第15話 後悔
『今さら、取り消すことはできぬ。これは強い恨みからきている』
蛇神が憂いの目をマノンに向けると、マノンはぎゅっと唇を噛み締め、俯いた。それを見たルシアが、強い決意を宣言する。
「レト様。わたくしが清めます」
『失敗すれば、全てはそなたへと向かう』
「存じております」
『ならば止めぬ。目に見える物を信じすぎるな。躊躇いなく最後まで祓え』
「心得ました」
ルシアが深く頭を下げると、蛇神は満足したように大きくとぐろを巻いてから、その姿を消した。
身体中から力の抜けたメルイーズが床に両膝を突け、顔を両手で覆い隠して肩を震わせる一方、コルトー伯は口をポカンと開けて呆然自失で立っている。
ルシアはふうと大きく息を吐き、宙を手刀で何度か切る仕草をしてから、室内を見回した。
「……ヒスイ。マノンさんを頼むわね」
「おう!」
ヒスイは笑顔で頷くと、さっとマノンを懐に庇うようにして、両腕で上体を支える。
マノンは怯えた表情であったが、ヒスイの腕に包まれて安心したようで、ふっと頬を緩めた。
「さて。憂鬱ですが……まずこちらから祓わねば」
ルシアは心底困ったとばかりに、額に手を当てた。
「根深い上に厄介です。ジョスラン様」
「……俺の目に、夫人は生者として映っていない。それだけではなく、か?」
「はい。娘に蛇神を憑かせ、夫人が死後もここに留まる手助けをした術者がいるはず。覚えはございませんか?」
「あるぞ!」
ぐわり、とジョスランの殺気が膨れ上がった。
「ええ。あの日逃した残滓。さしずめ、あの辞めたメイドあたりに憑いていたのでしょうかね。お口が軽かったですもの」
「くっそ、気づかなかった!」
「それはそうでしょう。奴の力はほとんどが失われているはず。動くのは口ぐらいでしょうからね。その口車に乗ったのが……メルイーズ」
床に蹲っている伯爵夫人は、肩を小刻みに揺らしている。
「どういう意味だ!」
激高したコルトー伯が唾液を撒き散らしながら叫ぶと、ルシアは目を細めた。
「閣下の暴力で追い詰められたメルイーズは、古の魔法使いの甘言に乗ったのです」
「暴力などっ……古の魔法使いだと? いるわけがない!」
「いいえ。確かに存在しています。そして奥様に『娘が息子になりさえすれば良い。そうすれば幸せに過ごせる』と思わせた――幸いここには、レト島がある。いえ、あるからこそ、そう誘ったに違いありません」
ルシアは体の前で指印を結び、口の中で「オン・マユラ・キランデイ・ソワカ」と唱える。
「死者の心に巣食う毒蛇を喰らえ、孔雀明王。急急如律令」
「さっきから、何を言っている!」
するとメルイーズは「ウギャア」と叫んで天井を仰ぎ、喉を掻きむしって苦しみ始めた。
「メルイーズ⁉︎」
コルトー伯とは、もはや建設的な話し合いはできないところまで来ている。
ルシアは、せめてメルイーズの未練を祓いたいと、心から言葉を紡ぎ出す。
「苦しいだろう。安らかに冥界へ逝けるよう、慈悲深い孔雀明王が浄化するまで、しばし待て……心に巣食う毒蛇を喰らえ、孔雀明王、急急如律令。心に巣食う毒蛇を喰らえ、孔雀明王、急急如律令」
それからルシアは、大きく右手を振りかぶって、宙を袈裟斬りにするよう手刀を繰り出した。
「オン・マユラ・キランデイ・ソワカ!」
「ぎゃあああああ!」
メルイーズの実体はないはずであるのに生々しいのは、それだけ念が強いということだ、とルシアは下唇を噛み締める。
「ひいい、ば、ば、化け物!」
床に尻餅をついたコルトー伯の一方で、
「かあさま!」
「見るな、嬢ちゃん」
マノンがソファから飛び降りて駆け寄ろうとするのを、ヒスイは腕の中にしっかりと抱きしめて止め、優しい声で告げた。
「母ちゃんは、とっくにいない。わかってたんだろ?」
