第40話 血戦
ヒスイが巻き上げる炎の嵐の中、クロヴィスが
「逃げてくださいっ!」
と必死に叫んでいる。
黒いフロックコートの裾や襟がはためき、右腕で自身の顔を熱から庇っていて、ルシアたちの位置から表情はよく読み取れない。
アギヨン伯――化け物は、『ギャギャギャ』と笑いながらのそのそと殴ろうとしたり噛みつこうとしたりするが、動きが鈍く遅いため、全て失敗している。
「いいえ!」
ルシアは、九字で場を清めたあとで制服の袖の袂から式札を取り出した。ジョスランは戦闘体勢を崩さず、言葉だけでルシアの行動を止めようと叫ぶ。
「何してる!」
「クロを助けます!」
「無茶だ、準備も何もしてないんだぞっ」
ジョスランは元騎士なだけに、状況を見て冷静な判断を下した。
「退けっ!」
「いやです」
「死ぬぞ!」
ルシアは下唇を噛み、足を踏み止める。
「目の前の人を助けずに逃げるだなんて、死んでも嫌!」
「助けないなんて、言っていない! ……邪魔だから、下がれ!」
「え」
「二度は言わん!」
話しながらジョスランが、剣の構えを変えた。
盾を持たないので両手で柄を持ち、目の高さまで持ち上げ刃先を化け物へ向け、腰を落とす。
「俺が剣狂たる所以。離れて見ているがいい」
ジョスランは言い捨てると、ルシアが返事をする前に――前方へ跳んだ。
○●
後頭部で縛られた長い銀髪が、ルシアの視線の先で鮮やかに舞っている。
床を蹴って跳躍した剣狂は、化け物の首のあたりを剣先で打突してバランスを崩させた後、剣を抜くため全身を回転させながら体表面を蹴り飛ばし、勢いのまま返す刃で大きく袈裟斬りをした。
流れるような一連の動きに魅せられ、ルシアはジョスランから目が離せない。
「主!」
「っ、……翡翠の破邪よ、今こそその真価を発揮せよ。急急如律令!」
ヒスイの声で我に返ったルシアは、ヒスイの力を強力にする命令をしながら式札を投げつける。紙が空中で燃え尽きると、ヒスイは「ガオオオン!」と咆哮し、白虎の姿になった。躍動する大きな爪が、化け物に襲いかかる。
クロヴィスは、激しく燃えた炎の近くに居続けたため酸欠にでもなったのか、肩を上下させながら床に片膝を突いた。ルシアは必死に駆け寄り、肩を貸す。
「退くわよ!」
「っ、は、はい」
ルシアに声をかけられ再び膝に力を入れたクロヴィスは、残りの力を振り絞って立ち上がり、ルシアと二人三脚の要領で扉口へと歩いていく。
それを横目で確かめたジョスランが、剣を体の真正面に構え直した。
「行くぞヒスイ!」
「ガオン!」
部屋の端まで下がったヒスイは、床を思い切り蹴って走り出すと、化け物へ全力の体当たりを喰らわせる。
「あぎゃぎゃぎゃ」
悲鳴と共に、炎で焼け爛れた皮膚がぐじゃりと潰れる音がし、ドンと窓際へ背中を打ち付けたかと思うと、窓ガラスが割れ石壁にビシビシとヒビが入っていく。
ヒスイが何度か体当たりを繰り返すと壁全体にヒビが広がり、ジョスランが化け物へ前蹴りを喰らわすと、ついに外側へ崩れ落ちた。
財務省の詰所は、建物の二階にある。壁一面に大きな穴が穿たれると同時に、バランスを崩した化け物の巨体は、中庭へと落ちていく。
「逃がさん!」
「がうっ」
ジョスランは剣を両手持ちで脇構えにし、躊躇いなく飛び降りる。ヒスイもそれに続いた。
「ジョーッ!」
ルシアが窓際に駆け寄ると、背後をクロヴィスもついてくる。崩れた石壁に足を掛けると、ガラガラと石が滑り落ちた。
眼下では、中庭で戦闘が続いている。
「くっ」
追いたいが、ここから飛び降りるのは無理だろう。ルシアが迷っていると
「掴まってください!」
返事をする前に、クロヴィスはあっという間にルシアを横抱きにして、中庭へ飛び降りた。
「無茶なことを!」
「うぐ。お忘れ、ですか? こう見えて、元、騎士ですよ」
地面に両足を着けたルシアが見上げると、額から血や汗を流しているクロヴィスは、不敵に笑う。人を抱えて二階の高さを飛び降りるなど、正気の沙汰ではない。だが異常事態で痛みなどは感じなくなっているのだろう。何事もなかったかのように走り出した。
頭上の建物の中では、騎士たちが「降りるぞ!」「迂回しろ!」「人を集めろっ」と大騒ぎしているのが聞こえる。
ルシアは憂鬱になりながらも、クロヴィスの背中を追いかけた。整えられた植栽や花壇、見事な細工の噴水を破壊しながら暴れる巨大な化け物は、日光の下にあってグロテスクな見た目を晒している。
