第8話 夢見
馬車から乗馬に切り替わった旅は、順調に進み始めた。
だがルシアを「ひょっとして間に合わないのでは」という不安が襲う。
前世の知識で言うならば、言葉が出ないというのは『障り』が出ている状況に他ならないからだ。
呪いを受けた身に現れる、通常とは異なる状況や事象、症状のことを『障り』と呼び、それらが現れたら対象の身の内深くに呪いが入ってしまったということになる。
障りが出たらなるべく早く祓わねば、呪いに負け排除することが困難になったり、最悪命を失ってしまったりする。
宿屋に併設された食事処で夕食を取っていると、向かいの席のジョスランがルシアへ
「どうした、ルシア嬢?」
と声を掛けた。
「いえ……」
「また方角を変えた方が良いか?」
「しばらくこのままで大丈夫です」
陰陽師は、方位占いにも長けている。特に長旅の場合は吉方位・凶方位を占いつつ、できるだけ禍事を避けて行く。何らかのトラブルに巻き込まれることがないよう、ルシアは万全を期していた。
馬を操るジョスランに
「すみません。今日は一旦、西に向かえませんか?」
と初めて頼んだ時は、無言で従ってくれた。
遠回りなのに何も聞かないのか、と後で問うたルシアにジョスランは「騎士には、勝利の験を担ぐ行為がある。それと似たようなものだろう?」と答えてくれ、気が楽になった。
だから説明するのは苦ではないが、『障り』をどう伝えるべきか悩んでいる。
「……もしや、焦っているのか」
「っ、少々」
「ふむ」
ジョスランは、チキンを食べていたフォークをテーブルに置くと、口元をナフキンで拭った。
普段はただの騎士を装っているようだが、こういった何気ない所作には気品がある。
「明日は少し早足で行ってみよう。そろそろ馬にも慣れただろう?」
ジョスランの提案に、ルシアは
「良いのですか」
と少し罪悪感を持った。ジョスランが馬を慈しむ気持ちは、後ろに乗っているだけでも伝わってくるからだ。
「ああ。良い馬を手に入れられたからな。むしろ今までは準備運動だ」
ふ、とジョスランが窓の方向へ目線を投げる。厩に預けている馬に思いを馳せているのだろう。
栗毛の美しい馬は、先日訪れた町の馬主が、引退した騎士の払い下げだと言っていた。丈夫な馬ではあるが、多少年を取っているから安くしよう、と申し出てくれ、ジョスランは他と見比べることもせず即決した。
「健康状態が良かったし、なにより騎士の払い下げということは、遠征に慣れている。それだけで価値がある」
「ジョスラン様は、馬がお好きなのですね」
「馬は、人を見た目で判断しないからな」
思わずルシアが息を止めると、ジョスランは照れたように笑った。
「今のは、聞かなかったことにしてくれ」
「……わたくしも、黒目が恐ろしいとよく言われます。闇のようだと」
ジョスランの珍しい弱音に、ルシアの心も少し解けてしまった。
「そうか? 黒曜石のように美しいのにな」
美しいなどと言われたことがないルシアは、内心動揺したが――
「黒曜石のナイフは素晴らしいぞ。撫でただけで皮膚が切れるぐらいに鋭いし、軽いから投げても……どうした?」
「なんでもありません」
今の自分の目線とナイフ、どちらが切れ味鋭いだろうか、と考えつつ
「では明日からは早足でお願いいたします。お先に失礼を」
席を立ち、ジョスランの返事を待たず部屋へ戻った。
○●
ベッドに横たわったルシアは、しばらく浅い眠りに微睡んでいた。
「すまない……すまない……」
どこからか、か細い懺悔が聞こえてきて、ルシアの意識はゆっくりと覚醒していく。
背中の下の、湿った木の板の感触が、怖気を誘う。
「⁉︎ ここはっ」
飛び起きたルシアは、焦った。
周りを観察するまでもない。
糞尿と垢の混じった独特のすえた匂いと、底冷えのする寒さと、格子の隙間に青白く輝く細い月。
「わたくしが、絶命した場所……⁉︎」
「すまない……」
つまり、耳元で囁いているのは。
「貴方様を、恨んではおりませんよ」
ルシアは起き上がり、静かに正座をする。
心を平らかにする指印を体の前で結び、口の中で唱えるは、届けたい言葉だ。
「一切衆生悉有仏性、一切衆生悉有仏性、一切衆生悉有仏性……」
「ははは。生きとし生けるものは皆、仏になる素質がある、か。さすがだな」
姿は見えないが、相手の顔が綻んだのが分かる。
「ご心配なく。わたくしはこうして新たな生を、生きております。請われて呪を祓い、まじないを行い、方位や吉日を占い。充実しておりますよ」
「うん。うん。……だが、危機が迫っている」
「っ!」
「今のままでは、到底間に合わぬ。我にできることは、そなたの可愛がっていた式神を送り込むことだけだった」
「まさか」
フーッと大きく息を吐かれると、すえた匂いが清らかになった気がした。淀んだ空気が、晴れていく。
「ミツ。道を照らす光となる、我が愛しき妹弟子よ。家族を人質に取られたとはいえ、そなたを殺したのは、確かに我である」
「兄様!」
かつての名を呼ばれたルシアの見た目が、かつての自分に戻る。狩衣と烏帽子を身に着け、膝元には数珠と札が置いてある。全て取り上げられた、愛用のものだ。
身の内に、一層力が湧いてきた。
「まだ、兄と呼んでくれるのか。ああ、それだけで我にはもう、思い残すことはない」
「兄様⁉︎」
「気にするな、寿命だ。だから最期の命を、そなたのために使いたかった」
ルシアの体はやがて、暖かい光に包まれていく。同時に、語りかける声が、遠ざかっていく。
「……案ずるな。ただ、疾く行け。そなたが着くまで、そなたの懐刀は『か弱き命』を守って待っていることだろう」
「あにさま!」
「気をつけろ。怨念から生まれた蛇……呪いもそれだけ……」
「あにさまーーーーーっ‼︎」
○●
叫んだところで、ルシアの目が覚めた。
「ああ。ああ。ありがたく存じます」
手の中には何もない。狩衣を着てもいない。だがルシアは、夢ではないと確信していた。
「絶対に……助けます」