第18話 口火
王都の片隅に、『五体満足』という食堂がある。
従士――この王国では貴族階級の子息又は貴族の推薦者、騎士登用試験の合格者のいずれかでなければ騎士にはなれない。平民は従士として騎士団に入る――だった主人が、戦争から五体満足で帰ってきて、引退後開いた小さな店だ。
その主人は亡くなっているが、妻が女将として切り盛りしており、低価格で食事を提供していることからも庶民の憩いの場になっている。
王都には、たくさんの人々が暮らしている。
乗合馬車の御者や、街路掃除人に、煙突掃除人。
粉挽きに理髪師、物売り(食べ物や花、雑貨)、織物工や煉瓦職人などだ。
王宮に近いからといって、誰もが裕福というわけではない。ただ、日々の暮らしに困らないくらいの仕事には、ありつける。華やかな街並みを歩き、貴族たちの暮らしを覗き見ることもできる。
生まれた村の狭い社会で、自然に振り回されながら畑を耕して働くより、はるかに安定しているとはいえ――生活への不満や不安は常に付きまとう。
「王宮で贅沢されちゃあ、俺らの暮らしなんてすぐ貧しくなる」
「最近、窃盗が増えた気がするなあ。騎士は何をやってるんだか」
「税が少しずつ上がってるらしいぞ。収穫高が足りなけりゃ、盗むしかないだろう」
外憂がなくなったとはいえ、内憂は常に抱えている。何しろ、全てはお貴族様の匙加減だ。庶民は、常に特権階級に首根っこを掴まれているようなものである。
だから皆、食事時に、愚痴る。朝と夕の一日二食、食べたり飲んだりすることが、娯楽でもあるから。誰とも知れない相手ならば余計に、何も気にせず、不満を垂れる。
「はい、今日のチキンスープはおすすめだよ。パンを浸してお食べ」
「ありがと!」
夕方の早い時間。
テーブルに女将が置いた皿には、良い香りのする白く濁った液体が湯気を立てている。鶏ガラごと煮込まれたスープは、くず野菜もトロトロで、胃を優しく満たす。
硬いパンも、スープに浸せば倍に膨らむ。温かい食事が、凝り固まった心を自然とほぐしていく。
「あんたも、占ってもらうかい?」
トントン腰を叩きながら、女将が話しかけてきたので、スープを頼んだ男――道端で靴磨きをしている――は、軽く首を横に振る。
「今日は持ち合わせがないんだ。ありがと」
店の奥、木の衝立の向こうのテーブルに、男たちが数人腰掛けているのを横目で見てみる。まだ早い時間のせいか、いつも人だかりができている一角であるのに、今いるのはそれだけだった。だから女将は気を遣って常連の自分に声をかけてくれたのか、と男は合点がいった。
「そうかい。最近騎士たちからものすごく贔屓にしてもらっててねえ。なかなか皆まで手が回らなくなってきたそうだよ」
「へえ! それは繁盛してるね、ゴタイさん。どおりで騎士様たち、上機嫌だ」
青年は乾いた笑いを返す。夜の街を、非番の騎士連中が千鳥足で歩いているのは、今や当たり前の光景だ。有事がない証拠だが、あまり見ていて気持ちのいいものではない。自分より若いのに、騎士というだけで身分も金もあり、酔うほど飲み歩けるのだから。今、青年の手には、申し訳程度の度数しかないミードの入ったジョッキがあるだけだ。
『ゴタイ』というのは――夕方から夜にかけて『五体満足』に居る人物のことだ。ちょっとした不運やお金のなさを嘆くと、未来を占ってくれたのが当たった、と口コミで広まり、有名になりつつある。ローブのフードを目深に被っているため顔は見えないが、声や手からすると、若い男性のようである。
いわく、「しばらく、東門方面には行かない方がいい」
いわく、「明日最初に会う女性には、優しくした方がいい」
――そういった助言がよく当たる。今では多くの客に慕われ、食事や酒ではなくゴタイ目当てという者も多い。だから最近、金を取るようになった。それでも、という客は後を絶たない。
出自も顔も本名も不明。女将さんも、「そのテーブルで気ままに占ってる」ぐらいしか知らない。にも関わらず、警戒心を抱かせず人の心にするりと入り込む。
「お陰さんで。だから夜、もう少し遅くまで営業しようと思ってね」
「女将さん、忙しくなるじゃないか。大丈夫なの?」
「手伝ってくれる若いのがいるから、大丈夫さ」
カウンターを振り返る女将の目線の先には、見慣れない若者が二、三人、機敏な動きで料理を作っている。
「そっか」
「今度は、飲みに来な」
「うん。友達が、ゴタイさんに占ってもらいたいんだって。連れて来るよ」
「嬉しいねえ! ご贔屓に」
