夜想曲、あるいは氷上の二重奏
1913年の秋、モスクワの空気は薄氷のように張りつめていた。帝国音楽院の回廊で、ステパン・プロトニコフは流れてくる前奏曲に足を止めた。ステパンは音楽院の2回生。二十歳を前にデビューしたいとの野望は、崩れそうで辛うじて健在。認めたくはないが、優等生ではない。だが、耳は誰よりもいい。
聞こえてくる音に耳を向ける。誰が弾いているのかといぶかる。今まで聞いたことのないタッチ。その完璧な和音の処理に感嘆する。同時に、思う。
――完璧な音は、必ず何かを支払っているはずだ……。
「立派なもんだ」
背後で同級生のアントンが囁く。
「新入生だよ。ダニール・ロマンツェフ。チェロ科。ペテルブルクの天才って噂。なのに、ピアノも弾く」
「チェロのくせに?」
「うん。しかも、誰ともしゃべらない」
磨りガラスの向こうで、長い指が鍵盤の上を泳いだ。音は人肌の温度を持たず、冷たい光のように揺れていた。技巧は満ち、ぬくもりだけが雪のように欠けていた。
翌日の食堂。ステパンはトレイを持ったまま立ち尽くした。黒い学生服の青年が一人でスープを啜っている。頬骨が鋭く、目は伏せがち――ダニールだ。
ふいに視線が合った。
ステパンは何か言いかけ、口を閉ざした。沈黙が落ちる。
先に目を逸らしたのはステパンだった。心臓の鼓動が、拍子を外す。
彼は話さないことで、周囲の語彙を増やす人だ。
見られた場所が、あとでじんわり熱をもった。
週末、門番がうたた寝をしている隙に、ステパンは夜の校舎に入った。
月光だけの廊下。地下へ下りる階段の奥から、低い旋律が上がってくる。
「バッハだ」
使われなくなった練習室の扉は半開き。蝋燭が一本、影を揺らしている。
炎が揺れるたび、もう一人ぶんの呼吸が増えた。
チェロの弓が止まる。
「誰だ」
「音が……聞こえたんです。すみません」
ダニールは目を細め、それから肩の力を少し抜いた。
「夜は、見張りが緩い」
「どうして、ここで?」
「昼は弾けない。夜だけ、彼が眠るから」
「彼?」
ダニールは答えず、楽器を撫でた。磨かれた古いチェロ。傷は隠されず、年輪のように残っている。
「祖母が言いました。このチェロは『クズネツォフ家のものだ』って。でも弾きはじめて分かった」
「何を」
「この楽器には魂がいる」
ステパンは笑いかけて、笑えなかった。蝋の灯りの前では、嘘の笑いはすぐ割れる。
「誰の魂です」
「アンドレイ・クズネツォフ。音楽院の教授。皇帝暗殺のあとの検挙で捕らえられ、シベリアへ。戻らなかった」
「……」
「私が弾くと、彼が入ってくる。指も、呼吸も。私は器だ」
「なら、手放せば」
「できない。夜になると、体が勝手にここへ来る。拒めば――」
彼は手首を見せた。
「内側から骨が軋む」
紫の痣が月の色で浮いた。
「なぜ僕に話すんです」
「君は分かる人だ。君のショパンを聴いた。魂で弾いていた」
ステパンは耳まで熱くなるのを感じた。
「それと、もう一つ」ダニールが一歩近づく。「彼にはパートナーがいた。ピアニスト。二人で集会で弾いた。その男も同じ日に捕まった」
短い沈黙。
「彼は、相方を探している。そして、君を見つけた」
蝋の炎が揺れ、空気が重くなる。
「近づかない方がいい。彼が君を欲しがっている」
ダニールは自分の言葉に嘘をついていた。それでも君に近づく自分を、もう嫌いになれない。
「けれど」
ステパンは後ずさろうとしたが、足は床に吸い付いたままだった。
「また来ます」
口が、自分より先に決めてしまった。
その夜から、地下での会話が続いた。
「君は、帝国は長くないと思う?」
「音楽院はいつも安全だと思ってました」
「安全は、壁の内側の幻だ」
「あなたは……どこまで『あなた』ですか」
「半分。残りは、彼」
ときどき、ダニールの声は古い調子に傾いた。言葉は古語の衣をまとい、部屋の温度を変えた。
「我々は信じた。音で民衆へ届くと」
「我々?」
「夜は複数形になる」
ステパンは笑い、すぐにやめた。笑いは、薄い氷を踏む音に似ていた。
十一月のある晩。ダニールが言った。
「二人で弾こう」
「僕が?」
「ブラームス。彼らが最後に合わせた曲」
地下の隣室に、古いピアノがあった。調律は狂っているが、音は出る。鍵蓋の内側に、薄青いゴム印が擦れていた。『寄贈:イヴァンコフ活字工房』。
