第44話 嫉妬
「クハハ、そこから落ちタラ、どうなるかナ」
バサリと翼をはためかせたゾランダーが、再び風魔法を唱える。大きく腕を振るわれると、ルシアの体は浮き上がったと認識した瞬間、あっという間に外へと押し出されていた。
「わっ」
宙に浮く、という経験は滅多にあるものではない。
ルシアは務めて冷静に状況を把握し、この高さから落ちたら即死は免れないと悟り、ヒスイへ目で合図を送る。
塔の最上階から落下し始めたルシアが仰向けの姿勢のまま、自分が落ちた穴を見つめていると、すぐにヒスイが飛び出してきた。
「主!」
白虎は塔の壁を走り、落ちているルシアに追いつくと、壁を蹴ってルシアの下に体を潜り込ませる。ルシアはすかさず身を翻してその背に乗り、手の下で躍動する筋肉を感じながら身を任せた。ヒスイは壁を蹴った勢いそのままに、近くに立つ樹木の幹まで到達するや、後ろ足で蹴った。ばさり、と大きな音がして葉がいくつも舞うのを、ルシアは不思議な気持ちで眺めている。そうしてヒスイは、別の樹木の幹へ飛び移っては蹴るのを繰り返しながら下へ下へ降りていき、やがて鮮やかに着地した。
「ふー。ありがとうヒスイ。お陰で外に出られたわね」
ゾランダーからすれば、ヒスイの存在は想定外なのだろう。ブリアック侯爵を祓い、ゾランダーの体に致命傷を負わせた時は、まだヒスイと再会していなかった。
「とりあえず、ジョーと合流しましょう」
「わかった」
駆け出す白虎を、バサバサと翼の音をさせながら、空から悪魔が追いかけてくる。
「おのレ」
ルシアが顔だけで振り返ると、怒りに顔を歪ませているのが見えた。
前方に見えてきた裏庭と王宮を隔てる建物の通用門には、鉄格子が降りている。
「飛び越えられる?」
「もちろん」
ヒスイは石壁を蹴りながら軽々と屋根の上まで駆け上がり、屋根を伝って王宮中庭に降り立った。美しさを誇っていた庭園は、異形化した財務大臣が壊した爪痕が生々しく、ところどころ人が入れないように鎖が張られている。
「えーっと騎士団本部は……どこかしら」
「こっちだよ〜」
ジョスランへ紙人形を届けてもらったお陰で、ヒスイは位置を把握しているらしい。
全力で走る虎は、凄まじく速い代わりに、それほどスタミナはない。
ところが式神であるヒスイは、ルシアが呪でいくらでも力を与えることができる。
「我が守護獣白虎よ、西の守神よ。弓矢よりも疾く行け、急急如律令!」
「がおおおん!」
咆哮し、庭木やガゼボの屋根を飛び越えて、ヒスイは全速力で走った。
背後からゾランダーの魔法が何度も襲いかかるが、身を翻し跳びあがり、躱し続ける。
「おのレえェぇえええ!」
苛立ちで自我を失った悪魔は、がむしゃらに魔法を放ち始めた。
「奴の存在で、わたくしたちの無実を証明するためには……ヒスイ、本部前でわざと建物へ攻撃させるの。できる?」
「うん!」
ルシアはヒスイの背の上で身を低くし、目の前の建物を睨む。
躍動する白虎が、東へ向かって伸びている建物の壁づたいに走り始めたのを確認したルシアは、式札を取り出し口の中で呪を唱える。
「爆ぜよ!」
すかさず背後へ式札を投げると、空中で小さな爆発が起き、飛んでいた悪魔の視界を僅かな時間遮る。
「効かぬわ!」
ゾランダーは怒り狂ったまま、また魔法を唱え始めた。今度は先ほどまでとは違い、非常に大きい竜巻が二本、それぞれの手の先に発生している。
「ヒスイ! 来るわよ」
「がおんっ」
二つの竜巻がゾランダーの前で一つに合体したかと思うと、中庭の土や草花、備えられていたベンチやテーブルまで巻き上げながら、ルシアたちへ向かってくる。
巻き込まれたら、間違いなくズタズタになる。それぐらいの威力だ。
「死ねえっ!」
ゾランダーの叫びを聞きながら、ルシアはヒスイの背中にしがみついた。
○●
「私への忠誠だ」
「……そういうことか」
ルシアがこのセリフを聞いたらどう思うだろうか、と想像したジョスランの背中を、寒気が走った。
術をそのようなことに利用されたなどと知れたら、怒り狂うに違いない。
あいにく、今のジョスランは丸腰だ。
武器を構えられている複数の騎士相手に、戦う手段は拳しかない。近接戦闘は、間合いで遥かに不利であり、致命傷を与える観点でも得策ではない。普通なら逃げの一手を選択するが、ジョスランは机を蹴り上げ拳を構えた。
虚ろな表情の騎士たちが剣を構え、ずりずりとジョスランへ近づいてくる。団長までもが、魂の抜けた単なる兵力と成り下がっているようで、ジョスランは悲しくなった。
