第43話 素顔
ルシアは右人差し指と中指で式札を挟むと、首を傾げるメイドへ向けて放った。再び刀剣の構えをした指を下唇に当て、素早く呪を唱える。
「西の守護獣たる、白虎よ。破邪顕正の力を今こそ示せ。真の姿を暴け。急急如律令!」
式札は翠の炎を発しながら白虎に姿を変え、太くて大きな爪を持った前足でメイドへ襲い掛かる。
「ちっ」
舌打ちの後で、メイドは老婆から青年へとその姿を変えた。癖の強い赤毛にそばかすの目立つ鼻頭と、左目の下に切り傷のような痕がある。確かに特徴的な見た目で、クロヴィスが面貌を聞いただけで疑いを持ったのも頷けた。
ゾランダーが両腕を前へ突き出すと、旋風が巻き起こり、ヒスイは身を翻してルシアの脇へ駆け戻る。
敵の変身は解けたものの、魔法で反撃する気か、とルシアは身構えた。
「それがゴタイ……いいえ、ケンの肉体ね」
「ふん。だからなんだと言うのだ」
ゾランダーの足元で禍々しい風が渦巻き始め、家具の脚が浮いたのか、ガタガタと音を鳴らしている。
「わたくしを暗殺して、あとはどうするつもり?」
「さてね」
風だけではない。ルシアへの敵意が、空間を歪ませている。床に紫の魔法陣のようなものが現れ、明滅し始めた。
ルシアは図柄を一瞥してから、ゾランダーに向き直る。
「それに、見覚えがある」
「ほう」
「まさか悪魔召喚が、ゾランダーの魔力復活のためだっただなんて。子どもを犠牲にしてまで……蛆虫め! 反吐が出るっ!」
ルシアの侮蔑を受け流したゾランダーは、嫌な笑みを浮かべながら何かを唱えた。たちまち鋭い風がルシアを引き裂こうと襲い掛かるも、すぐさまヒスイが立ち塞がる。白虎が腹の底を震わせるような大きな咆哮を上げると、攻撃は全て一瞬でかき消えた。
「十二天将がヒスイに、偽りの魔力など通じないわよ」
「偽り、だと⁉︎」
プライドを刺激されたのか、ゾランダーは唇を歪め訳の分からない言葉を叫んだ。恐らく、呪文だろう。
「古の崇高な究極魔法を、喰らうがいい!」
「だから?」
「消えろ! 爆発しろ!」
ルシアはゾランダーの言葉をまるで聞いていないかのように、冷静に内縛印、転法輪印、剣印、刀印、外五鈷印……と複雑に手を組み替えながら真言を唱える。
最後に、
「ノウマクサンマンダ バザラウン ハッタ!」
と両拳を体の前で握り合わせるような外縛印を行うと、先ほどまで部屋の中を吹き荒れていた風も、床で明滅していた魔法陣も、たちまち消え失せた。同時に、ゾランダーも金縛りにあったかのように動きを止める。
「う?」
「動けないでしょう。言葉には力がある。それが呪というもの。知識があろうと、唱えるだけでは意味がない。薄っぺらい付け焼き刃で人の心を支配することなど、できやしない」
ルシアは、カッと目を見開く。
「我には不動明王様のご加護あり。この世界の自然の神々よ、我はご加護のもと、あらゆる忌み事禍事を打ち祓いたく、清め祓い給えと畏み畏みも白す」
「ばふぉーーーーーーーーっ!」
ルシアが唱え終わると同時に、唾液を撒き散らすゾランダーの頭頂から山羊の角のようなものが生え、肌が黒く染まっていく。
「悪魔の魔力を喰らって復活を目論んだんでしょうけど。悪魔ってそんなに甘くないわよ」
甘言で人に取り入り、誘惑し、魂をむしゃぶり尽くすことを楽しむ。それが、悪魔だ。ルシアの前世では鬼と呼ばれていた、忌むべき存在である。
人が、敵うわけが無い。
だから万全の準備をして封印するか、騙したり弱点をついたりして討伐するか、お願いしてお帰り願うか、なのだ。
「ぐるるる許さん、ユル、ユルさん。お見舞いがかリィーーーーーーッ」
「そんな個人的恨みなら、端からひとりで来たら? わざわざ王国を巻き込まないで欲しいわね。めんどくさい」
「貴様ァ、ドコまでも、愚弄しヨッテえ」
ゾランダーの体がメキメキと膨れ上がり、両手には真っ黒な鉤爪が生え、背中には蝙蝠のような翼が生える。まさに、ケンと騎士演習場で召喚された悪魔の融合体だ。
「あら意外。まだ意思が残っているだなんて」
ルシアが挑発すると、眩く光る両眼からピカッと光が放たれた。咄嗟に伏せると、ルシアの背後の石壁に穴が空く。
「……そんなことして、良いの?」
流れる冷や汗を隠し、ルシアは余裕ぶってさらに挑発する。
「あなたのご主人様は、怒るんじゃない?」
「コロせば、分からン」
(やはりゾランダーは、使役されている!)
