第九話:思う道を走れ、止まってはダメだ
「ハァ…ハァ、とりあえずは、あのジイさんだ。どこに居やがる!?」
蒼太は、商店街に来ていた。
クソ暑い中を全力疾走したので汗だくだった。しかし、今はそんなことは気にならない。自分でも不思議なほど、体が自然に動いて、不快にすら思わなかった。
現在一番「数奇な運命」下巻を持っている可能性が高いのは、あの古本市の老人だ。蒼太の単純な推測では、この町の商店街に店か、周辺に自宅があると予想している。
だが、当然そう簡単には見つからないだろう。都会とは言えないような街だが、そうそう探し人に会えるほど狭い街ではない。
勢いで飛び出して来たが、これからは長い戦いになるだろう。
蒼太は額の汗を袖で拭って、遠くの方を眺める。
「本屋を手当たりしだいに当ってみるか…」
「コレ若人」
「見つからなかったら、後は運まかせだ」
「コリャ若人」
よし、と腕まくりをして人混みの中に飛び込もうとした瞬間、後頭部に決して軽くない衝撃が走った。
突然の衝撃に目の前に星が散らばるが、何とか意識を失わずに後ろを振り向いた。
「年寄りに何度も呼ばせるでないわぁぁぁああああ!!!!」
「杖で後頭部を殴打する奴は年寄りって言わねぇんだボケェェェェエエ!!!」
◇◇◇◇
「ジイさん。あんただけが頼りなんだ。聞いてくれ」
「ふむ。なんじゃな」
商店街の真ん中で、少年と老人との喧嘩が繰り広げられた後、商店街の端っこの方に移動し、蒼太は老人に掴みかからんばかりの勢いで詰め寄っていた。
それに対して、老人は静かに蒼太の問いに答えていた。
「せんばさくらって子を探してる。その子は、アンタから買った本の中にあった手紙から知ったんだ。どこかの病院で入院してる子なんだけど、その本の手紙が終わちゃって、下巻を探してる」
それから、自分で思いつく限りのせんばさくらへの説明を、勢いに任せてまくし立てた。
蒼太自身もなにを言っているのかよく分からない、要領を得ない説明だっただろう。しかし、それに対して老人は、ただ静かに蒼太の説明に耳を傾けていた。さっき杖で自分を殴打した人物とは思えないほど、威厳のある雰囲気を保ったまま、眼を閉じていた。
「あんたが、その下巻を持ってるんじゃないかと思ってここに来た」
そう締めくくって、蒼太は老人の反応を待つ。
暫くの間、老人は何の反応もなくただ、何かを考えるように目を閉じて黙っていた。
その間、蒼太は内心穏やかではなかった。もし、ここで老人に何も手がかりになる情報を得られなければ、もうそこで蒼太は手詰まりだ。
そして、心の中では、ここで可能性を見つけるのは、かなりキツイだろうと考えていた。老人が、たかが一冊の本を売りに来た客を覚えているとは、正直思っていなかった。
蒼太は、藁をも掴む気持ちで来たのだ。
そう思っていた蒼太に、老人は静かに、口を開いた。
「…不思議じゃな」
ポツリと、老人は呟いた。
「長く、この世を見てきた。…それこそ、戦争をしていた頃から、この国の移り変わりを見てきた。その時代の本と共に、本の移り変わりも、人の移り変わりも見てきた。人の人生など、星の数だけ傍観したと思っているが…お主のような場合は初めてじゃ」
どこか懐かしむような、遠い眼をした老人が、蒼太を見ていた。
「数週間前、わしの元に、ある女性が本を売りに来た。上下巻の二冊の本じゃ。しかし、それ自体はさほど珍しいことではない。売りに来た女性が、その場で「アナタが良いと思う人にこの本を売ってください」と言った。それは、幾分奇妙だったが、本を大切にしている人が、特別な事情で本を手渡すのかと思った。おそらく、この本を乱暴に扱われないように願った、のかと思ったのじゃ。」
老人は、ゆっくりと、噛み締めるように一言一言話していた。
「だが、その後も奇妙なことは続いた。わしは、買い取った本は必ず修復して綺麗な姿にして売るのを信条にしてきた。それが本に対する礼節だと思っておった。そして、その女性から買い取った本も、同じように、修復しようとした。しかしじゃ。その本を開いてみて驚いた。本には所狭しと黒い鉛筆で奇妙な印がいれてあった」
