06 二人の時間
豊穣の儀が終われば、しばらく公務はない。聖女様にとっては春休みの始まりだ。いつものように庭へ散策に出た俺と聖女様は、カシゲの巣を見つけた。
「見て見てフェリクス! ヒナがいるよ!」
「おお……!」
ちょうどカシゲの親鳥が戻ってきて、ヒナに餌を与えているところだった。俺たちはカシゲを刺激しないよう、離れたところから見守った。
「そうだ。僕、いいこと思いついた。フェリクス、午後は手伝ってもらうからね!」
「かしこまりました。何をでしょうか?」
「ギリギリまで言わない!」
昼食後、俺が行くように命じられたのは、いつもカレル夫人しか使わない厨房だった。髪を結い、エプロンをつけ、得意げな顔をしている聖女様の姿に首を傾げると、こう言われた。
「今日はお菓子作りをしまーす! フェリクス、サコットって知ってる?」
「はい。ジャムをつけて食べるお菓子ですよね? 騎士学校時代、たまに口にしました」
「それを作るよ。ほらほら、フェリクスもエプロンつけて!」
ぐいっと押し付けられたエプロンをつけ、よくよく調理台を見てみると、一冊の本が置いてあった。ページが開かれており、文字や数字が書かれていた。これはレシピだ。材料は、小麦粉、卵、牛乳。
「僕が材料はかって入れるから、フェリクスが混ぜて!」
「し、しかし、私はお菓子作りなどしたことがありませんよ?」
「サコットは簡単だから大丈夫。さぁ、始めるよ!」
聖女様が材料をはかる手際は非常に良く、何度も経験があることを伺わせた。問題は俺である。お菓子どころか料理すら作ったことがないというのに……大丈夫だろうか。
「はい。これで混ぜるんだよ」
「では……」
ボウルを渡され、大きなスプーンで中身をかき混ぜようとしたのだが、力加減がわからない。こわごわと動かすが、卵の白身がしつこくて混ざってくれない。
「んー、もうちょっと力入れてみて」
「こうですか?」
ぐいっと力を込めると、小麦粉が飛び散ってしまった。
「申し訳ありません……」
「フェリクスって案外不器用なんだね? 何でもできると思ってたのに」
「面目ないです……」
「あはは、そんな顔しないでよ。可愛いところもあるんだなって思っただけ。はい、続きは僕がするね!」
聖女様が生地を混ぜ、クリーム色になってまとまってきたところで成型だ。手で生地を千切って丸くこねるのだが、またもや俺は上手くいかなかった。
「うう……どうにも不格好ですね……」
「フェリクスは手が大きいからかえってやりにくいのかもね。あははっ、可愛い」
二度も「可愛い」と言われてさらに調子が狂った俺は、結局全て聖女様に任せてしまうことになった。生地は均等に並べられ、オーブンに入れられた。それから焼き上がりを待つ間に片づけだ。
「聖女様はお菓子作りがお好きだったんですね」
「うん。っていうより、他にすることなくてさ。僕が読ませてもらえる本って、王国史と図鑑と料理本だけなの」
「では、小説などは?」
「読んだことない。フェリクスは?」
「勉学の合間に気晴らしに、何冊か。面白いですよ」
「いいなぁ……」
サコットが焼き上がり、俺と聖女様は立ったまま、ジャムをつけてそれを食べた。噛むとホロホロにほぐれる生地の食感は心地よく、ジャムの甘味が合わさって素晴らしい美味しさだ。聖女様と一緒に作った、という特別感が、それを引き立てていた。
「最高ですね、聖女様」
「うん! これ、クレル夫人にも渡してきてよ」
「承知しました」
俺はサコットとジャムを皿に乗せ、クレル夫人の部屋に行った。
「これ……私と聖女様で作りました」
いつも厳しい顔付きのクレル夫人だが、サコットを見ると頬を緩ませた。
「まあ。そこに置いておいてくださいな。後で頂戴しますわ」
テーブルに皿を置き、立ち去る前に、俺はクレル夫人に尋ねてみた。
「なぜ聖女様にお渡しできる本は限られているのですか? 窮屈な暮らしでしょう。小説などを取り寄せては?」
「それは……ならないのです」
険しい表情に戻ってしまったクレル夫人は、こう続けた。
「聖女様には、人並みの幸せを夢見るということをさせてはなりません。愛する者と家庭を作ったり、旅に出たりだなんてもってのほかです。小説を読んで、そういったことに興味を持たれては困るのです」
俺は言葉を失ってしまった。クレル夫人の言うことは、残酷だが筋が通っていたからだ。
「フェリクス。それはあなたも同じはず。ここに来た以上は、聖女様と運命を共にするのですから」
「……わかりました。差し出がましいことを申してしまい、済みませんでした」
「わかればいいのです」
俺は深く一礼してクレル夫人の部屋を出た。
――人並みの幸せ。
聖女様にとっての幸せとは何なのだろう、と俺は思った。あの小さなお体に、どれほどの負担がかかっていることだろうか。それを俺は軽くしてさしあげることはできるのか。
――聖女様は、何を望まれているのだろうか。
俺は、それを知りたくなってしまったが、聞いたところで叶えられない望みならば、聞かぬ方が聖女様のためなのだ、と歯を食いしばった。