第30話 昏睡
「おい! 一体なんだっていうんだ!」
「知らん、とにかく、殺せ!」
「今だっ、切れ!」
演習場に、男たちの怒号が響き渡る。
突然の辺境騎士たちの動きで、当然、場は大混乱に陥った。悪魔の止めを刺そうと王国騎士と辺境騎士が入り乱れ、ルシアの位置からではジョスランを見失い、かろうじてヒスイの耳だけが確認できる。
一度始めた儀式は、最後までやり遂げなければならない。
ルシアは、一心不乱に刀禁呪を続ける。心を乱してはならない。指先まで神経を行き届かせ、一言一句違えることなく、最後まで邪気を踏み抜く。でなければ、祓いきれなかった邪気が、自身へと襲いかかるからだ。
(どうか、皆、無事で)
強い願いを言葉に載せ、ひたすらに地を力強く踏みしめていくルシアは、揚々と短剣を空へ掲げる。
煌めく刃が、青を突き刺すようだ。
(もう、すぐだから……)
占い通りなら、『神』が降る。ルシアは確信を持って一歩一歩、着実に歩く。
悪魔召喚で夏の積乱雲を無理やり引き裂いたツケ。大きな雲の粒が空中で摩擦を起こし、静電気が溜まり、溜まったエネルギーは――
ところが突如として、短剣の先を見つめるルシアの左肩を、一本の矢が貫いた。
「え……」
どこから放たれたのか。誰が射ったのか。それよりも先にルシアが思ったのは「あと、二歩」だった。
熱くどくどくと脈打つ肩と、生温かくなっていく左の胸と、それから、青。
「ああ……綺麗」
ルシアの視界には、今、青色しか見えない。自分が倒れたのだ、と気付いたのは、それから少し後だ。じわじわと背中が温かくなっていく代わりに、傷口が冷えていく。体内のものが外へ流れ出ていく感覚は、まるで別世界に自分を誘っているかのようで、抗いがたい。
目に映る青が、どんどん黒く染まっていく。気が遠くなるからか。それとも。
――悪魔を討ち取ろうと躍起になっている騎士たちを押し退け、ジョスランとヒスイがルシアの元へ必死で走る。頭上では、ゴロゴロと大きな音が轟き始めていた。
○●
いかに悪魔といえど、魔法陣で呼び出された下級存在である。ルシアの五芒星結界や刀禁呪、それから人間の物量の前に、その命は風前の灯火になりつつあった。
ところが悪魔自身は、なぜか身体中から血を吹き出しながら笑みを浮かべている。
矢が突き刺さったままで意識が混濁するルシアの側で、片膝を突いたジョスランは止血に動いていた。だがヒスイは冷静さを失い、視界に入るもの全てに襲いかかりそうなぐらいの殺気を放っている。
「主! 許さない。誰だ、殺す!」
ルシアを覗き込みながら唸るヒスイへ、ルシアは声を振り絞った。
「ヒ、スイ……なる、かみが、くる」
「主!」
「まも、て……まも」
そこで、ルシアは意識を失った。
「主! あるじっ!」
「触るなッ」
矢は深く刺さっており、いたずらに抜くわけにはいかない。ジョスランは必死でマントの裾を引き裂き、肩口を押さえつけ、血を止めることに注力する。
一方ヒスイの中では、ルシアの言葉を聞くか、主人の仇を取るか――理性と本能が、せめぎ合っていた。
「ヒスイ、落ち着け」
ジョスランが、手当てしながら言い聞かせる。
「主人の言うことを聞け。早まると、後悔するぞっ」
「がおおおおん!」
翡翠色の目から涙を流し、ヒスイは演習場を振り返った。
晴天だったはずの空は今、黒い雲に覆われている。
ジョスランの助言を聞き決意したヒスイは、ルシアが儀式に使っていた、床に転がっている短剣を掴むと、あっという間に演習場中央へ戻った。
「オイラは白虎。白虎は金。金は木に相剋する!」
騎士たちの合間をぬい、悪魔の首を羽交締めにしたヒスイが、取り囲む人間たちの頭上を大きく飛び越える。悪魔の体を、まるで人形のように抱きかかえたまま、ルシアがいるのとは反対の観覧席を駆け上った。
悪魔は必死で腕から抜けようともがくが、瀕死の力では白虎の怪力を前に、どうにもならない。長い爪でバリバリとヒスイの腕を掻きむしるので精一杯だ。
「鳴神! ここだ!」
ヒスイが暴れる悪魔を意に介さず短剣を空へ掲げた瞬間、ピカッと強烈な光が瞬き、その場にいた人間たちの視界を真っ白に塗り潰した。
『ギャアアアッ……』
強大な電気エネルギーは、一瞬で人々を飲み込み気絶させ、悪魔の身すらも焼く。
――ドドン。
腹の底を激しく打つような爆音を聞いてから、ヒスイは目を開けた。
腕の中には、焼け焦げ絶命した悪魔。顔を上げれば砂地に倒れ、呻く騎士たち。
「……主、主のおかげなのに……」
今演習場内で無事なのは、ヒスイと、手当のため下を向いていたジョスラン、そして――
「今のはっ⁉︎」
「遅かったか!」
ゴタイの身柄を確保し戻ってきたクロヴィスと、王宮から独断で駆け戻ってきた騎士団長ぐらいだった。
○●
騎士演習で悪魔召喚がされたことは、王命で以て厳重な箝口令が敷かれた。
出席していた貴族たちに配布された通達書には、宰相をはじめとした各大臣の連名もあり、破る勇気のあるものはいないだろう。
ただし茶会や夜会での、『知っている者同士』での噂話まで止めることはできない。
王国全体に魔法や魔法使い、悪魔の存在に対する脅威が広まるのは、時間の問題だ。
「……ルシアは。まだ、目覚めんのか」
王宮にある宰相室。
執務机に肘を突いて苦悶の表情を浮かべる宰相のフラビオを、机正面に立つクロヴィスが無表情で見下ろす。
「ええ。回復には時間がかかるそうです。ジョスラン様の処置が良かったおかげで、命を取り留めただけだと医者が」
「そうか」
ふー、と大きく息を吐くフラビオの、眉間の皺が深い。クロヴィスが気遣うように声を掛けた。
「少しは、お休みになられた方が」
だが、フラビオは珍しく感情的になり、叫ぶように言った。
「休んでいられるかっ……なんとしてでも、貴様が捕らえた小間使いを叩き起こして、証言を取れ!」
クロヴィスが、ギリギリと唇を噛み締める。
「おそらく、魔法か何かでしょう。何をしても起きないと報告が」
バン! と派手に机の天板を叩き、フラビオはクロヴィスの言葉を止めた。
「また、魔法か! なんとかせねば、悪魔召喚が、お見舞い係の仕業になってしまうかもしれないのだぞ!」
西の辺境伯トビア・ギルメットは、場の混乱に乗じて誰よりも早く国王へ謁見を求め、訴えた。
――悪魔を呼び出したのは『お見舞い係』に間違いない。そのうちの一人の女性が、妙な舞を踊って悪魔を操っていた。危機を覚えた辺境騎士たちが、その悪魔を討伐したのだ、と。




