第47話 記録
副団長室の机の引き出しには、繊細な筆跡で書かれた膨大な記録があった。
『ジョスランが剣狂と名を馳せるきっかけとなった、ビッグホーンの大量発生は『スタンピード』に違いない』から始まった書物は分厚く、ルシアは読むのに二日かかった。
幼い頃から、自分には魔力があるのではと気付いていたマルスランは、密かに王宮図書室で魔法に関する書物を読み、研究をしていたらしい。
『スタンピードが起こった、ということは、少なくともその場所には『魔素』が一時的にでも大量発生したということだ。
何世代も前の魔法戦争で枯渇した、この『魔素』という資源が再びもたらされたならば。すなわち魔法が蔓延る世界となる。
危機感を持って魔法研究を公に推し進めようとしたが、貴族たちは自分の懐を肥やすことに夢中である。特に財務大臣のアギヨン伯爵による横領は、国庫にまで及んだ。
騎士団内も、団長のガエルに存在を無視され続けた辺境伯がクーデターを目論見、西の隣国と不穏な会談を始めている。
貴族の間に不可思議な出来事が起こり始めているのは、魔法が徐々に顕在化してきているからに他ならない。
――平和は、砂上にある。
王国は今すぐにでも、脆く崩れ去るだろう。一人怯えていたところに現れたのが、お見舞い係だった』
○●
王宮裏庭の最奥にある、塔の最上階。
膝の上に白トラ猫を乗せ、愛おしそうに背を撫でながら、半身が悪魔となったマルスランは微笑んでいる。
部屋の四隅に盛り塩、天井付近にはたくさんの封じの呪符、扉には結界の魔法陣を描いたこの場所で、マルスランは心穏やかに過ごしていた。
騎士団本部への悪魔襲撃から十日が経ち、ようやくルシアとジョスラン、クロヴィスが、三人揃って訪れている。
「これは、非公式です」
クロヴィスが開口一番断りを入れると、マルスランは眉尻を下げた。
「分かっているし、機密情報は話さなくて良い。僕に聞きたいことがあれば、いくらでもなんでも答えるよ」
「……僕?」
ジョスランが片眉を上げると、マルスランはふふ、と笑う。
「もう、取り繕う必要はないからね」
ふーっと大きく息を吐きながら、ジョスランは窓近くの壁に背をもたせかけ、苛立った声を出す。
「ったく。よくもあれだけ悪者を演じられたものだな。この俺に嫉妬だの、全部嘘だろう」
「全部が演技なわけでもないよ? 本心でもある。醜い心につけ込ませないといけなかったからね」
「……自己犠牲も、いい加減にしろ」
「怒られちゃった。僕の方が兄なんだけどな」
しばらく兄弟の会話を見守っていたルシアが、丸テーブルを挟んでもう一脚ある椅子に腰掛け、マルスランを正面から見据える。
「今から話すことは、わたくしの妄想ですが、どうかお付き合いください」
「事情聴取の下準備も兼ねていると受け取っていいかな?」
「いいえ。貴方様は、悪魔を討伐しようとして死に、火事に巻き込まれて遺体も消失しました」
瞠目したマルスランは、クロヴィスを勢いよく振り返る。あまりの激しい動きに驚いたヒスイが、膝から床に飛び降りて、ルシアの膝へ駆け上がった。
「どういうことだ、クロヴィス!」
「それも、ルシア様の妄想をお聞きください」
クロヴィスは、恭しい態度で持ってきた茶器から、カップにお茶を注ぐ。
相変わらず執事みたいだなとルシアが見ている一方で、マルスランは唇を噛み締め、それ以上何かを言うのを耐えた。
「っ……」
「はい。お茶を飲みながら、のんびり聞いてくださいませ――王弟殿下のご子息であり、王国騎士団副団長マルスラン様は、魔力を持っていました。貴族も庶民も魔力が失われて久しい世界では、魔法の知識は無くなっていたに等しい。ですが、貴族社会に不可思議な出来事が起き始めたのは、古の魔法使い台頭の証拠。そこでマルスラン様はお立場を使って、自身で近づくしかないと考えた。きっかけは、剣狂とも呼ばれるほどに剣の腕が立つジョスラン様が、ゾランダーを取り逃したこと」
ジョスランが、ゴクリと息を呑む音が聞こえた。
「この王国最強の騎士ですら、倒しきれない脅威的な存在。さらに続けて、コルトー伯爵領での異常事態。お見舞い係によってゾランダーの力が大きく削がれたのを良いことに、直接近づいて利用し、この王国最大の悪である辺境伯と財務大臣を消すことを思いついた。あれほどの権力を持つ人間を失脚させることは、難しい。けれども悪魔の仕業ならば、と」
ルシアは、ソーサーを持ち上げると一口、お茶を飲んだ。
