第十三話:病院へ
キリキリと心臓が痛んだ。
意外と広い街を、桜川病院まで自分の足で走っている途中に何度も根を上げそうになった。
運動は得意で、夏休みの間も何度も体を動かしていた。それなのに、豪雨の中を走っていると肺の中の空気が全て消えうせたのかと思うほど痛くなって、バクバクと早鐘を打つ心臓を手で押さえつけた。
空気を求めて大きく口を開けば、口の中に雨粒が飛び込んできて何度も咽る。
眼を開けば、雨と涙が混ざって、視界がグチャグチャになって、何がなんだか分からなくなっていた。
バシャバヂャと、お気に入りのスニーカーが水を吸って重い音を立てる。
大きく股を開いて、地面を蹴飛ばしていた両足が次第に弱弱しくなっていく。ゼェゼェと荒い息を吐いて、家を飛び出した時の勢いが薄らいで行き、ついに蒼太は一度止まってしまった。
両膝に手を置いて、下を向いて地面に向かって肺の中の空気を何度も吐き出し、何度も吸い込む。ポタポタと髪の毛から雫が垂れて、同時に眼からも水滴が垂れた。
「ゼェ………ゼェ……」
頭の中は、さくらのことで一杯だった。
暫く時間がたって、走るという単純な行為をしていたためか。
これまで読んできた手紙、その中で楽しそうに綴られていたイタズラ、病院の優しい人たち。自分でも不思議なぐらい、その内容をしっかり覚えていて、ひらがな混じりの文章が何度も蒼太の頭の中をグルグルと回っていた。
―――はじめまして、名前も知らないあなたへ。
さくらは、蒼太のことはおろか手紙を読む人がどんな人か、それ以前に誰か読んでくれている人がいるのかも知らないのに、ずっとその人に向かって話しかけるように…否、話を聞いてもらうように書いていた。
―――びょうきのせいでずっとびょういんで暮らしています。でも、げんきです。
今思えば、元気なはずなど、ないのに。長年病院で暮らして、自分の病気を知らないはずはないのに。
手紙の中には彼女の病気の事は書いていなくて、今思えばそれは何も知らない手紙の相手に、精一杯の作り笑顔を見せるような行為だった。
イタズラをしているのは彼女なのに、話の内容のほとんどは病院の人たちの話で、彼女自身のことは蒼太も気にならないぐらい自然と抜け落ちていた。
まるで、幸せな状況だけを残しておきたい、とでも言うように。
―――、一日にかいのけんしんがある以外は、ずっとべっとに寝ているだけです。
何を考えていたのだろうか。何を思っていたのだろうか。
蒼太には想像も出来ないような、真逆な生活の中で、彼女は。
―――今日は気分がいいのでそとに出ました。ひさしぶりです。
チラリとしか垣間見えない彼女の生活。
―――ともだちがほしいな。
初めて本音に触れることが出来た手紙。
激しく心が揺さぶられて、同時に蒼太の中でさくらという存在が割合を増した。
元気だった彼女がチラリと見せた寂しげな文章は、蒼太の胸を締め上げた。
―――突然ですが、これが最後の手紙です。
突然突きつけられた、別れの手紙。
それはとても唐突で蒼太の心をグチャグチャにかき混ぜてドス黒く染め上げた。さくらを特別に思い始めていた蒼太にとって、その別れは突然すぎた。
しかし、開き直れた蒼太がもう一度手紙を思い出せば、それはさくらの小さな小さな叫びだった。
―――私は、私の存在を、外の世界の人に知ってもらいたかったの。
なぜなら、もうすぐさくらは消えるから。
―――本当はアナタのことも知りたかったけど、
なぜなら、蒼太のことを知っても仕方が無いから。
―――でもアナタと出会えてよかった。
さくらは蒼太を知らないけれど、でも、蒼太がさくらという存在が居たことを証明してくれるから。
学校に行けずにずっと病院で過ごした自分の存在を少しでも残したかったさくらは、『数奇な運命』に小さな希望を託して、外の世界に放った。それを偶然拾った蒼太は、病院の人達以外で…つまり外の世界で唯一さくらの存在を知っている人。
きっと、蒼太が居るだけでさくらは満足で…そして、それ以外は諦めている。
―――私の、余命は残り、二ヶ月だそうです。
最後の最後に残した言葉は、蒼太を失望させて、絶望させて、蒼太の中のさくらの記憶を過去のものにするための、大きな大きな爆弾。
「ふざけんな…ふざけんなチクショーめ」
ボタボタと雨粒が容赦なく蒼太打ち付けて、さんざん体の熱を奪ってから流れ落ちる。
しかし、悲鳴をあげていた心臓はようやく落ち着き、力を失っていた足には力が戻っていた。
勢い良く、傾けていた上体を起こして、ボタボタ流れる水滴を払った。
「それでハッピーエンドだなんて、納得いくか。お前のシナリオ通りに行って、たまるか」
さくらのシナリオの、蒼太の役割は王子様でもヒーローでもない。
ただ、その物語を傍観して全ての展開を見守った後に、それを忘れずに胸の奥にしまっておくだけのエキストラ。
お姫様が永遠にお眠りになって、それは可哀想だね、と他人事のように話す村人。
しかし、そんな展開は蒼太は望んでない。そんな展開は蒼太は許可しない。勝手に現れて、勝手に語って、勝手に特別な存在になって、勝手に消えるのなど、許さない。
さくらのハッピーエンドは、蒼太のハッピーエンドにならない。
止まっていた足は、また自然と動き出した。
不平を言って暴れていた心臓をもう一度酷使させて走り出す。
本当のことを言えば、不安で仕方無かった。
少しでも気を抜けば、脳味噌はネガティヴなことばかり考える。
もし、さくらが蒼太に会うことを望んでいなかったら?
もし、この物語自体が嘘八百で、さくらという人物自体存在しなかったら?
もし、根拠も何もない猛の適当に言っただけの病院に、さくらが居なかったら?
そして、もし……間に合わなかったら?
考えない。それを見ない。そんなことは考えない。
油断すれば芽生える足を止める理由を、全て蓋をして鍵を閉めて奥底にしまいこむ。
なぜなら、もう止まってはいけないから。