第28話 禁呪
『バフォーーーーーー!』
先ほどまで絶対的強者として場を蹂躙していたはずの悪魔が、苦しげに叫んでいる。大きな二本の角を振り回し、周囲に襲い掛かろうと掲げた両手をそのままに、口角からはグルグルと唸り声を漏らした。
「何事も、下準備は必要ね」
悪魔の動きが鈍ったタイミングを見計らい、念のため木塀の外側へ下がったルシアの制服の袂には、予め作ってきた呪符がある。
ジョスランとヒスイが用心深く悪魔に近接し、それぞれ武器や拳を構えた瞬間、部隊長らしき騎士が叫んだ。
「部外者は邪魔だ! 退避しろ!」
呪符を構えようとしていたルシアは、はたと動きを止めた。
「なるほど。悪魔が弱体化したのを機に、自分たちでやるから騎士団ではない人間は、戦うなと……」
その考えも通常であれば理解はできるが、今は非常事態だ。後から宰相にガミガミ怒られるぐらいで済むことを祈りつつ、ルシアは叫んだ。
「宰相室所属、お見舞い係! 騎士団を、援護いたします!」
「!」
戦果は、くれてやる。ルシアとしては、そう宣言したつもりだ。
部隊長にもその意図が伝わったらしい。驚愕で目を見開いている。剣狂を擁するのにか、と信じがたい様子だ。
「……勲章だの戦績だの、いくらでもくれてやる」
ジョスランの低い声が、この距離であるのにも関わらずルシアまで届いたのは、彼の気持ちの強さとそして――
「退避すんのは、そっちだ! 俺らの邪魔をするな!」
この後に及んでさえ、見栄や成果に囚われている、平和ボケした騎士団への怒りだろう。
「全く同意するわ。翡翠の破邪よ、今こそその真価を発揮せよ。急急如律令!」
ルシアは、持っていた呪符をヒスイへ投げつけた。式神の力を増す呪術を込めた札が、ルシアの言葉を受けて宙で燃えると、ヒスイの全身を光の膜が覆った。途端に、空を仰いでガオオオン! と咆哮する。明らかに力を増した白虎を見て、ジョスランも目を輝かせ、剣を構えた。
「よし、行くぞヒスイ!」
「おー!」
ジョスランは模擬剣、ヒスイは拳で、悪魔へ襲いかかる。動きの速さに圧倒され、取り囲んでいる騎士たちは、自然と後退せざるを得ない。
「部隊長! 辺境騎士の拘束っ、頼むぞ!」
ぼけっと戦況を見るだけとなっていた部隊長へ、ジョスランが檄を飛ばす。ようやく騎士たちも場の収束へ導くための、正しい動きを始めた。思考が鈍く、突っ立ったままの辺境騎士たちの異様さに躊躇しつつ、騎士たちは身柄を一箇所へと集めていく。
その間ルシアは、
「わたくしにできるのは、結界。強化。使役。そして……占い!」
ささくれだった木の床に片膝を突け、人差し指で床に直接図を描いてみる。指の腹にささくれが深く刺さり、流れ出る血で木の上に描いていく。悪魔の召喚儀式の魔法陣と逆五芒星を描き、吉方位と天候を占う計算をする。
「悪魔の行動原理は、あの逆五芒星で間違いない。今は物理が上回っている。正五芒星に戻して精神が上回ったら、祓詞で送還できるかも……いや、奴の真名を知らない!」
真名を知らなければ、使役することはできない。
ガバッと立ち上がり、魔法陣を凝視するルシアは、何らかの文字が浮かび上がっているのに気がついた。悪魔が中心に立つ、逆五芒星。それを取り囲む二重の円の間に書かれている文字は、この世界のものでも、ルシアの前世のものでもない。儀式のための古来の――失われた、魔法使いのための文字かもしれない。
「あれは、なんと読むのか」
「……ここからでは、判然としませんね」
背後からした聞き覚えのある声に、ルシアは思わず振り返った。
「クロ⁉︎」
「はい」
「叔父様っ、いえ、宰相閣下は」
「ご無事です。陛下と共に、王宮奥へ。団長が付き添っております。それより、その、指」
「あ」
クロに指摘された人差し指全体が、血まみれになっている。ルシアが自分でギョッとすると、クロヴィスが無言でガシッとルシアの手を掴んだ。
「クロ⁉︎」
何も話さないままルシアの人差し指の先を口で吸い上げると、顔を逸らしてブッと吐き出す。汚れた血を吸い出す応急措置は、戸惑うルシアが何も言えない間に、何度も繰り返された。
やがてクロヴィスは胸ポケットからハンカチーフを取り出すと、指の根本をギュッと縛るようにして人差し指に巻いた。
「これでよいでしょう。わずかな切り口から死に至る者もいるのです。どうかお気をつけください」