食事を終えた青年と入れ違いに入ってきた騎士が、真っ直ぐにゴタイのテーブルへ向かっていき、大きな声で呼びかけた。
「おい、出世するにはどうしたらいい? 占え!」
――騎士なんだから、強くなればいいじゃないか。
青年は大きな溜息を吐きながら、日が暮れた王都の冷たい風を感じつつ、家路に着いた。
○●
王宮の宰相執務室、宰相が座る両袖机の前に、ルシアとジョスランが立っている。
「ようやく戻ったんだね。バルビゼ伯爵から報せをもらった時は、こん」
「違います」
「やっ……んん、そうみたいだね」
宰相の発言を遮ることができるのは、ルシアぐらいだ。もはや常識となりつつあることに、ジョスランも補佐官たちも苦笑を禁じ得ない。
「雑談は結構です。本題に入っていただけませんか?」
「はい、はい。その前に、紹介させてくれ」
にこやかな宰相が差し出した右手の先に、補佐官が一人立っている。紫色の髪を真ん中分けにした、銀縁眼鏡の二十代前半くらいの男性だ。彼はツカツカと机の脇に歩いてくるとビシッと立ち止まり、丁寧に礼をした。補佐官というよりは、騎士のような動きだなとルシアが思っていると、
「クロヴィスを改めて紹介とは、一体何事ですか」
先にジョスランが発言した。
ルシアは、思わず横のジョスランを見上げる。今までクロヴィスを知っているような素振りを、全く見たことがなかったからだ。
「お知り合いでしたか」
「騎士団にいた時の同期だ」
ルシアの問いにぶっきらぼうに答えたジョスランを見て、同期ではあっても、仲良くはないのだなと察した。
おまけに、騎士から宰相補佐官へというのは、異例中の異例な人事ではなかろうか。ルシアが疑問に思っていると、クロヴィスと目が合い微笑まれた。口角は上がっているが、眼鏡の向こうにある水色の鋭い瞳は、笑っていない。
「クロヴィス・メネンデスと申します」
「メネンデス? というと……」
「ええ。現騎士団長ガエル・メネンデスは私の養父です。私は孤児院育ちだったのですが、引き取られました」
けろりと軽くはない出生を話されたので、ルシアは「そうですか」とだけ答える。
義理の息子が騎士から宰相室へ異動したことに、団長は何も言わなかったのだろうか、という問いは誰もが抱くらしい。
クロヴィスは続けて
「騎士には、向いていなかったのです。考える方が合っていまして、父も反対しませんでした。引き受けてくださった宰相閣下には、感謝しております」
と異動の背景までを説明した。
「左様でしたか。叔父の世話を、いつもありがたく存じます」
「とんでもございません」
このわずかなやり取りで、ルシアは彼の聡明さに舌を巻く。疑問も敵意も抱かせず存在を納得させ――これ以上の質問をする余地を残さない。
ただしジョスランは別のようだ。
「向いていないだと? 戦略と暗殺のスキルは、他の追従を許さなかっただろう」
「剣狂ほどではありません」
「よく言う。ルシア、気をつけた方がいい。こいつは言葉通り、寝首をかく」
ルシアがどう反応しようか躊躇っている間にも、ふたりの舌戦は続く。
「寝首などと。ですがそこまでジョスラン様に警戒いただけるとは、思っておりませんでした。光栄ですね」
「貴様に持ち上げられるのは、胡散臭い」
「嫌われてしまいましたか」
「そっちこそだろうが」
子どものいがみ合いを見ている気分になったルシアは、態度を取り繕うことをやめ、素直に笑った。
「ふふふ」
ルシアの笑い声でようやくふたりが我に返ったところで、宰相が口を挟む。
「久しぶりに年相応のふたりを見られたのは嬉しいがね。儂もこう見えて忙しい。クロヴィス」
「は。失礼をいたしました。お見舞い係のおふたりへ、依頼がございます」
「……なんだ」
「はい」
「言うまでもないことですが、機密情報であるため、ご内密でお願いいたします」
ふたりが居住いを正して頷いたのを見てから、クロヴィスは再び口を開いた。
「今、騎士たちの間で『ゴタイ』なる人物に未来を占ってもらうのが流行っているようです。これがなかなか当たるそうですが……」
ルシアは、ジョスランと目を合わせた。ジョスランが仕入れた噂話も、騎士の間で流行している占い師についてだった。それが『ゴタイ』なる人物に違いない。
「ただの占いなら、俺たちに依頼するようなことではないだろう」
「はい。占いの後で、行方知れずになる騎士が後を絶ちません。このままでは、騎士団の士気に関わる」
(行方知れず……)
「騎士団の士気は、すなわち国防に関わることだ」
ジョスランの厳しい声に、ルシアも深く頷いた。
「詳しくお聞かせ願えますか」




