第12話 従属
舟の最後部でジョスランが櫓を漕いでいる。その前に座るルシアは、船首でゆらゆら揺れる猫の尻尾を見つめていた。
波は穏やかであるものの、舟が小さいためよく揺れる。ルシアは内心、乗ったことを後悔していたが時すでに遅しだ。
「大丈夫か? ルシア嬢」
「うぶ」
「はあ、やはり酔ったか。もう少しの我慢だ」
「はい……」
ルシアがハンカチーフで口元を押さえつつ振り向くと、ジョスランは眉尻を下げた。
顔だけで心配されているのが分かって居た堪れないので、ルシアはあえてまた前を向き、見ないようにした。
「あれが、レト島……」
ルシアの声を聞いたジョスランが、
「まるで海流が舟を引き寄せるかのようだ。これなら誰でも、一人でも辿り着けるに違いない」
と言う。
島の近くまで舟を寄せてから、ざばりと浅瀬に飛び降りたジョスランは、舟の先端に付いている縄を引き、砂浜に生えている木の幹にくくりつけた。
それから舳先へ戻ってくると、「背中に乗れ」とルシアに背を向けて構える。
「いえあの、恐れ多いです」
「構わん」
さすがに躊躇われたが、かといって波間に飛び降りる勇気は出ない。おずおずとルシアがジョスランの肩に両手を乗せると、ジョスランはあっという間にルシアを背負い、ざぶざぶと砂地へ向かって歩いた。
いつの間にかルシアの肩に、ちゃっかり白トラ猫が乗っている。
「申し訳ございません」
「遠慮するな。相棒だろう」
王国の名誉騎士に背負われているという罪悪感は、ジョスランの言葉と太陽が照っている海の上の小島の美しさで、かき消えていく。思わずルシアは微笑んだ。
「ふふ。今日は、良いお天気で良かったですわね」
「確かに散歩日和だ」
陸に上がると、ルシアはするりとジョスランの背から降り、肩を並べて立つ。ふたりが首を巡らせて周囲の様子を観察する間、猫はルシアの肩の上で器用に顔を前足で洗っていた。
島は白浜に囲まれていて、真ん中に丘があるだけだ。建物などはなく、一周するのにそれほど時間はかからないだろう。
「にゃ〜」
地面が砂浜から芝生に変わったところで猫はルシアの肩から飛び降り、まるで道案内をするかのように振り返って鳴いた。
「ええ。行きましょう」
猫の後ろをついていくと、島の中央にある緩やかな丘を登っていくことになった。丘といってもそれほど高くはなく、すぐに一番高い場所に着いた。女である自分の足でも問題なく来られたなと、ルシアは広場のような場所をぐるりと歩いてみる。
やがて大きなクスノキの下に、膝ぐらいの高さの平たい石板が立っているのを見つけた。近寄ってみると、表面に何かが彫ってあり、手前に千切れた縄のようなものが落ちている。
彫ってあるものを読み終えたルシアは、大きく息を吐いた。
「ルシア嬢、何か分かったのか?」
ジョスランの声を背中で聞きながら、ルシアは右手の人差し指と中指を下唇に当て、何事かを小さく唱える。それから振り返り、眉間に皺を寄せながら猫の方を見つめた。
「ええ。でもまず、あなたのことからね……待たせて、ごめんね」
突然猫に話しかけたルシアを見て、ジョスランは戸惑った様子だ。
「何を言っている?」
「この猫は、わたくしの縁のものなのです。マノン嬢の腕輪とその翡翠色の目を見て、すぐに分かったわ」
「にゃあ〜ん」
嬉しそうに鳴く猫の一方で、押し黙るジョスランの気配が尖っていく。
剣の柄に手をかけたのを見て、ルシアは鋭い声を発した。
「ジョスラン様。警戒は不要ですわ。こやつは、わたくしの従属ですから」
「なんだと?」
ルシアはおもむろに自身の体の前で、素早くいくつかの指印を結ぶ。それから、西に向かって反閇と呼ばれる、独特の歩法を行い始めた。
猫はお尻を地面につけて座り、その一連の動作を目を細め見つめている。
「懸けまくも畏き天地の神よ。諸諸の禍事罪穢有らむをば、清め祓うが為我が為に。西の門を開き、夜の守り日の守りに護り幸給いと、恐み恐みも白す……ヒスイ」
ルシアがそう呼ぶと同時に、ぶわりと猫の全身の毛と尻尾が逆立ち、猫自身もびょん! と飛び上がった。