「こんな、洗脳した奴らなぞ、俺の敵ではない。剣がなくて良かった。殺さずに済む」
「そんな強がりは、いつまで持つかな」
マルスランは余裕の表情で部屋の扉口まで後退し、様子を窺っている。
「チッ。相変わらず人任せか。良いご身分だ」
いつでも逃走できるようにとの動きに、ジョスランは侮蔑を込めてペッと唾を吐き捨てると、背後から斬りかかろうとしていた騎士の頬へ回し蹴りを入れた。
ノーモーションで動いたためか、想定外の攻撃を受けた騎士は、まるで人形のように部屋の隅まで吹っ飛んでいく。それでも周囲の騎士たちは無反応で剣を構えたまま、ジリジリとジョスランへ近づいてくる。
「心の入ってない剣に、剣狂が負けるかよ」
「……いちいち癇に障る奴だ」
憎悪を含んだマルスランの目線を受け止めたジョスランは、わざと嘲笑う。
「混乱に乗じて、か弱い女性を射抜くしか能のない臆病者がいくら洗脳したって、勝てるわけがないだろう」
「貴様」
「しかもそれは、ルシアの力を利用しただけだ。全く小賢しいことだな!」
煽る言葉を吐き散らしながら、ジョスランは拳と蹴りを繰り出し続ける。
事情聴取していたのは、そう広くはない室内だ。
満足にお互いの間合いを取ることができない騎士たちは、思考が働いていないこともあってお互いの手首を斬りつけてしまったり、肘がぶつかりバランスを崩したりしている。
ジョスランは体軸が崩れた相手の、防具のない人体の急所――こめかみや人中、頸椎、脇から肝臓を狙ってのボディ――を執拗に攻め立て続けた。
騎士の中には、剣を持つ手がブルブル震えている者まで出始めている。確実にダメージを喰らっているのに、洗脳されているからか、攻撃の手は緩まない。
ジョスランもジョスランで、手加減するつもりは毛頭ない。この状況を打破しなければ、おそらくルシアは罪を着せられ殺される、と確信しているからだ。
「もうやめろ! 内臓が、破裂するぞ!」
止まらない。倒れない。気絶もしない。ただひたすらに斬りかかる仲間へ反撃し続けるジョスランを、心の痛みが襲う。このままでは、斬らずとも蹴り殺してしまう。
「はっは! 殺すがいいぞ、ジョスラン。殺せ。そうしたら、謀反で斬首刑にしてやる」
意識がなくとも、日頃訓練で鍛えられた騎士たち、ましてや団長までいるのだ。
立ち塞がる彼らを完全に排除するのは困難で、愉悦の表情で見ているマルスランまでの十数歩が、果てしなく遠い。
「くそっ」
歯軋りをしたジョスランの口の中に、鉄の味が広がる。
切れたか、切ったか。
このままでは埒が明かない、と焦るジョスランの目の前の窓が、突然たわんだ。
「⁉︎」
金属製の窓枠が、外から押されたように歪んだ、と思ったと同時に、一斉にパリン! と窓ガラスが割れ、強風が吹き込んできた。
ジョスランは咄嗟に顔を両腕で庇ったが、騎士たちは露出している肌にガラスが突き刺さり、次々と出血しながら倒れていく。
「なんだ⁉︎」
部屋の明かりが全て風でかき消え、細い三日月がもたらす頼りない月光だけでは、視界が利かない。ジョスランがどうしたものかと慎重に部屋を見回すが、マルスランにとっても想定外の事態のようで、微かに動揺している様子が見て取れる。
全ての窓ガラスが吹っ飛んだのを確認してから、ジョスランは窓枠まで駆け寄った。すると建物のすぐ側の階下に白虎に乗ったルシアと、ルシアに対峙して翼をはためかせて飛ぶ悪魔が目に入った。
「ルシアッ‼︎」
腹から叫んだジョスランの声に、ルシアが気づいて振り返る。
「ジョー! こやつが、ゾランダーよ!」
闇夜を切り裂く甲高い声に、ジョスランは瞠目した。
そしてマルスランを振り返り、心底軽蔑したとばかりに、言葉を投げつける。
「悪魔まで使うとは! 見損なったぞ!」
「うるさい」
マルスランは冷たく言い捨てると、床に倒れている騎士たちを踏みつけながら、ジョスランへ一歩一歩近づいていく。
「貴様のような才能がある奴には、分かりようもないだろう。喉から手が出るくらいに欲しがっていたものを、横から、しかも興味も全くなかった貴様に、全て取られる悔しさが」
「そんな……貴様の、ただの嫉妬だろうが! そんなことで、こんなことをやったって言うのか!」
ジョスランが驚愕と呆れで動けなくなっていると、マルスランはニタアと笑う。
「ああそうだ。こんなのは、貴様をとことん辱めて殺すための、ただの嫉妬だ」