「ありがとう……」
ルシアがふっと息を吐いてから、「なぜ戻ったの?」と尋ねると、クロヴィス・メネンデスは苦笑を返した。
「お見舞い係が暴れた後、証言が騎士からしか取れないと、ややこしいことになるに違いありません」
図星だった。余計なことをしただの、成果を横取りしただの、後から好きなように言われかねない。
「ありがたいけど、危険だわ」
「お忘れですか。私、元騎士ですよ。それに、お届け物がありましてね……ジョスラン様!」
クロヴィスがジョスランの愛剣の鞘を掴み、掲げて見せると、ジョスランは振り返って瞠目した後でニヤリと笑った。
「投げろ!」
「どうぞっ」
指示通り鞘ごと投げ入れた剣が、ジョスランの手に渡ったのを見届けてから、クロヴィスは大きく息を吐いた。
「投げたせいで壊れても、文句は言うなって言い忘れましたね」
この緊張した場においてさえ、ぶつぶつ文句を言うクロヴィスの態度が、ルシアにはおかしくてたまらない。
「言わせないわ」
「お願い申し上げます」
「クロ。ゴタイはきっとまだ近くにいる……ゴタイなら、悪魔の真の名を知っているかも」
「なるほど。私が探しましょう。辺境伯は」
「混乱で、見失ったそうよ」
きらりとクロヴィスの眼鏡が光った。
「居場所には予想がついています。ここから近く、居心地よく、この場所がよく見える。限られていますから、既に影を走らせています」
「優秀ね、クロヴィス」
「必死ですからね……ルシア様には、これを」
クロヴィスが、丁寧な手つきで短剣を差し出す。
「わたくしには、武器など」
「護身用です。せめて、お持ちください」
「ありがとう」
「では」
鮮やかに身を翻すクロヴィスを横目で見送ってから、ルシアは再び悪魔に注視する。左手に短剣、右手に呪符。
「刀……刀禁呪……!」
ルシアの脳裏に鮮やかな記憶が蘇る。年初め、貴いお方に呼ばれた師匠が御前で披露する、一年の破邪を願うための反閇。刀剣を持ち、あらゆる病や邪鬼を退けるための術だ。所作も禁呪文も、全てを思い出した。やってみる価値は、あるかもしれない。
ルシアは呪符を袂にしまい、両手で短剣を持ち上げる。煌めく刀身が両眼の前へ姿を現すようにして、鞘からゆっくりと短剣を抜く。冷え冷えと輝く鋼が、太陽光を反射していた。
「綺麗……これならば」
刃越しに見える光景は、悪魔相手に奮闘するジョスランとヒスイだ。ルシアの目に頼もしく映る彼らならば、悪魔に隙が生じるはずである。
その時を静かに待ち、ルシアは場を清める真言を静かに唱え始めた。
○●
「おらあ!」
戻った愛剣を存分に振るうが、ジョスランの剣筋は宙を切り裂くだけで、手応えはあまりない。悪魔の動きが、体の大きさの割に素早く、補足しきれない。細かな切り傷を与えるのがやっとだ。
それでも剣狂の身のこなしの速さ、剣筋や突きの鋭さ、先読みの正確さに、周囲の騎士たちは釘付けになっている。剣狂の剣の軌跡を描いているかのような、絶え間なく飛び散る黒い血飛沫に、全員が魅入られている。
「ほい!」
どごん、と鈍い音が時折響くのは、ヒスイの拳が悪魔の肉を叩く音だ。ジョスランの剣の間合いが広い分、悪魔は避けるため大幅に動かざるを得ない。ヒスイはその隙を狙って接近し、脇腹や脛を攻撃し続けている。
ふたりの息の合った攻撃に、いよいよ苛立ちが頂点に達した悪魔が、翼をはためかせた。
「くそ、飛ぶ気か」
「ありゃ〜、オイラの跳躍で届けばいいけどなあ」
『バフォーーーーーー!』
明らかな怒りの表情で、悪魔が地面から両足を離した。
手と足を止め空を仰ぐジョスランが、悔しげな表情をする一方で、ヒスイはヒクヒクと鼻を動かす。
「むしろ、良かったみたいだ」
「なんだと?」
むきっと牙を見せつけて笑う白虎の視線の先に、短剣を片手に不思議な動きをするルシアの姿があった。
○●
「……我これ天帝の使者なり。この刀を使い不祥を滅すことを命ず。この刀は平凡なものに非ず、百錬の鋼である。この刀の下では鬼は走らず、病は癒える。千妖も万邪も皆悉く済除、急急如律令!」
お読みいただき、ありがとうございます。
ルシアの唱えている刀禁呪は、『小反閇并護身法』に掲載されている刀禁呪を、作者独自にアレンジした、フィクションの呪文です。