それから宙でくるりと回転すると、しゅたんと地に降り立つ――その体は、人に成っていた。
正確に言えば、人ではなく、小柄な猫の獣人である。十五歳くらいに見える男性で、癖のある短めの髪の毛は白く、一部は黒い。頭頂には、ピンと三角の耳が二つ立っていた。目尻の上がった大きな翠色の目がくりくりと動くので、好奇心旺盛に見える。
見目だけでなく格好も変わっていて、顔の脇だけ長く伸ばされた髪の毛は茶色の革紐で編まれ、紐の先には緑色の小石が付いている。水干と呼ばれる白い衣を身につけた腰の辺りからは、黒いトラ模様の入った白く太い尾が見えていた。
「な!」
驚いたジョスランがズサッと足裏で地面を掻くと同時に、膝を軽く曲げ重心を沈め、剣の柄に手を掛ける。
尋常でない殺気を発しながら、ヒスイと呼ばれた未知の存在を牽制するが、本人は全く気にせず
「やっと会えたね、主!」
と明るく笑った。
それを聞いたルシアは、眉尻を思い切り下げてから声を張る。
「ありがとう、ヒスイ。心強いわ」
「ううん。また役に立てるなら、嬉しい!」
「おい、ルシア嬢! 一体こいつは、なんなんだっ」
「ですから、従属です」
戸惑うジョスランを、ヒスイと呼ばれた獣人は満面の笑みで振り返った。
「改めて、ヒスイだ。よろしくな〜、おっかねえ奴!」
「いやちょっと待て、訳が分からん。なぜ猫が獣人になる?」
当然ジョスランは混乱し、すぐに納得することができない。
「そうですわよね。これはなんというか、因縁というか腐れ縁というか。とりあえず、害はありませんので」
ヒスイは肩を竦めてから、
「オイラ、主人の懐刀だよ」
とけろりと言ってみせる。
「懐刀、だと?」
眉根を寄せたまま首を傾げるジョスランに、ヒスイは肩を竦めてみせた。
「それよか早くしないと、間に合わなくなるぜ」
「ええそうね」
「おい、頼むからちゃんと説明してくれ、ルシア嬢」
イライラが頂点に達したジョスランがさらに殺気を出しはじめたので、ルシアはハッと我に返り石碑へ再び目をやった。
「分かりましたから、殺気は引っ込めてください! ええと……マノン嬢の髪の毛、短かったでしょう?」
「ああ。貴族令嬢にしては、珍しいと思った」
「はい。こちらに捧げたからです」
「っ! そこに落ちてるのは縄ではなく、髪の毛か!」
「その通り。そしてこれは予想通り、レトの石碑です。こちらに伝説の内容が彫ってありますので、お読みになってください。レトというのは、蛇神の名前です」
ジョスランの目が、ぱちぱちと瞬いた。
「へび、がみ?」
「はい。蛇は、見た目では雌雄判別が難しい生き物なのは、ご存知ですか」
ジョスランとヒスイがお互いに顔を見合わせてから、ルシアを見つめた。
「……確かに、その……」
「言われてみたら、そうだな! 蛇の男のアレってさ、どこにあんの? 這ってる時、邪魔だよな」
邪気なく聞いたヒスイ後頭部を、ジョスランがベシッと叩いた。
「いって!」
「下品だ」
「うわー、お上品」
「嫌味か」
「ベー」
イタズラっぽく舌を出したヒスイに、ジョスランが本気で苛立ったので、ルシアは大きく咳払いをして牽制した。
「体内です。だから、両性と言い伝えられている蛇神もいます」
「それが、レト……じゃあ、マノンに巻き付いているのは!」
確信を持って言うジョスランに対し、ルシアは是も非も答えず、来た道を黙って戻り始める。
「戻りましょう。今日はもう日が暮れてしまいます。明日、もう一度コルトー伯爵邸に行きます」
お読みいただき、ありがとうございます。
ヒスイを呼び出す祝詞は、作者のオリジナルです。
この作品では、大まかに三つのパターンを使い分けています。ファンタジーですからね!
真言:攻撃や祓い。基本は五大明王様のもの。時々、他の明王様のもお借りしてます。
祝詞:式神を呼び出す、場を清める、神様へ語りかける、など。
呪:式神への命令、術者の力を高める、など。〜急急如律令、てやつですね。
陰陽師は真言唱えないし、祝詞使わないんじゃないのってご意見もあると思いますが。
ファンタジーなので、カッコよく使ってみたい、というスタンスです。ご了承ください。