ステパンが鍵盤に手を置き、ダニールが弓を上げる。
「いくよ」
最初の音で、すべてが変わった。
「嘘だろ」
「譜面、見てないのに弾けるね」
「指が勝手に」
「君の中にもいる。彼の相方が」
音は重なり、ほどけ、また絡まる。
「怖い?」
「怖い。でも――美しい」
「それで足りる」
曲が終わると、ステパンの指は細かく震えた。別の練習室の譜面台も、同じ箇所で紙が擦り切れていた。
「これで分かっただろう」
「何を」
指先が合うたび、名前より先に心臓がうなずいた。
「選ばれたことを」
以後、毎夜。二人の会話と二重奏は、互いを磨いた。
「昼、鏡を見ると知らない顔に見える」
「それは、彼の記憶が浅瀬に来ている証拠」
「君は?」
「歩き方が古いと言われた」
「ダニールと呼んだら振り向かないのに、アンドレイだと振り向いた」
「夜は、名前も移る」
最初に移るのは拍、その次に癖、最後に呼び名だ。
眠れば、他人の記憶が夢の形を借りて押し寄せる。尋問、護送、凍土、別離。目覚めれば涙。
「それは君の涙?」
「分からない。けど、僕の顔を伝って落ちた」
「なら、君の涙だよ」
返事の代わりに、ステパンは鍵盤で和音を作った。それは短い祈りに似ていた。
大雪の夜。ダニール――いや、その奥の誰か――が静かに言う。
「時が来た」
「何の」
「完成だ。最後の曲を」
ダニールは――いや、アンドレイは静かに続けた。
「未完が一つ、魂をこちら側に留めたままだった。シューベルトの《アルペジオーネ》。あの冬、演奏するはずだった」
「それを弾いたら、戻れなくなる?」
「もう半分戻っていない」
ステパンは目を閉じ、息を数えた。
「やろう。君となら、怖さも音階のひとつになる」
「ありがとう」
真夜中。蝋燭の炎が背後の壁に二つの影を映す。影は十九世紀の学生服を着ていた。
「音で呼ぼう」
「誰を」
「私たちを」
音が立ち、部屋の空気のかたちを変える。
「君、泣いてる」
「僕じゃない……いや、僕だ」
「名前が浮かぶ?」
「ヴャチェスラフ・アレクセーエヴィチ」
「それが、君のもう半分」
最後の音が消えたとき、沈黙は音楽の続きになった。
「ダニール?」
「ダニールは、もういない」
青年の声は低く、発音は古かった。
「良い器だった。君の中の彼も」
「僕は――ステパンだ」
「そうだ。君はステパンだ。同時に、ヴャチェスラフでもある」
「戻れないの?」
「戻る必要はない。ここに『いる』」
アンドレイ=ダニールは一歩近づき、ヴャチェスラフ=ステパンの頬に触れた。
「恐れなくていい。もう一度、共に弾こう。民衆のために」
「永遠に?」
「永遠に」
触れた指は冷たく、言葉は温かかった。冷たさのほうが、長く残る記憶になる。体の半分が、その温度に従った。
「一緒に……」
ステパンは、知らない誰かの言い方で同意した。
アンドレイは微笑む。三十年分の孤独と、ようやく触れた喜びの混じった笑み。
そして暗闇が、音を包んだ。
* * *
1914年の春。教務主任は二人の失踪届を机に並べた。サモワールの湯気が、紙の匂いをやわらげた。
「ステパン・プロトニコフ、ダニール・ロマンツェフ。十二月より消息不明」
「革命家の地下へ行ったのだろう」警官は肩をすくめる。
「荷物はそのままだがね」
「若いのは、すぐ消える」
捜索は打ち切られた。
門番は新しい職員に、小声でこう忠告した。「あの二人の名前は、紙に書かない方がいい。書くと、その晩に音が聞こえる」
実際、夜ごと地下から二重奏が聴こえると噂が立っていた。
誰も弾いていないはずの楽器から流れ出る、完璧なシューベルト。
「門番、おまえ、下へは?」
「降りませんよ、もう」
会話は小さく、音だけが長く続いた。
1917年、帝国が崩れ、音楽院は一度閉ざされた。
1920年、再開。古い練習室は「安全上の理由」で封鎖される。
それでも、鍵穴の向こうで時々、音が立つ。鍵穴は耳になり、夜ごと少しずつ広がっている。
「今夜はブラームスだ」
「いや、シューマンだ」
「どちらでも、完璧だ」
新しい世界が、音を必要とする夜。
氷の上に置かれた二つの影は、今も息を合わせ続けている。
聞こえる夜は少ない、けれど一度聞いた者は二度黙る。
(了)




