第7話 長旅
春うららかな昼下がり。
宰相室に呼び出されたルシアは、執務机の向こうでわざとらしい笑みを浮かべる宰相に、背筋を伸ばし立ったまま相対していた。
「ルシア。いきなりですまないが、出張を頼みたい」
いつもと違うのは、ルシアの右隣にジョスランが立っていることである。近衛騎士から『お見舞い係』へ正式に異動した彼は、モスグリーンのコートとウエストコート、白いブリーチズに黒いロングブーツを身に着け、腰にはレイピアを帯剣している。名誉騎士という称号があるから、王宮内でも帯剣が許されているらしい。
ルシアには貴族たちとの関係が深まった感覚はないが、表立つことのない何かを見聞きすることは増えてきた。ということは、余計な心配事――主に物騒なこと――も発生する可能性がある。
ジョスランの配属は、叔父が(義理の)姪を気遣ってのことでもあるのだろう、とルシアは渋々受け入れることにした。
ところが、二人で出張となると話は別だ。現場だけならまだしも、移動中もふたりきりなのは、婚約を保留にしている身としてかなり気まずい。できれば断りたいルシアは、すっとぼけてみる。
「出張とは、なんでしょうか」
「海は、好きかい?」
宰相にまともな返事をする気がないと分かり、思わず頭を抱えそうになったルシアは、ぎゅっと拳を握って耐えた。王国宰相に、付け入る隙はなさそうだ。
「好きかと問われましても」
前世では海辺の町で、豊漁と安全な航海のため祈祷を捧げたことがあるルシアだが、今世では王都から出たことがない。王都は王国内の主要道路が四方から集まる陸の中心にあり、海からは程遠い位置にある。
「行ったことがなくとも、覚えてはいないか。昔、海の絵本を読んでやっただろう?」
「そうでしたか」
ルシアの叔母――父の妹――を妻に迎えた宰相のフラビオ・イグレシア侯爵は、政務に熱中するあまり晩婚であり、歳の差の大きい結婚にかなり気を遣った。
度々実家のバルビゼ伯爵邸を訪れ、当時まだ幼かったルシアの、遊び相手をしていたのである。本人は物心つく前のことなど知らぬと言いたいが、前世の記憶があり大人と同じ思考回路をしていたため、覚えている。海に棲む神の話に興味が湧き、詳しく話を聞いたことを思い出した。
「海で何が起きているのですか」
「はああ。たまには雑談でもと思ったんだけどなあ。ジョスラン、この子はこんな風に愛想がないんだけど。良いのかな」
ルシアの唇が、また山の尾根を描くように歪む。他人の前で親戚にいじられることほど嫌なことはない。ルシアは、横に立っているジョスランを見る気にはなれず、代わりに宰相のニヤケ顔を睨んでおいた。
「そうでしょうか? ルシア嬢は表面に出ないだけで、中身は感情豊かですよね」
こんな風にしれっと言い切られては余計だ。
「ならよかった。コルトー伯爵領へ行ってもらいたいのだが、ジョスランなら場所、分かるかな」
「コルトー……海の近くですね。片道五日ぐらいでしょうか」
「騎馬ならね。馬車だと八日はかかるよ」
「そうでした」
王弟殿下の息子で王族扱いとなるはずのジョスランは、あくまでもお見舞い係の一員として振る舞っている。周囲に身分を明かすことなく、一介の騎士として在る自然な態度に、王族と見抜けなかったのも致し方がなかったなとルシアは改めて納得した。
とはいえ、王族と共に旅をするなど、気が引けるし面倒なことこの上ない。なんとか避ける道を探るべく、ルシアは再び口を開く。
「あの閣下、事前に依頼内容をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「もちろんだよルシア。コルトー伯爵には、マノンという十二歳の一人娘がいるのだが」
ふう、とそこで宰相は大きく息を吐いてから、真顔になった。
「その娘が……言葉を失ったそうだ」
息を飲んだジョスランがルシアを見やるが、ルシアは宰相を見据えたままだ。
「言葉を失った。喋れない、ということですか」
ルシアが尋ねると、フラビオは宰相から親の顔になる。彼の息子も同じ年頃だ。
「そうだ。喋れない以外に問題はない。最初は本人の意思と思っていたが、話そうとしても声が出ない様子なのだそうだ。医者も薬師も診察してみたものの原因が分からないと。一度『お見舞い係』に診てもらいたい」
ルシアは何度か瞬きをしてから、フラビオの真正面でキッパリと告げた。
「閣下。我々に、医術の心得はありません」