肉の塊はブヨブヨとうねり、赤黒くて太い腕が、ジョスランやヒスイを掴もうと宙を空振りしている。
口と思われる箇所からはギトギトの唾液が吹き出していて、両目は脂肪に押しつぶされもう見えない。
ここは、王宮内の中庭だ。
王宮は言うまでもなく、王族をはじめとした貴族たちがたくさんいる場所である。
建物の中ならまだしも、外へ出てしまえば、巻き添えも辞さない状況になってしまう。
「クロ。結界を張るわ! この護符を正五角形になるように地面に置いて欲しい」
「お任せを!」
クロヴィスは、ルシアが差し出した札をひったくるようにして掴むと、化け物を中心に中庭を一周するように走る。走りながら、五箇所に札を置いた。
動きを察知したジョスランが、化け物をその場に押し留めるため、様々な方向から攻撃を繰り出している。
息を切らせたクロヴィスが戻ってくると、
「バン ウン タラク キリク アク」
ルシアは指で宙に五芒星を描き、最後に中心に「エイ」と点を打った。
石畳の上に、光の五芒星が描かれる。
「ウギャアアアアアアアッ」
化け物が苦しそうに空を仰いで叫ぶ頃、ようやく騎士団長と副団長が駆けつけた。
それを見たジョスランが、化け物と対峙したまま怒鳴る。
「団長! 止めを!」
ルシアの結界で弱り、ジョスランの攻撃で体のあちこちに傷を負った化け物は、すでに瀕死だ。
ガエルは苦々しい顔をしながら、剣を抜いた。
「っはん。つまらん気遣いをしよって!」
騎士団長の剣はバスタードソードと呼ばれる、片手持ちも両手持ちも対応するロングソードだ。攻撃力が高く、間合いも広い。
ガエルは年齢を感じさせない機敏な動きで構えると、石畳を蹴って飛び上がり、化け物の正面で剣を水平に振り切った。
「ぐぎゃ……?」
戸惑いの声を上げた化け物は、じわりと首のあたりから血を滲ませ、ゆっくりと地面に倒れ込んだ。体の下からどくどくと血が流れ出し始めると、生命力を失っていくのが目だけでも分かる。
「気遣いというより、手っ取り早いだけなんだが」
ピクピクと微かに動いている肉塊は、それ以上動く様子がない。団長の一閃で絶命したのは、明らかだ。確信したジョスランは苦笑しながら、剣を鞘に収めた。
チャキンと鍔音がして、ようやくルシアは深く息を吐く。
「はあ。よかった。どうなることかと」
「つかれたぁ」
ルシアは、いつもの白トラ猫の姿になったヒスイを抱き上げ、柔らかな背中に頬を擦り寄せた。横に立つクロヴィスも、ヒスイの頭頂を疲れ切った顔で撫でる。
「ルシア様。後始末は、騎士団に任せましょう」
「そうね」
気を抜いたルシアが、クロヴィスと会話を交わしていると、背後から冷たい声がした。
「申し訳ないが、先程の魔法陣を作った件で、御身を拘束させていただく」
驚いたヒスイが腕の中から飛び降りる。
「え!」
有無を言わさず、ルシアの両手首は後ろ手に縛り上げられた。
「ちょ、あの⁉︎」
戸惑いつつ振り返ると、そこには銀髪で青い目の、紳士然とした騎士が立っている。
戦いを終えたばかりで疲労の色が濃いジョスランは、その場から動けない。膝に手を突いた姿勢で、感情的に怒鳴った。
「おい、マルスラン! ルシアをどうする気だ!」
副団長のマルスランは、
「どうもこうもない。この目で、彼女が魔法陣を作ったのを見た」
感情のない声で冷たく告げる。
「先の悪魔召喚の嫌疑もある。投獄して事情聴取する。それが、私の役目だ」
「嫌疑⁉︎ さっきのは魔法陣じゃない! 手を放せ! 団長も、なんとか言ってくれ!」
ところがガエルは、苦しそうな表情で首を横に振った。
「騎士たちが、化け物を呼び出したのはお見舞い係だと騒いでおる。この場は、従ってくれ。すまない」
「おいおい、嘘だろう⁉︎ 倒したのは、俺たち」
「団長だ」
ジョスランの言を遮ったマルスランが、衝撃のあまり絶句しているルシアの身柄を、背後の騎士に引き渡す。
「お待ちください!」
追おうとしたクロヴィスもまた、飛び降りた時のダメージが今頃来たのか、足を動かすことができず、ひたすら拳で膝を打っている。ルシアを取り戻すため、必死で頭を高速回転させた。
「どうか、お待ちを!」
「宰相補佐官殿は、怪我の治療が必要だな」
耳を貸すことなく踵を返したマルスランは、キビキビとした歩みで王宮へと戻っていく。
その背を、ジョスランとクロヴィスは呆然とした顔で見送るしかできなかった。