「ああ! あああー、あああああー‼︎」
「そうだよな……自分が男になれば、母ちゃんが戻ってくるかもって、思ったんだよな」
「うううーーー」
「でも、それはダメだ。母ちゃんはとっくに……」
「あたしがあああ、悪いのおおおおお! あたしのせいでええええ! 父様、怒る! 母様、怒られる!」
ずきん、とルシアの胸が痛む。
子どもが親のために自身の命を投げ出すなど。なんと悲しいことだろうか。
「……ごめんな。せめて、眠らせてあげっから」
ヒスイが眠らせ、興奮していたマノンはぐたりと全身から力を抜いた。
コルトー伯には、それでもマノンの悲痛な叫びは届かなかった。
尻もちの姿勢のまま、この場から逃げ出そうとキョロキョロと首を巡らせ、やがて
「ぎゃああ! 放せ! 放せ! おい、そこのやつ! こいつを殺せ、金なら払うっ」
と騒ぎ始めたのだ。
マノンに気を取られていた間に、メルイーズがコルトー伯へ覆い被さっていた。
この期に及んで、とルシアはコルトー伯の図太さに思わず感心する。
「くそ、奴の方をぶっ殺してやりたい」
「ジョスラン様。私刑はなりません」
「こんな……女子どもを守らず自分のことしか考えてない奴が、貴族を名乗るだと? 民を守ってこそだろうが!」
「素晴らしき、ノブリス・オブリージュ。ですが悲しいかな、見栄と欲こそ全てという人もいる」
ジョスランの燃えるような紅色の目を、ルシアは怖いよりも美しいと思った。まさに、正義の炎だと思えたからだ。
「早く! 早くしろおおおお!」
醜悪に喚くコルトー伯を無視して、ルシアはジョスランへ早口で問う。
「ジョスラン様。一番嫌な役目をお願いできますでしょうか」
「……メルイーズを、冥界へ送ってやる」
「申し訳ございません」
ルシアの謝罪に、ジョスランの眉尻が下がった。
「何を言う。それが俺の役目だ」
「っ、恐れ入ります」
ジョスランが剣を構えると、コルトー伯にへばりついているメルイーズが天井を仰ぎ、ゲラゲラと笑い始めた。
「もう遅い。もう願いは、叶った!」
「何?」
ジョスランが一瞬動きを止めると
「あ、あ、ああうぼえええええ」
コルトー伯が――盛大に吐血した。
「しまった!」
焦って近寄ろうとしたジョスランに、ヒスイが「だめだ! 毒の匂いだ!」とマノンの目も耳も塞いだ姿勢で、叫んで止める。
「ああ、ああ。本望だ。これこそわたくしの願い」
メルイーズがコルトー伯から手を放し、大きく両腕を広げた。ルシアの目に映った彼女の腕は真っ黒に染まり、じゅわわと黒い煙が立った。どろりと溶けた皮膚が、ぼたぼたと絨毯に落ちては消える。
「どうだ、腸が焼けるようだろう? それこそ、わたくしの恨みそのもの。あの者の言ったことは正しかった!」
ルシアが、ハッとなって問う。
「あの者……ゾランダーのことか!」
「退治されるその時、祓いによってわたくしの怨念は猛毒に変わるだろう。それを喰らわせれば良い、とね!」
「なんということを! そうか、蛇神っ……呪詛で蛇毒を仕込んでいたのか……なぜそんなことを」
メルイーズは、持ち上げていた腕も口角も下げた。
「この男を生かせば、次にマノンが殺されてしまう」
「っ」
ルシアは咄嗟に否定できなかった。そんなルシアを見たメルイーズが、満足げに笑う。
「だから殺して、負の連鎖を断つ。本願、叶いました。さあ騎士様、葬ってくださいませ。わたくしの体は、裏庭にございます。首塚はどうか、レトの石碑の裏に」
話すうち、徐々にメルイーズの意識がはっきりしてきたことに、ルシアもジョスランも胸を痛めた。
コルトー伯が尋常でない量の血を吐きながら、床をのたうちまわっている。ヒスイいわく吐いた血すら猛毒であることから、近寄ることができない。胃が焼け爛れ、呼吸もままならず、目鼻から血も涙も流している。その状態は、誰の目にも明らかに『手遅れ』だと分かる。そしてその、母として娘を守り抜いた事実が、メルイーズの理性を取り戻させたに違いない。