ルシアの脳内を、走馬灯のように今までの出来事が駆け巡る。
演習場の対角からでも正確に人を射抜く弓矢の腕と、王宮内情に詳しく、出入りしても違和感のない人物で、アカデミー出身者。辺境伯と財務大臣の在りようを憂うほどの、愛国心と正義感を持つ一方で、剣狂と名高いジョスランへの憎悪とも言える、激しい嫉妬心。
(間違いないっ)
「今すぐ、死ネ」
またピカッと閃光が走ると、ルシアがテーブルを置いていた窓際の壁に、ついに大穴が空いた。
ドガン! ガラガラガラガラ……
派手な音を立てて、分厚い石壁が外へ落下するのが聞こえると同時に、夜風が部屋の中へ吹き込んでくる。
日没後の外の空気は夏の終わりとはいえ冷たく、中庭最奥端に建てられた塔周辺に人の気配はなく静かだ。
「クハハ、そこから落ちタラ、どうなるかナ」
バサリと翼をはためかせたゾランダーが、再び風魔法を唱えた――
○●
ジョスランは、長時間にわたる事情聴取で、苛立っていた。
騎士団本部にある個室の一角で行われている対面の聴取は一方的なもので、ジョスランの怒りは凄まじく、部屋の温度を上げていると錯覚するぐらいだ。
対面に座っている副団長でジョスランの実兄であるマルスランが、眉根を寄せた。
「感情的になるな」
「そりゃ、なるだろう! なぜルシアを幽閉する必要がある⁉︎」
「怪しげな召喚術を使われては、たまらんからな」
「だから、あれはルシアの魔法ではない、何者かが」
「証拠は」
「俺たちは! 悪魔退治に多大な貢献をしただろう!」
「そんなのは証拠にならぬ」
「自分で喚び出して倒すだと? なぜわざわざそんな面倒なことをする必要がある!」
「だからその理由を聞いている」
ジョスランは、簡素な木の机の天板を力任せに拳で叩いた。メキャ、と不穏な音がする。
「……団長も、同じ考えか?」
騎士団長のガエルは、マルスランの背後で腕を組んで聴取を見守っていた。
ギロリと赤い目が睨め上げると、ガエルもさすがに少し臆した様子を見せる。それを誤魔化すためか、大きな咳払いを一つしてからしわがれた声を出した。
「無実ならば、すぐに証明できよう」
「答えになっていない」
部屋には、他にも師団長レベルの人間が十人ほど詰めていた。
剣狂の戦闘力を見込んでの万全な体制に、ジョスランは深く長い息を吐く。
「そもそもはじめから疑ってかかっていることが、俺からすると疑わざるを得ない」
ジョスランは、机の天板に肘を置いてマルスランに詰め寄った。
「……何?」
「マルスランは、弓の名人だ。あれだけの混戦と動揺の中、華奢な女性の肩を射抜くなど造作もないだろうな」
「何が言いたい」
「俺が母を殺した、と陰口を叩いているだけなら良かったが。まさかこのような蛮行に出るとはな……親父が知ったらなんと言うだろうか。説教どころか自ら首を斬れと陛下に迫るかもな」
「世迷言を」
マルスランの声には抑揚がないが、明らかに目には侮蔑の色が浮かんでいる。
もう一押しか、とジョスランは喉を鳴らす。ルシアに言われた時は信じられなかったが、今では首謀者はクロヴィスではなくマルスランだと確信していた。なぜならジョスランの目には――
「母上。兄の間違いは、俺が正す。だからそんな悲しそうな顔をするな」
悲しげな顔でマルスランに寄り添う、実の母が見えている。
「はー。貴様はまたそのような嘘を」
「マルスラン。この世に非ざるものを見る俺のこの能力は、魔法だ」
まつ毛の長く青い大きな目が、限界まで見開かれた。なるほど兄は母親似か、とジョスランは変なところに感心する。
「俺に魔力があるということは、兄にもある可能性が高い」
「な、にを言っている」
「悔しいか? 剣技も魔法も持っている。名声も、地位も、権力も――挙句の果てに婚約者も」
「黙れ!」
端正な顔立ち。柔軟な態度で、美麗な騎士。夜会では女性の羨望の的。
だが、剣技では剣狂に及ばず、クロヴィスの尽力でようやく副団長になったものの、遠征が多く縁談はまとまらない。目立つ戦功は、まだない。
憤怒に歪んだマルスランの顔を見たジョスランは、あえてそれを嘲笑った。
「やっと素顔見せたな、マルスラン。醜い首謀者」
「ふ。首謀者は貴様だろう。縊り殺してくれる」
「やってみろ」
マルスランの言動は、騎士としてあるまじきものである。
ジョスランを断罪する根拠も乏しい。だが、副団長が立ち上がり手を挙げると、団長含め部屋にいる騎士たちは全員それに従い、抜剣した。
「おいおい、貴様らまでおかしくなってんのか」
「……ハハハッ! 辺境騎士の洗脳を解く時、お見舞い係は、何をした?」
――洗脳を解くには、別のものを信じさせるのが手っ取り早い。
「王国騎士団への、忠誠ッ」
「いいや」
マルスランがもったいぶった様子でキキキキと剣を抜く。
「私への忠誠だ」




