのだが、当然のことながら軽いパニックに陥った蒼太は無意識に回避行動を起こし、足を移動させる。
しかし、移動させた足の接する病室の床は、水によって摩擦係数が低下し…ツルリン、と嫌な音を立てて足は地面から離れ、蒼太の体は一瞬地面から浮き上がる。
早い話が足を滑らせた蒼太は、当然そのまま尻から病室の床に叩きつけられた。
「痛いッ!!?」
今日はきっと厄日だ。
頭の端っこで冷静な自分がそう呟くのを感じていると、ようやく水害は通り過ぎた。
尻餅をついている蒼太の頭上からは、チョロチョロと残った水がまだ降り注いでいるが、とりあえず蒼太はこの状況を理解した。
普通ならば、突然頭上から降ってくる大量の水の理由を理解しるのは困難だろうが、しかし、蒼太はこの状況を瞬時に理解し、そして同時に何故かホッとした。
蒼太は知っているのだ。こんなイタズラをする人を。こんなしょうもない装置を作る人間を。
「ぷっ…アハハハハハ」
蒼太の耳に、笑い声が聞こえた。
少し高めの音域で、何故かその声は蒼太の耳にスッと入り込んで頭の中で優しく溶けていく。蒼太の耳に心地よく響き渡る。想像していた声よりずっと綺麗な声だった。
そして、続いて聞こえたのは、布の擦れる音とベットの軋む音。
ナースの女性に借りたタオルの甲斐もなく、再びズブ濡れになった蒼太の髪の毛からまた雫が垂れる。
少しボヤける視界の中に、動く人影が入り込んだ。
目元の水滴を乱暴に袖で拭って、蒼太は尻餅をついたままその人影を見上げた。
やっと会えた。
「や~い、ひっかかっ――――……って、あれ?」
サラサラと流れるように長くしなやかに伸びる黒髪。
覗き込むようにコチラを見詰める瞳は、吸い込まれるかと思うほど大きく、白く透き通るような肌は日の光に当っていないような印象こそ受けるものの、滑らかできめ細かい。
パジャマのような上下ピンクの服を着て、少し小さめの身長をしている。
会って初めて蒼太が見た表情は彼女の笑顔で、その笑顔が蒼太の心を小さく揺さぶった。
単純に綺麗だと思った。笑う時の表情がとても自然で、なんだかとても優しくて、心が安らぐ。
この笑顔を見れば、大抵の事は何でも水に流して一緒に笑ってしまいそうな。そんな笑顔だ。
少しの間、お互いに意味の違う沈黙が過ぎた。
「…あ、あの~…どちら様ですか?」
困惑の表情を、少女は浮かべる。
蒼太に手紙をくれた少女が目の前で蒼太の顔を覗き込んでいる。
こみ上げる感情を口にする前に、蒼太は何故か、堪え切れずに笑い出していた。
「プッ…アハハ、アハハハハハハハハハハハハ」
少女が突然笑い出した蒼太にビクッと肩を揺らし、怪訝な表情を浮かべる。
「アハハハハハハ。そうか! 書いてた通りだ! アハハハハ」
「な、何なんですかアナタ!?」
「ホントにタライ仕掛けてやがる! アハハハハハハ」
ずっと笑い続ける蒼太を、怪しい人を見る目で見始めた少女が、そ~っとベットの方へ手を伸ばす。
蒼太にばれないように手を伸ばす先に、比較的大きめのスプレー缶のようなものが無造作にベットの上に置いてあった。そのスプレー缶のラベルには大きな文字で「危」と書いてある。
「おっとぉ!!! 特性催涙スプレーはやめろ!!」
ビッシィ! と蒼太が少女の行動を察知し、指を刺して静止させる。
これから起こす行動を察知され、なおかつ静止させられた少女はビクッ!と肩を揺らし、蒼太の顔を凝視した。
「な、なんで特製催涙スプレーのこと知ってるの?」
「そりゃ知ってるさ」
頭の温度も下がり、緊張もほぐれた蒼太は、優しく微笑む。
そして、肩から下げていたカバンの中に手を突っ込んで、丁寧にビニール袋でくるまれた二冊の本を取り出した。
不思議なことに、あれだけ豪雨の中を走っても、あれだけの水をかけられても、二冊の本は少しのシミもついていない。しかし、そんな不思議なことにはもう慣れた蒼太は、取り出した二冊の本を目の前に居る少女に向けて突き出した。
しっかりと本のタイトルが分かるように突き出された二冊の本を見て、少女の表情が変わる。
驚きとも、困惑とも、歓喜とも取れないような複雑な表情を浮かべて、少女の動きが固まった。
「え…あ………こ、れ………」
「はじめまして。千羽桜さん」
ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「海原蒼太っていいます。…お手紙ありがとう」
少女…桜の表情をしっかりと目に焼き付ける。
複雑な表情を浮かべる彼女の頬には、雨も降っていないのに小さな雫が伝っていた。
「沢山、話したい事があるんだ。今度は、キミの事だけじゃなくて、俺の事も話したい」
滑らないように注意しながら起き上がる。
そして、目の前に居る桜の存在を確かめるように、彼女の綺麗な髪に触れる。
当たり前だけど、しっかりとここに存在する桜を確かめて、そのまま優しく撫でた。