第9話 相違
コルトー伯爵領は、海を臨む広い土地である。
大きな商船や漁船がひっきりなしに港へ出入りし、市場には活気がある。潮風が頬を撫で景観も良い温暖な場所は、観光地としても名高い。
その領主邸は、港町を見下ろす小高い丘の上に建てられており、穏やかな湾を臨む白い石造りの豪華な館だった。
ジョスランは館手前の大きな鉄柵扉の前で下馬すると、ルシアの両腰を軽く持つようにして下馬を促してから、手綱を厩番へ預けた。
門番が従者へ取り次ぐ間、ルシアは乗馬服代わりにしていたロングキュロットやベストの裾をささっと手直しする。
既製服店で見つけたグレーのセットアップで、ジョスランが貴族女性のマナーにとらわれず「女性は馬を跨ぐな? 跨いだ方が楽ならそうすればいい」と賛成したお陰で、ルシアはストレスなく旅ができたと思っている。とはいえ貴族女性がキュロットを履くのは前例がない。働く庶民女性の服装、とみなされているからだ。
従者の案内で門から玄関ポーチへは徒歩で向かい、やがて執事が重厚な木製扉を恭しく開け頭を下げた。予想通りルシアの格好を「はしたない」と思われた様子だったが、気づかないフリをする。
招かれた応接室の中で二人を出迎えたのは、鮮やかな銀糸の刺繍が美しい青のジュストコールと、白いジャボを身につけた男性だ。亜麻色の髪は短く刈られていて、青い目は少し目尻が下がっているせいか優しげな雰囲気である。
四十代と思われるその男性は、明るい声で
「やあ、ようこそ。私がコルトー伯爵エディだ」
と両腕を広げながら室内へ入るよう促し、ジョスランとしか目を合わせない。そういった態度に慣れているルシアとはいえ、男性至上主義の高位貴族らしい振る舞いだな、とそっと苦笑を飲み込む。
ジョスランは場の雰囲気を読んで、
「本日は拝謁の機会をありがとうございます、閣下。こちらはルシア・バルビゼ。私はジョスラン・メレスと申します」
と珍しく率先して形式ばった挨拶を行った。ルシアはそれに追従するように、無言で礼をする。
「堅苦しい挨拶は抜きにしよう。長旅は疲れただろう。どうぞ座ってくれ」
ふたりが並んで応接ソファに腰掛けると、コルトー伯爵はジョスランの向かいに腰掛けた。まるでルシアがいないかのような振る舞いである。
執事とメイド達がお茶を用意するのを待つ間、とりあえずルシアは応接室の調度品に目を走らせた。暖炉の上には木細工の帆船模型が置かれたり、大きな舵輪が壁に掛けられていたりして、海を治める家らしいなと思っていると、ある一角に目が留まった。
水瓶を肩に乗せ地面に片膝を突いた乙女の、小さな銅像が飾られている。片手で持てるほどの大きさだが、素材からして重そうだ。
乙女が手を添える瓶の口からは、水が溢れるように下へ流れ出ていて、膝元に渦を巻いていた。全体的に青銅色の銅像は、水の一部分だけが赤銅色になっている。
「話は、どこまで聞いているのかな」
ルシアが銅像を凝視していると、コルトー伯がカップソーサーを持ち上げ、話を促した。いつの間にかルシアの膝前に置かれたカップからは、爽やかな茶葉の香りが立っている。執事は、ルシアの存在を無視しなかったようだ。
ジョスランが
「お嬢様の件でお伺いいたしました。できれば、夫人にもお話を」
と申し出ると
「いや、私だけで対応する。家内は今、不在でね」
と断られてしまった。
「不在、ですか?」
ジョスランが問うと、コルトー伯は
「ああ。用事でしばらく外出している。そんなことは良い、娘の話だ」
と言葉を荒らげた。
ジョスランがルシアに、意味ありげな目配せをする。
当然ルシアにも、見えている。ゆっくりと目を閉じ、口の中で真言を唱えた。
その様子を横目で見たジョスランは、当たり障りなく会話を進める。
「閣下のお子様は、お嬢様おひとり。そのお嬢様が喋れなくなった、とお聞きしております」
コルトー伯は一瞬動きを止めた後で、カップを傾けお茶を一口飲んだ。
「ひとり娘なんでね。心配だよ」
「原因にお心当たりは?」
「心当たりがあるなら、とっくに治っていると思うが?」
「失礼いたしました」