蒼太は、その瞬間。小さく鳥肌がたった。
『数奇な運命』の手紙に最初に気付いたのは、蒼太では無かった。目の前に居る老人は、蒼太が現れる前からせんばさくらの存在を知っていた。
知っている上で、老人は蒼太に『数奇な運命』、ひいては「せんばさくらの手紙」を売ったのだ。
老人は、すべて最初から知っていたのだ。
「じゃあ、アンタは最初から……」
「お主も、わしと同じような道を辿って、”彼女”を知ったのじゃろう。最初は落書きかと思った。しかし、解読すればそれは手紙じゃった。今思えば、わしに本を売りに来た女性は、”彼女”の親族か何かじゃったのじゃろう」
老人は、蒼太の問いを、右手を前に突き出して押し止め、ゆっくりと話し続けた。
「じゃがわしは、その手紙を読まなかった」
「え? 何で…」
「さぁ…何故じゃろうな?」
老人がイタズラっぽく笑った。
その笑みは、歳を感じさせない自然な笑みだった。
「それはわしにも分からん。…だが、わしがその手紙に気付いてから数日後、わしの目の前にお主が現れた」
「………」
「最初は、ただの暇つぶしで声をかけただけじゃった」
「…ひ、暇つぶしかよ」
蒼太が苦笑し、老人は特徴のある笑い声をあげた。
「遊びがいのありそうな若者を見つけたから遊んでやろう、とゆう年寄りの考えじゃよ。しかし、『古本の神様』など言う胡散臭いものに真面目に手を合わせたのは、わし以外ではお主が始めてじゃったな」
「自分で胡散臭いって言いやがった」
「その後じゃよ。わしの店の中から、お主が迷わずに”彼女の本”を選んだのは」
「…ッ!」
老人が小さく微笑んだ。
蒼太が、ほとんど勘で選んだ本は、本当に、何かに導かれるように『せんばさくらの本』だったのだ。
蒼太の中で、何かが繋がった気がした。
「何かの運命かと思った。いや、神の導きなのかとも思った。そして、わしは何も疑わずに、お主に”彼女の本”を売った」
「あぁ…」
「暫くした後の今日、お主は再び、わしと出会った」
シンッと、一瞬、静寂が訪れた。
端の方とはいえ、その瞬間だけ商店街の中が、静まり返った気がした。それほどまでに、蒼太の中で、何か大きな衝撃が走っていた。
暫く沈黙が続いた後、また静かに、老人が口を開いた。
「お主が探しているのはコレじゃろう?」
ゴソゴソと、着物の袖の下から老人は何かを取り出す。
それは、少し汚れた。それでいて、どこにでもありそうな。何の変哲も無いただの本。
それが当たり前の姿であるように不思議と似合っている古びた古本のタイトルは『数奇な運命』。
傷や破けた場所こそ無いものの、どこか薄汚れていて、手垢がついているようなハードカバーの本。
たぶん、前の持ち主に、大切にされていたんだろう。
蒼太は、胸の奥が暑くなるのを感じながら、深く頷いた。
「わしは、彼女のことを何も知らん。二冊の本に何が書いてあるのかも知らんし、お主がこれからどうするのかも知らん。じゃがな」
蒼太は、何も言わずに老人の言葉を聞いていた。
「これだけは分かる。…お主はもう、止まってはいかん。この出会いの先に何があろうが、お主は、お主の思う道を走れ」
蒼太は何度も、深く頷いた。
それを見て、老人は、またイタズラっぽく笑った。
「古本の神様は、きっとお主の傍に居るんじゃろう」
ゆっくり手渡される『数奇な運命』の下巻を、蒼太はしっかりと受け取った。
無くさないように、カバンの中にしっかりと詰め込む。カバンの中には、二冊の『数奇な運命』が揃っていた。
「ありがとう、ジイさん」
「ホホホ、かまわんよ」
「俺、頑張ってみるわ」
「若いって、いいのぅ」
そう言って、老人は蒼太に背を向けて歩き出した。
その背中に、蒼太は静かに深々と頭を下げる。そして、自分の家へと走り出そうと老人に背を向ける。
ふと、走り出した蒼太は後ろを振り返った。
走り出す前に、老人を見送ろうとチラリと老人の姿を追う。
しかし、振り返ると、既に老人は何処かに消えていた。