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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。

帝都モスクワの冬

夜想曲、あるいは氷上の二重奏

掲載日:2025/10/23

 1913年の秋、モスクワの空気は薄氷のように張りつめていた。帝国音楽院の回廊で、ステパン・プロトニコフは流れてくる前奏曲に足を止めた。ステパンは音楽院の2回生。二十歳を前にデビューしたいとの野望は、崩れそうで辛うじて健在。認めたくはないが、優等生ではない。だが、耳は誰よりもいい。

 聞こえてくる音に耳を向ける。誰が弾いているのかといぶかる。今まで聞いたことのないタッチ。その完璧な和音の処理に感嘆する。同時に、思う。


 ――完璧な音は、必ず何かを支払っているはずだ……。


「立派なもんだ」

 背後で同級生のアントンが囁く。

「新入生だよ。ダニール・ロマンツェフ。チェロ科。ペテルブルクの天才って噂。なのに、ピアノも弾く」

「チェロのくせに?」

「うん。しかも、誰ともしゃべらない」

 磨りガラスの向こうで、長い指が鍵盤の上を泳いだ。音は人肌の温度を持たず、冷たい光のように揺れていた。技巧は満ち、ぬくもりだけが雪のように欠けていた。


 翌日の食堂。ステパンはトレイを持ったまま立ち尽くした。黒い学生服の青年が一人でスープを啜っている。頬骨が鋭く、目は伏せがち――ダニールだ。

 ふいに視線が合った。

 ステパンは何か言いかけ、口を閉ざした。沈黙が落ちる。

 先に目を逸らしたのはステパンだった。心臓の鼓動が、拍子を外す。

 彼は話さないことで、周囲の語彙を増やす人だ。

 見られた場所が、あとでじんわり熱をもった。

 週末、門番がうたた寝をしている隙に、ステパンは夜の校舎に入った。

 月光だけの廊下。地下へ下りる階段の奥から、低い旋律が上がってくる。

「バッハだ」

 使われなくなった練習室の扉は半開き。蝋燭が一本、影を揺らしている。

 炎が揺れるたび、もう一人ぶんの呼吸が増えた。

 チェロの弓が止まる。

「誰だ」

「音が……聞こえたんです。すみません」

 ダニールは目を細め、それから肩の力を少し抜いた。

「夜は、見張りが緩い」

「どうして、ここで?」

「昼は弾けない。夜だけ、彼が眠るから」

「彼?」

 ダニールは答えず、楽器を撫でた。磨かれた古いチェロ。傷は隠されず、年輪のように残っている。

「祖母が言いました。このチェロは『クズネツォフ家のものだ』って。でも弾きはじめて分かった」

「何を」

「この楽器には魂がいる」

 ステパンは笑いかけて、笑えなかった。蝋の灯りの前では、嘘の笑いはすぐ割れる。

「誰の魂です」

「アンドレイ・クズネツォフ。音楽院の教授。皇帝暗殺のあとの検挙で捕らえられ、シベリアへ。戻らなかった」

「……」

「私が弾くと、彼が入ってくる。指も、呼吸も。私は器だ」

「なら、手放せば」

「できない。夜になると、体が勝手にここへ来る。拒めば――」

 彼は手首を見せた。

「内側から骨が軋む」

 紫の痣が月の色で浮いた。

「なぜ僕に話すんです」

「君は分かる人だ。君のショパンを聴いた。魂で弾いていた」

 ステパンは耳まで熱くなるのを感じた。

「それと、もう一つ」ダニールが一歩近づく。「彼にはパートナーがいた。ピアニスト。二人で集会で弾いた。その男も同じ日に捕まった」

短い沈黙。

「彼は、相方を探している。そして、君を見つけた」

 蝋の炎が揺れ、空気が重くなる。

「近づかない方がいい。彼が君を欲しがっている」  

ダニールは自分の言葉に嘘をついていた。それでも君に近づく自分を、もう嫌いになれない。

「けれど」

 ステパンは後ずさろうとしたが、足は床に吸い付いたままだった。

「また来ます」

 口が、自分より先に決めてしまった。

 その夜から、地下での会話が続いた。

「君は、帝国は長くないと思う?」

「音楽院はいつも安全だと思ってました」

「安全は、壁の内側の幻だ」

「あなたは……どこまで『あなた』ですか」

「半分。残りは、彼」

 ときどき、ダニールの声は古い調子に傾いた。言葉は古語の衣をまとい、部屋の温度を変えた。

「我々は信じた。音で民衆へ届くと」

「我々?」

「夜は複数形になる」

 ステパンは笑い、すぐにやめた。笑いは、薄い氷を踏む音に似ていた。

 十一月のある晩。ダニールが言った。

「二人で弾こう」

「僕が?」

「ブラームス。彼らが最後に合わせた曲」