「もちろん分かっているよ。藁にもすがる思いらしいから、何か力になれないかなと思ってね。私もほら、一人息子の親だし。心配なんだよ」
避ける道はなさそうだ。
なにより、『喋れない』という表現が気になるルシアは、面倒よりも興味が上回った。
「……お受けいたします。先触れをお願いできますでしょうか」
また宰相の顔に戻ったフラビオが、
「良かった。ありがとう」
と微笑んだ。
ルシアは黙ってカーテシーをし、それに合わせてジョスランは礼をする。
宰相室で最も若いと思われる補佐官――紫色の髪の毛に銀縁眼鏡の青年――が開ける扉から廊下へ出てから、ルシアは大きく息を吐いた。
「喋れない子ども……」
憂鬱そうなルシアに、ジョスランが気遣うように声を掛ける。
「何か思い当たることでもあるのか?」
「いえ。子どもが苦手なだけです」
(子どもが苦手な女となど、結婚したくはないでしょう)
ルシアとしては、多少の牽制でもあったが
「うん。俺もだ」
とあっさり返されてしまっては、意味がない。
「二日後に出発、で良いでしょうか」
「分かった。タウンハウスへ迎えに行く」
「ありがたく存じます」
そうして二人は、王宮の馬車寄せで別れた。
○●
ルシアとジョスランはその二日後、馬車のキャビン内で向かい合わせに座っていた。
「……おいルシア嬢。具合は大丈夫か」
「うぶ。はい」
「大丈夫じゃないな」
二頭立て馬車を御するのは、バルビゼ伯爵家お抱えの腕の立つ御者であっても、街道が想定より悪路である。
王都近郊で石畳の間は良かったものの、郊外へ出た途端、泥や砂利の道に変わった。
馬車のキャビンを支える大きな木製の車輪は、小石を踏むとどうしても跳ねる。直線ならまだしも、畦道はガタガタ左右に揺れる。ルシアは、酷い乗り物酔いに襲われた。
今は御者が気遣って、かなりゆっくり走っているが、酔いは治まりそうにない。
「ふうむ。これでは到着がかなり遅れてしまう」
ジョスランが眉間に皺を寄せ腕を組んだまま、ルシアを見つめている。
旅装の彼は、ショートジャケットにドレスシャツとブリーチズ、黒いロングブーツ姿だ。
「すび、ば、せん」
ルシアは、ロングワンピースの上にボレロジャケットを羽織っていたが、息苦しくなったのでジャケットは脱ぎ、膝に掛けていた。
「ルシア嬢。提案なんだが。馬で行かないか」
「う、ま……? 乗れま、せん」
「俺の背中に掴まっておけばいい」
「はあ」
「馬車の揺れよりはマシなはずだ」
「はあ」
「次の町で手配しよう」
「はい」
思考停止でただひたすら頷いたルシアだったが――正解であった。
「馬、可愛いです」
「ははは。気に入ってくれて良かった」
御者には荷物のみを運ぶよう指示をし、ルシアはジョスランが操る馬の背後に乗ることになった。肌で直に風を感じながら走る馬の旅は、ルシアにとって初めての経験だ。
蹄が土や石を踏む音は心地良いし、同じ揺れるにしても馬の動きが読めるからか、それほど酔いも感じない。
「てっきり、もっと速く走るのかと」
ジョスランの背後からルシアがそう問い掛けると、ジョスランは手綱を操りながら、軽く振り返る。
「走るのは特別急いでいる時だけだ。馬を潰さないよう、町と町との距離を考えた速度で行かねばならない。適度な休息も必要だ」
「なるほど。さすが騎士様ですね」
「ふは。ルシア嬢に褒められると、気分がいいな」
ルシアの目の前で、ジョスランの後頭部でまとめられた銀髪が馬に合わせて揺れる。日差しを浴びて、キラキラと輝いているのを眺めているのもまた、楽しい。
「ご迷惑をおかけしてすみません」
「何をいう。慣れぬ長旅だ、疲れも出よう」
ルシアは黙ったまま、鞍の鐙革にくくりつけた手縄を、手袋をした手首に巻き付ける。これもまた、ずっと服を掴むのは大変だろうというジョスランの気遣いだ。
(……優しくされても)
ジョスランの気遣いに、ルシアは居心地の悪さを感じて、戸惑っている。
今まで、過酷な環境か、誰にも相手にされない孤独か、しかなかった。
家族ですら遠慮し踏み込んでこなかったルシアにとって、他人と会話をし、同じ時間を共有する経験はそれほど多くはない。
「せっかくの旅だ、景色も楽しみながら行こう」
ジョスランの提案に、ルシアがなかなか素直に頷けず背後で黙っていると――
「途中で甘いものを見つけたら、食べてみないか」
と提案され、ようやく「はい」と返事をした。