「……心得た」
ジョスランは短く答えたあと、ヒスイがしっかりとマノンの目と耳を塞ぎ続けているのを横目で確認してから――素早く剣を水平に振るった。
○●
「落ち込んでいるのか?」
五日かけて王都へ戻ったルシアは、報告のため、休むことなく宰相室へ向かって歩いていた。
隣を歩くジョスランが気遣って声を掛ける。後ろには、ヒスイが付き従っている。
「完全にしてやられましたから」
「そうだな。本当に、コルトー伯は夫人を殺していなかった……執事が証言した。裏庭で発見された夫人の死因は、手首からの失血死。自殺は外聞が悪いからと隠すとはな」
「ええ。あの像の存在で、殺されたと思い込んでしまった……あれほどの術には準備が必要です。覚悟して自殺するならまだしも、衝動的に殺された人間では完成しないもの。落ち着いて考えれば分かったはず……せっかくレト様が教えてくれていたのに」
「……あの野郎の、手玉に取られたな」
それでもマノンの命を救うことができたのは、不幸中の幸いだった。設備も道具もないが、マノンの部屋の暖炉を使うことを思いついた。残っていた薪でもってルシアが簡易の護摩炊きを行ったことにより、マノンの身にこびりついていた蛇の呪いは祓えたはずだ。もう性別が変わることはないが、経過を見るためにも、体調を見ながら王都まで来てもらうことになっている。
「にしてもあの神様、あっさり引いたものだな」
「レト様は、本来慈悲深く優しい神様ですから」
ジョスランが、黙って眉尻を下げる。石碑に書かれていた伝説を思い出したのだろう。夫に虐げられ娘を連れて逃げてきた妻が、娘を息子にして守ってくれと願い、それを叶えた――土地柄、そういった願いが多かったのかもしれないが、身勝手な親の願いだなとルシアは思う。
「そういえば、港町で邪険にされただろう?」
ジョスランの言葉で、ルシアは我に返る。
「そうですね。排他的なのは、地方ならままあることでは?」
「それがな。コルトー伯爵領は、数年前から財政難に陥っていたらしい。漁師たちは先行き不安でたまらず、俺らに八つ当たりしたんだ」
「そうだったのですか。次からは、遠征前に経済状況も調べるべきですね」
「だな。これから良くなるといいな」
「え?」
「領主は、死なない限り代替わりできない。すぐに次の領主が陛下から指名されるだろう」
ルシアは、唐突に足を止めた。キッと目線鋭くジョスランを見上げるので、ジョスランはまずいことを言ったか、と少し焦る。
「それこそ、奴の目的では」
「何?」
「そうして、世を正すだのと甘いことを言って、支援者を募っているに違いありません。そう思いませんか、ジョスラン様」
「……なるほど。となれば、もう王国深く根付いている可能性があるぞ」
「落ち込んでいる暇はなさそうですね」
ルシアは、再び歩き出した。
宰相室の扉が見えてくるころ、歩く速度は落とさずに、ゆっくりとまた口を開く。
「……答えはない。それこそが人であり、人として大事なことである。わたくしの師匠の言葉です」
「師匠? 人として……」
「追求せよ。考え続けよ。後悔してもよいが、諦めるな。いつも、そのようなことを仰っていました。ですからわたくしも諦めず、今回のことを反省し、次に生かそうと思います」
「ああ、そうだな。俺もそうする」
背後でヒスイが、ふああ〜と大きな欠伸をする。
「難しいことは、オイラにゃわかんないけど。人の姿、疲れる」
「ごめんねヒスイ。挨拶終わったら、猫に戻っていいから」
「やったにゃ〜ん」
「ふふ」
ジョスランがやれやれと肩を竦めてから、扉前の近衛騎士に宰相への取次を頼んだ。