 地下の隣室に、古いピアノがあった。調律は狂っているが、音は出る。鍵蓋の内側に、薄青いゴム印が擦れていた。『寄贈:イヴァンコフ活字工房』。

 ステパンが鍵盤に手を置き、ダニールが弓を上げる。

「いくよ」

 最初の音で、すべてが変わった。

「嘘だろ」

「譜面、見てないのに弾けるね」

「指が勝手に」

「君の中にもいる。彼の相方が」

 音は重なり、ほどけ、また絡まる。

「怖い?」

「怖い。でも――美しい」

「それで足りる」

 曲が終わると、ステパンの指は細かく震えた。別の練習室の譜面台も、同じ箇所で紙が擦り切れていた。

「これで分かっただろう」

「何を」

 指先が合うたび、名前より先に心臓がうなずいた。

「選ばれたことを」

 以後、毎夜。二人の会話と二重奏は、互いを磨いた。

「昼、鏡を見ると知らない顔に見える」

「それは、彼の記憶が浅瀬に来ている証拠」

「君は?」

「歩き方が古いと言われた」

「ダニールと呼んだら振り向かないのに、アンドレイだと振り向いた」

「夜は、名前も移る」

 最初に移るのは拍、その次に癖、最後に呼び名だ。

 眠れば、他人の記憶が夢の形を借りて押し寄せる。尋問、護送、凍土、別離。目覚めれば涙。

「それは君の涙?」

「分からない。けど、僕の顔を伝って落ちた」

「なら、君の涙だよ」

 返事の代わりに、ステパンは鍵盤で和音を作った。それは短い祈りに似ていた。

 大雪の夜。ダニール――いや、その奥の誰か――が静かに言う。

「時が来た」

「何の」

「完成だ。最後の曲を」

 ダニールは――いや、アンドレイは静かに続けた。

「未完が一つ、魂をこちら側に留めたままだった。シューベルトの《アルペジオーネ》。あの冬、演奏するはずだった」

「それを弾いたら、戻れなくなる?」

「もう半分戻っていない」

 ステパンは目を閉じ、息を数えた。

「やろう。君となら、怖さも音階のひとつになる」

「ありがとう」

 真夜中。蝋燭の炎が背後の壁に二つの影を映す。影は十九世紀の学生服を着ていた。

「音で呼ぼう」

「誰を」

「私たちを」

 音が立ち、部屋の空気のかたちを変える。

「君、泣いてる」

「僕じゃない……いや、僕だ」

「名前が浮かぶ?」

「ヴャチェスラフ・アレクセーエヴィチ」

「それが、君のもう半分」

 最後の音が消えたとき、沈黙は音楽の続きになった。

「ダニール?」

「ダニールは、もういない」

 青年の声は低く、発音は古かった。

「良い器だった。君の中の彼も」

「僕は――ステパンだ」

「そうだ。君はステパンだ。同時に、ヴャチェスラフでもある」

「戻れないの?」

「戻る必要はない。ここに『いる』」

 アンドレイ=ダニールは一歩近づき、ヴャチェスラフ=ステパンの頬に触れた。

「恐れなくていい。もう一度、共に弾こう。民衆のために」

「永遠に?」

「永遠に」

 触れた指は冷たく、言葉は温かかった。冷たさのほうが、長く残る記憶になる。体の半分が、その温度に従った。

「一緒に……」

 ステパンは、知らない誰かの言い方で同意した。

 アンドレイは微笑む。三十年分の孤独と、ようやく触れた喜びの混じった笑み。

 そして暗闇が、音を包んだ。


 * * *


 1914年の春。教務主任は二人の失踪届を机に並べた。サモワールの湯気が、紙の匂いをやわらげた。

「ステパン・プロトニコフ、ダニール・ロマンツェフ。十二月より消息不明」

「革命家の地下へ行ったのだろう」警官は肩をすくめる。

「荷物はそのままだがね」

「若いのは、すぐ消える」

 捜索は打ち切られた。

 門番は新しい職員に、小声でこう忠告した。「あの二人の名前は、紙に書かない方がいい。書くと、その晩に音が聞こえる」

 実際、夜ごと地下から二重奏が聴こえると噂が立っていた。

 誰も弾いていないはずの楽器から流れ出る、完璧なシューベルト。

「門番、おまえ、下へは?」

「降りませんよ、もう」

 会話は小さく、音だけが長く続いた。

 1917年、帝国が崩れ、音楽院は一度閉ざされた。

 1920年、再開。古い練習室は「安全上の理由」で封鎖される。

 それでも、鍵穴の向こうで時々、音が立つ。鍵穴は耳になり、夜ごと少しずつ広がっている。

「今夜はブラームスだ」

「いや、シューマンだ」

「どちらでも、完璧だ」

 新しい世界が、音を必要とする夜。

 氷の上に置かれた二つの影は、今も息を合わせ続けている。 

 聞こえる夜は少ない、けれど一度聞いた者は二度黙る。


(了)

 


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