棘のある発言に対してジョスランが素直に頭を下げると、コルトー伯は気まずそうに肩を竦める。
「いや……病気や精神的なものなら、然るべき療養をと思ったんだが。全く原因が分からないのが、どうにもイライラしてしまってね」
「お察しいたします。ご本人はどういったご様子でしょうか」
ジョスランの淡々とした態度で、コルトー伯は気を取り直し再びお茶を口に含んだ。
「ある日いきなり声が出なくなって。最近は部屋から全く出て来なくなった。世話をしようとしても、鍵をかけて入るのを拒んでいてね。まあ、私はマスターキーを持っているが、しばらく様子を見ている」
「体調が悪いわけでは、ないのですね?」
「執事が言うには、人の動く気配はある、と」
ジョスランとコルトー伯との会話にルシアは耳を傾けつつ、周囲の様子を探る。コルトー伯の仕草や、背後に控える執事やメイドの表情などだ。特に部屋の隅に控えているメイドの顔面が蒼白で、気になった。後で話を聞こう、と面貌を記憶に留める。
「閣下。我々のことについては、ご本人へなんとご説明を?」
ジョスランの問いに、コルトー伯は眉尻を下げる。
「話していない」
「左様ですか」
「宰相閣下から、『お見舞い係』は様々な問題を解決してきたと聞いている。頼んだぞ」
普段からルシアは、あえて「解決します」等の文言は口にしないようにしている。だからここは自分が、とあえて口を開いた。
「閣下。わたくしどもは、あくまでも『お見舞い係』でございます。お嬢様のお見舞いをさせていただくのみですわ」
過剰な期待を持たせることは禁物である。ルシアがあえて釘を刺すと、コルトー伯は眉根を寄せた後で咳払いをした。
「分かっている」
「奥様も、でしょうか?」
「しばらく留守だと言っただろう」
苛立ちをぶつけてきたコルトー伯に、ルシアは表情を変えず「失礼をいたしました」と頭を下げた。
これ以上話すことはないと判断したジョスランが、
「では早速、お嬢様にお会いしてみます」
と席を立つと、コルトー伯は半ば投げやりに言った。
「会えないと思うがね」
ルシアも立ち上がって丁寧なカーテシーをしたが、
「必ず、解決してみせます」
とジョスランが伯爵へ向かって意気込んだのを見て、膝から力が抜けそうになった。
「お手並みを拝見させてもらおう」
――ルシアは、ジョスランをどう説教しようか考えながら、廊下へと出た。
○●
執事がコルトー伯爵令嬢マノンの部屋へ先導する背中を少し離れて追いつつ、ルシアは隣を歩くジョスランへ苦言を呈す。
「ああいうのは、困ります」
「ああいう?」
「必ず解決するなどと、言わないでくださいませ」
「俺は、ルシア嬢が必ず解決すると信じている」
「お気持ちだけで十分」
ルシアは、ジョスランに騎士の暑苦しさがなくて助かる、と思っていた過去の自分の浅慮を恥じた。やはり騎士というのは、『無駄に正義感に燃えていて苦手だ』と再認識する。
「ともかく、困るのです。解決できるとは限りませんし、失敗した時の責任は取れませんから」
「だがルシア嬢は、今まで全て解決してきたと聞いている」
「たまたまです」
「誇るべき戦績だろう」
ビタ、とルシアは足を止め、ジョスランへ迫る。
「戦いではありません。成績でもない。わたくしは、皆様がお心安らかに過ごすお手伝いをするのみなのです」
「謙虚なことだな」
「ジョスラン様。『お見舞い係』はあくまでもお見舞いが仕事です」
「だが、先日の侯爵の件はお見舞いどころか」
「それは、無闇に口にするべきではないですよ」
「うぐ……すまない」
流石に口を閉じたジョスランの様子を見て、婚約云々の前に、お見舞い係が何たるかをきちんと話すべきだった、とルシアは後悔する。移動に必死すぎて、認識合わせができていなかった。
そうしている間に、執事がある部屋の前で足を止めた。
「お嬢様のお部屋は、こちらです」
執事の目がいよいよ疑い深いものに変わってしまった、とルシアはため息を飲み込んだ。
「ジョスラン様。とにかく事態は想定より深刻です。しっかりお見舞いをすることにいたしましょう」
「……ああ」