「疑り深い辺境伯を納得させるために、大規模な洗脳をやって見せた。これで、あっという間に王国騎士団にとって代わることができる。だから西の国にはまだ手を出すな――抑止でもあったのではと思います。クーデターを画策していた証拠は、辺境伯トビア・ギルメットの長男から宰相閣下へ提出されています。西との密約も」
クロヴィスがルシアの意見は正しいとばかりに頷いて見せると、マルスランはやれやれと息を吐いた。
「長男はまだ、会話が成り立つ人物だったか」
マルスランの言葉に、今度は首を横に振ったクロヴィスが、言い訳のように説明する。
「いいえ。私が、騎士団長のガエルに公で謝罪させました。無視していたわけではない、能力のある人物だから信頼し、あえて接していなかっただけだ、と。まあ、嘘ですが」
しれっと最後に付け加えたクロヴィスに、この場にいる全員が苦笑する。
「我が父は猪突猛進で鈍感ですからね」
微妙な空気になった中、ルシアはヒスイの頭をくしくしと撫でながら、話を再開した。
「でも、先の戦争での救国の英雄です。ギルメット伯は、猛烈な嫉妬を抱えて狂っていったのでしょう。そこにつけ込むのは、悪魔なら造作もないこと。ゾランダーは人の悪意を喰らい、力を取り戻していった。そして、王国に本当に危機が迫っていることを見せつけるには、国王陛下に見ていただくしかない。王族にして副団長たる自分ですら、誰の意識も変えられないと痛感していたマルスラン様もまた、追い詰められていたのではと思います」
ルシアは、テーブルに載ったカップへ目線を落とす。
「……冷酷にも子どもの命を使い、騎士演習で、悪魔召喚をして見せた」
「うん。言い訳は、しない」
淡々と肯定するマルスランに、ジョスランが離れた場所から言葉を投げた。
「言い訳ぐらい、しろ。ゴタイは金のために自ら悪魔に魂を売った。あの孤児院、相当貧しかったらしいな。栄養失調や病気で……悲しみを隠すため、孤児院長は『悪魔が食べた』と話していたそうだ。五人もすぐ集まるとか、本当にこの国はどうなっているんだか」
ジョスランの心痛は、分かりすぎるほど伝わる。ルシアは姿勢を正し、言葉を続けた。
「王都の食堂――『五体満足』でも噂は聞きましたが、税を不当に上げている人間が多数いたようですね。それも財務大臣が亡くなったことで、財務省官吏たちのテコ入れがされ始めています。まさか大臣を悪魔に変化させるとは思いませんでしたが、あのようなことをしたくなるほどの醜さが、アギヨン伯にはありました。調べれば調べるほど、吐きそうです」
「悪は悪でしか裁けないのか、と僕も狂っていたよ」
「いいえ。貴方様は冷静でした。狂っていたならば、わたくしを射抜くだなんて、絶対にしない」
「……悪かった」
「謝って欲しいのではありません」
首を垂れるマルスランに、ルシアは微笑みかける。
「ギルメットもアギヨンも、本当にマルスラン様がと疑っていたのでは。ですが、宰相閣下の義理の姪であるわたくしを射抜いたと知れば、信を得られる。わたくしたちからも、敵だと見做される」
「うん。それにそうすれば、ジョスランが僕を殺してくれると思って。実際、すごい殺気だったよね」
ゴフッとジョスランが盛大に咽せたが、ルシアはとりあえず触れずにおく。
「悪魔召喚を機に、マルスラン様は騎士団に魔法研究部門を作ってはと働きかけました。それでも尚、足取りは重かった。誰もがまさかと思っていましたし、悪魔は騎士たちと偶然の落雷によって倒されたとされたからです。だからこそ、財務大臣が悪魔化した件は、高位貴族たちに絶大な恐怖を振りまくことに成功しました」
ルシアが目で合図をすると、クロヴィスが口を開く。
「魔法研究部門を設置する動きが、加速しています。マルスラン様の、弔いだと」
マルスランが、目を限界まで見開きクロヴィスを振り返る。
「そうか……! 王族が、悪魔に殺されたなら……!」
「はい。完璧な筋書きでしょう?」
「なんということだ……ハハ、ハハハ……僕の苦労も少しは報われた、かな」
マルスランは、天井を仰ぎ目をぎゅっと閉じ、しばらく何かを考えた後で、顎を引きルシアを正面から見据えた。
「そしてその妄想は、どこに終着するのだろう」
「ええ。ここからは、公に記録をさせていただきたいのですが」
おほん、とルシアが一つ咳払いをする。
「そのお姿のため、長い間深い森の中に隠遁していた『大魔法使いラン様』を、魔法研究部門へ招聘いたします。これはその、契約書です」




