第29話 交錯
演習場を望む物見席のうち、高位貴族用のブースは、石に囲まれた屋根のある展望台のような造りだ。壁の一部が大きくくり抜かれていて、三階ほどの高さから演習場全体を見下ろせるようになっている。
石の床には派手な織りの絨毯が敷かれ、腰高のテーブルと、椅子が何脚か置いてある。壁際にはライティングビューローがあり、天板に茶器や酒瓶が並んでいる他、簡単な書き物もできるようになっていた。騎士たちの試合や馬術などの観覧をしながら、商談もできる。実際、娯楽を兼ねて貴族と商人が顔合わせをする場所にも使われていた。
「おお、これはこれは」
特別観覧席と呼ばれるその部屋を我が物顔で使い、満面の笑みで立っている中年の男性は、どこにでもいそうな平凡な容姿をしていた。鼻の横の大きなホクロが目立つため、どんな顔だったか? と問われた時には「ホクロの」と言えば通じる。それぐらい印象に残らない面貌である。
学力も、剣の腕も、政治力も、並。
それでも、西の防衛の要を自負していた。
――トビア・ギルメット。
ギルメット辺境伯、その人が、笑顔で誰かを出迎えている。
「わざわざご足労賜り、恐縮です」
トビアが大袈裟なぐらいに頭を下げる相手は、マントのフードを深く被っており、顔も体格も、服装すらも判然としない。さらに、声を出さず左手のひらを見せるだけで、トビアへ元に直るよう意思表示する。
上体を起こしたトビアは、相手が無言のまま懐からある物を取り出したのを見て、息を呑んだ。
それから空気を読んだトビアが、恭しい態度で両手のひらを上に向けて差し出すと、木製の持ち手が付いた真鍮のベルが載せられた。
「は! お任せを!」
トビアが返事をし、ベルを見つめている内に、相手の姿はいつの間にか消えていた。それでもトビアに不満はない。むしろ意気揚々と窓から身を乗り出し、眼下で繰り広げられている戦いの様子を見て満足げに頷く。
「小物どもが。調子に乗るのは今のうちだ……終わらせてやる」
トビアは真鍮ベルの取手を握り、肩よりも高く持ち上げると――リーン、と鳴らした。
その音を合図に、直立不動で並んでいた辺境騎士たちが、動き出す――
○●
ルシアたちが奮闘している頃、騎士団長ガエル・メネンデスは、王宮最奥にある国王の私室に居た。傍には王妃と第一王子、王子の婚約者である公爵令嬢も付き添っている。
「陛下。こちらにいらっしゃればご心配無用。演習場へ戻りますぞ」
先ほどからガエルがそう申し出るが、国王に渋られていた。
「しかしだな、ガエル」
部屋の中には息苦しさを覚えるほど、近衛騎士たちが詰めかけている。護衛には十分すぎるだろう。
何度も引き留められているのは、武力そのものではなく、精神面の不安からだろうとようやく見てとったガエルは、
「副団長と入れ替わるならば、どうでしょう」
と提案した。
「おお、それならば安心だ」
現在の副団長は、ジョスランの実兄・マルスランだ。銀髪に緑がかった碧眼の、常に優しげな表情を浮かべている美男で、剣技も所作も申し分ない王弟の息子。つまり国王から見て甥に当たる。
国王の護衛は団長が担うべきだが、ガエルは現場を好む。おまけに、他人の自分よりもよほど頼りになる存在だろう、と考えた。
近衛の誰かを呼びに行かせるか、とガエルが入り口扉を振り返ったところで、ちょうど「コンコン」とノック音がした。
扉の向こうにも近衛騎士が配備されている。ノックは当然、近衛騎士が行う。ガエルは国王に目で許可を取ってから、「入れ」と応じた。
すると開かれた扉から、騎士服姿のマルスランが機敏な動きで入ってくる。
恭しく礼をした後で発言を求めた彼に、ガエルは黙って首を縦に振る。
「ご報告いたします。演習場と王宮の連絡通路は、全て配備完了致しまし……どうかされましたか」
マルスランはすぐに、何か言いたげなガエルに気づいたようだ。相変わらず鋭い、とガエルは内心舌を巻く。
「マルスラン。儂は現場へ出向く。代わりに、陛下の警護を頼んでも良いか」
マルスランは一瞬きょとんとした後で、にこやかに口角を上げた。
「もちろんです。団長に忙しい現場をお任せすることになりますが、よろしいでしょうか」
「儂はそっちの方が向いとる。適材適所だ。では、頼んだぞ」
「は」
マルスランの礼を受け取ってから、ガエルは国王へ深々と騎士礼をする。
「陛下より賜ったこの剣にて、すぐに片付けて参ります」
「うむ。頼んだぞ、ガエル」
「はっ」
キビキビと動き出したガエルは、廊下へ出た瞬間に殺気を身にまとった。
「ジョスラン、ルシア嬢。無事で居ろよ……」
王宮廊下を行く団長の姿を見た近衛騎士たちは、戦争以降に登用された者がほとんどだ。そのため、戦いの緊張感を実際に肌で感じる、初めての機会となった。
○●
空へ飛び上がった悪魔が、全身で苦しがっているのを見たルシアは、一層下腹部に力を込め刀禁呪を唱える。
反閇と、剣の動きを連動させ、場を清めるのだ。
反閇とは独特の歩法で、すり足のように歩いたり、膝を高く上げ地面を踏み締める動きをすることで、邪なものを祓う効果がある。刀禁呪は反閇と組み合わせて唱えることによって、さらにその効果を増す。
三種の神器である宝剣を用いることもあり、生半可な者ではできない。前世のルシアも師匠の許しがなく、自身で行うのは初めてだ。
ジョスランとヒスイは、戦闘態勢を崩さないまま様子を見守っている。宙に浮いている悪魔に手が届く距離を推し量っているのは、ルシアにも分かった。
(理は、同じ。そうよね、ヒスイ)
陰陽術は、魔法のように魔素を消費して行使する超常的な力――ではない。
あくまでも、自然現象である。天候や方位を占い、暦を作り、人がより良い生活を送れるよう手助けをするのみだ。心身ともに修行する中で信仰に寄り添い、真言を唱えることで言霊として神の教えを受け取り、『ご利益』を行使する。死者が現世にいるのは正しくない。ならば、冥界へ送る手助けをする。怨みを増幅させ呪うのは、すなわち縁を変質させ、害をなすということだ。
だから世界が異なっても、様々なことが行えている、とルシアは考えている。
悪魔は、鬼だ。
邪な人の欲と法則、儀式でもって呼び出された、式神のようなもの。であればこそ、ルシアの言葉も効く。
そういった確信でもって、ルシアの呪文の鋭さが増していく。手応えも、あった。そうして、悪魔が徐々に地面へ降りてくる。
だが――
リーン。
どこからか聞こえてきた微かな金属音がした時、状況は一変した。
「おおおおおお」
「おおおおおお」
突如として直立不動だった辺境騎士たちが、動き出したのだ。愕然とする王国騎士たちを尻目に、隊列を組み真剣を構え悪魔を取り囲み、そして。
『グギャアアアアアアアッ』
――宙から降りてきた悪魔を、串刺しにした。




