第46話 封印
「調伏?」
わずかに首を傾げるマルスランに、ルシアは早口で補足した。
「悪行・魔障を祓う――滅する、理です」
「なるほど。この世界のものと融合した悪魔を送還することも、もはやできん……か」
ルシアは頭の中で、鬼退治の方法を反芻する。
――万全の準備をして封印するか、騙したり弱点をついたりして討伐するか、お願いしてお帰り願うか。
討伐しきれない。送還もできない。ならば残りは。
マルスランはルシアをチラリと横目で見てからジョスランを見やり、そして告げる。
「兄への情は消え失せたと思うが。最後まで手を抜くなよ」
「は? おい!」
なぜか満足げな顔をしたマルスランは、ルシアへ向き直る。
「このように短気で激情家だが、良い奴だ。弟のことを頼む」
そして返事を待たず、止めとばかりにゾランダーへ手の中にあった黒い火を放つ。
「さあ。ここに貴様の新たな肉体があるぞ」
「! ギャハアあ!」
恍惚とした顔に変わった悪魔は、黒い火魔法で今にも崩れ落ちそうになった肉体をあっさり捨てると、白い煙状の存在となってマルスランの体をぐるりと囲んだ。
「マルスラン!」
「マルスラン様!」
ジョスランとルシアが慌てる中、クロヴィスだけが、冷静に足元で赤く明滅する魔法陣を見つめている。
「まさか、これは……封印の、魔法陣? でも、逆だ……!」
ハッと顔を上げたクロヴィスとマルスランは目を合わせ、
「逆を、正に」
と告げると、目を閉じ大きく息を吸い込み始める。
そうしてマルスランは、自身を取り巻いている白い煙を、全て吸い尽くす。
「おい、おいおい、なんだ、なんなんだ!」
ジョスランが、頭をかきむしり感情的に叫んだ。
「訳がわからん! 敵だっただろう! なんでこんなっ」
「ジョー。今は、封印を」
ルシアが言葉で、クロヴィスが肩に手をかけて落ち着くように諭すが、ジョスランは乱暴に払い除ける。
「マルスラン! 貴様、何考えてっ」
殴りかかろうと歩を進めるジョスランを、クロヴィスが必死に背後から羽交締めにする。
「副団長室の机の引き出しに、全てがある」
煙を吸い尽くしたマルスランは、穏やかに笑っているだけだ。
「さあ、お見舞い係。今こそ逆を正に」
一層強く輝く足元の魔法陣に、『逆五芒星』が浮かんだのを見たルシアは、刀剣の構えをした右手を宙に掲げた。そして、
「バン ウン タラク キリク アク」
と唱えながら指で宙に五芒星を描き、最後に中心へ――マルスランの心臓に向けて――「エイ」と点を打った。
「が、ふ」
ドン! と押されたかのようにふらつき、吐血したマルスランの左胸へ『正五芒星』が浮かぶと、足元の魔法陣がゆっくりと回転しだした。
ジョスランとクロヴィスが驚きと共に見つめている一方で、ルシアは懸命に頭を働かせている。
(封ずるには、中が空洞でなければ……だから血を吐いて……)
ルシアの知識では、悪しきものは壺や洞窟、岩や部屋に封じて、札を貼ったり縄を張ったりする。
人体に悪魔を封じる方法など聞いたことはないが、マルスランは魔法でそれをやろうとしているのだろう。
(そんなの、地獄の苦しみが未来永劫続くのと一緒だわ!)
不死の悪魔を封じるための、人身御供でしかない。必死で考えるが、想定外の事態だ。満足な道具など、持ってはいない。
ルシアが焦っていると、どこからかドカドカと足音や人の声が近づいてきた。
「しまった、足止めも限界かっ。時間切れです!」
クロヴィスが言いくるめて止めていた騎士たちが、雪崩れ込んでくる気配がする。
「はあ、はあ。……よし、悪魔は、私の、中に。早急にどこかへ、封じろ。とりあえず、地下牢でいい」
「いいえ!」
途切れる声を絞り出すようなマルスランへ向かって、ルシアは決意と共に顔を上げた。
「良い場所がある! ヒスイッ」
「がおん」
「塔へ戻るわよ」
○●
ヒスイの背に乗ってきたルシアとジョスランは、ルシアが幽閉されていた塔を見上げている。
背中にマルスランを担いだジョスランが、ルシアの背後で苦々しい顔をした。
「こんな場所があったのか」
クロヴィスは、現場の消火と整理のため騎士団本部へ留まったが、ルシアが「塔に行く」と言っただけで通じた。おそらく一定の役職以下には秘匿されている場所なのだろう、と察したルシアは、ますます正解だと思った。地下牢では、騎士に紛れていくらでも出入りが可能だからだ。
「ん、ゴフッ……」
ジョスランの背で、マルスランが再び吐血した。
「急がねば……ヒスイ! ぶち破って!」
ルシアは、塔の壁から落ちた。そのため入り口の分厚い木の扉には、頑丈な鉄の錠前と、スライド式の太いデッドボルトがあり、当然鍵が掛けられたままだ。
「わ、たしが、開け、る」
ジョスランの背後からマルスランが軽く手を振ると、ガチンと音が鳴って鍵が開いた。
「それも、魔法か!」
ジョスランが感嘆の声を上げると、マルスランは薄く笑う。返事をする気力はもうないようだ。
全員で螺旋階段を駆け上がり、ルシアが幽閉されていた部屋の、隣の扉の鉄の輪にジョスランが手を掛け引いてみると、幸い鍵は掛かっていなかった。
ルシアが居た部屋と同じように、天蓋付きベッドとウォッシュスタンド、丸テーブルと椅子が一脚という簡素さで、窓には鉄格子が付けられている。
「椅子に座らせて!」
「分かった」
ルシアの言葉に従い、ジョスランはマルスランを丁寧な仕草で背中から下ろし、椅子に座らせた。
ぐったりと俯き項垂れるマルスランを、床に膝を突き心配そうに下から覗き込む。
「ジョー、離れて。巻き込まれる」
「ルシア……」
不安げな顔をしたジョスランが、渋々といった様子で立ち上がり、扉付近まで下がった。
入れ違いにルシアはマルスランに近づくと、諭すようにゆっくりとした口調で告げる。
「マルスラン様。あなたごと、ここに封印します」
「はや、く。わた、しの力の、げんか、いが」
「はい」
ルシアは袂から塩の入った小瓶を取り出すと、素早く歩いて部屋の四隅に振りまいた。
それから、禹歩を始める。足を三回運んで一歩進むという独特の歩き方で、ルシアは北斗七星を踏んで歩くことをイメージして、少しずつマルスランへ近づいていく。
「強力な結界を張ります。ヒスイ」
白虎から虎獣人の姿になったヒスイが、身につけていた翡翠石のバングルをルシアへ手渡す。蛇神に憑かれたマノンを守っていたもので、破邪の力がある。
「これで、貴方様のお命を守ります」
「そんな、こと、は」
「いえ。貴方様のお力が、必要です。良いですね」
マルスランは諦めたように笑うが、ルシアは、真っ直ぐに彼を見つめ返す。たとえやり方が間違っていたとしても、彼は悪魔を封じるために全ての事を起こしたと確信したからだ。
「貴方様の背負う、この世界の禍々しきものを。わたくしが、必ずお祓いいたします」
マルスランの手首にはめたバングルへ、護身の呪を唱えると、ルシアは意を決して立ち上がった。
「ルシア!」
焦ったジョスランが近寄ろうとするのを、ルシアは厳しい口調で止める。
「入ってきてはいけない。万が一悪魔が暴れ出したら、人間ごと斬って。お願い」
「……分かった」
実の兄を、今度こそ殺せ、ということだ。
ジョスランが帯剣の柄を握る手に力を込めるのを見て、ルシアは微笑んでみせる。
「お任せください。一切合切、お見舞いいたしますから」
それからルシアは左手を鞘に右手を剣に見立てて、抜剣するようにして右手を振り抜くと、そのまま下唇へ指先を当てた。
「我には、神聖なる守護獣・白虎在りて。邪な魂を、押し留めんとす。この場所へ、破邪顕正の守りを授ける。……臨兵闘者皆陣烈在前!」
九字切りを行うと、マルスランの足元から竜巻のようなものが起こった。黒い風がぐるぐると、椅子に腰掛けるマルスランを中心に渦巻き、マルスランは苦悶に顔を歪め始める。
「う、う、ぎゃあああああ!」
やがて激しく苦しみ出したマルスランの右の頭頂からは、ヤギのような角が一本生えだし、右の白目は黒く染まる代わり、左の虹彩は赤く染まる。右頬も、黒い鱗のような肌に変わり、指先からは黒い鉤爪が生えてきた。
「「うぐ、ぐ、負けぬ。私は、貴様を、決して」」
マルスランの声と、ゾランダーの声が二重になって発せられる。
みるみるマルスランの右半身が悪魔のように成っていくが、左胸ではルシアの描いた五芒星が眩い光を発していた。
マルスランは椅子の肘掛けに置いていた左手を、最後の力を振り絞るようにして持ち上げると、手首にある翡翠石のバングルを、右胸に強く押し当てた。
それから肩で大きく息をしながら、呟く。
「……シール!」
――ルシアが振りまいた塩を巻き上げ、風の色が黒から白へと変わり、徐々に収まると、すっきりとした顔のマルスランが笑った。
「はあ……さすがお見舞い係だ。半分で、済んだ」
半分、悪魔の顔で。




