第10話 見解
執事がマノンの部屋を何度ノックをしても、反応はない。
「このようにいつも鍵が掛かっていまして、わたくしどももしばらくお会いしておりません」
執事の言い分は伯爵の言う通り、部屋の外からしか様子を見ていなかった、ということである。
心配する気があるのかと、ルシアのはらわたは煮えくり返りそうになった。
「この目で直接、確かめないわけにはいかない。開けなさい。開けないなら」
ルシアが振り返る前に、ジョスランが言い放った。
「俺が蹴破る」
「……旦那様から、マスターキーを預かってまいりました」
渋々執事が扉を開けると、まず大きな窓が目に入った。
十二歳の伯爵令嬢は、その窓辺近くのスイングチェアに腰掛けて、静かに本を読んでいる。アルコーブベッド――壁の中に埋もれたようなベッド――にはカーテンが付けられ、ローテーブルやブックビューローなど、背の低い家具はナチュラルな木材でまとめられている。その中で暖炉だけは、飾り彫りのされた白い大理石の豪華な作りだった。海を臨む高台にあるこの屋敷は、冬はかなり冷えるのかもしれない。
「マノン様! やはりご無事で……お客様がいらっしゃっていますよ」
執事が声を掛けても、マノンは読んでいる本から目を上げることはない。父親譲りの亜麻色の髪の毛は、貴族令嬢としては珍しく、肩の上で短く切り揃えられている。横顔でも青色の瞳はくりっと大きく、鼻の頭に散らばったそばかすと合わさって印象的だ。椅子はゆらゆら揺れているが、構わず本を読み続けている。
(揺れながら読んで、酔わないのかしら)
ルシアが、淡々とマノンの仕草などを観察している横で、執事が焦って
「マノン様っ」
と歩み寄ろうとするのを、ルシアは手で制した。
普通の貴族令嬢ならば、内心どんなことを思っていようが、訪れている客人に対して無礼を働くことはない。
鍵を掛けてまで他人と会おうとしないマノンは、無理やり入室したルシアたちを、咎めることもしない。
ルシアにはそれらの理由が、見えていた。
「少し話をしたいの。席を外してくださる?」
ルシアが執事とメイドに声を掛けると、納得いかない様子ではあるものの、部屋から退出していった。
マノンは、耳は聞こえているはずであるのに、こちらを向くことはない。あえて無視をしている、というより『できない』のだ。ルシアの胸が、ぎゅうと絞られるように痛む。
「……なんだ、あれは」
背後で扉が閉められたと同時に、ジョスランが剣の鞘を左手で押さえ、柄に右手をかける。全身から殺気を発しながらいつでも抜剣できるように構える横で、ルシアは「落ち着いてください」と制した。
「さすが、見えてらっしゃいましたか」
ルシアもまた、下唇に手刀に見立てた右人差し指と中指を軽く当てる。それから浄化の真言を小さく唱えると、反閇と呼ばれる陰陽師の歩き方を行いながら、一歩一歩静かにマノンへと近づいていく。
二人が物々しい雰囲気であるにも関わらず、マノンは本を読む姿勢を崩さない。
「ジョスラン様。そこから動かずにいてください。刺激をしてはなりません。発言も慎んでください」
「っ、分かった」
「まずは、これが何か調べなければなりません」
ルシアは慎重にマノンのすぐ脇まで歩いていき
「はじめまして、マノンさん。わたくしは、ルシアと言います」
腰をかがめて声を掛けても、マノンは顔を上げない。
ルシアは、開いている本の文字を上から目で追った。
「レト島の伝説、ですか」
「……」
「妻が夫の目を欺き、小舟で島へ渡り、娘が祈ると……なるほど」
内容を読み上げたルシアに対して、マノンは無反応だ。一方でルシアは、マノンの華奢な手首に、緑色に輝く石のバングルがはめられていることに気づく。
(翡翠だわ……)
美しい緑色の天然石は『繁栄・長生き・健康・幸福』の象徴。マノンのそれが、前世の自分が大切にしていた物と、よく似ていることに内心動揺する。ルシアの持っていた物は、可愛がっていた式神へ贈った記憶があり、先日の夢と照らし合わせると――
「ルシア嬢?」
扉付近のジョスランから、心配そうに声を掛けられ、我に返る。
「おほん。マノンさん。今はまだ、具合の悪いところや体の変化などはなさそうですね」
「……」
「喋れなくなったのは、間違いなくそれが原因です。下手をすると命に関わります」
「っ……」
マノンは、ただひたすらに本を眺めている。
「なるほど、受け入れている、と」
ルシアは姿勢を正し、語気を強めた。
「ですが、このようなこと、わたくしは許しません」
「っ!」
「なんと酷いことを。絶対に、許しませんから。良いですね」
マノンがルシアを見上げ、ようやくふたりの目が合った。マノンは小刻みに唇を震わせながら、首を横に振る。
「安心してください。わたくしはただひたすらに、あなたを見舞うだけです。では」
「っ、っ」
毅然と言い放ってから去るルシアへ、マノンは何かを訴えかけつつも――やはり声は出なかった。
○●
廊下へ出るなり、発言を我慢していたジョスランが、口火を切った。
「おい、ルシア嬢。あれは一体なんなんだ!」
「ジョスラン様って、案外辛抱強いんですね」
「答えになっていない」
「答えを持っていません」
はあ、とジョスランは大きく息を吐いた。
「あれを斬り捨てるだけならば簡単だろうが」
「そう単純ではありません」
「だろうな」
「ジョスラン様には、何に見えましたか」
ルシアに問い掛けられたジョスランは、帯剣の鞘へ左手を寄せると、親指で軽く鍔元を浮かせチャキンと音を鳴らしてから、唸る。
「眠っている大蛇だ。あんなものが身体中に巻き付いていたら、そりゃあ喋れないどころか、ろくに身動きも取れない。だろう?」
ジョスランの言う通り、マノンがスイングチェアから立ち上がらなかったのは、自分の意思ではない。巻きつかれていて身動きが取れないからだ。
「……さすが、冥界の目ですわね」
「イヤミか?」
「いえ。安心いたしました」
ルシアは肩から力を抜くと、ジョスランの紅色の瞳を真っ直ぐに見上げた。
「安心?」
「はい。あれを見た後でも、斬り捨てるだけなら簡単と言い切りましたね」
「ああ。蛇の魔物とは、何度も戦ったことがある」
「さすが剣狂」
「それ、褒めてるのか?」
「もちろん」
軽く頷いたルシアは、踵を返した。
「行きましょう。あれが起きる前に、調べねば」
「どこへ」
「港です」
「小舟を探しにか」
「ご明察」
今度はジョスランの口が、山の尾根のように歪んだ。それを見たルシアは、愉快そうにくすくすと笑う。
「なるほど、『山の尾根みたい』というのは、そういうのを言っていたのですね」
「ルシア嬢に、口で勝てる気がしない」
「勝負だったのですか」
いよいよジョスランは、右手で額を押さえた。懸命に感情を抑え込んでいる仕草に見える。やはり激情家なのだなと、ルシアはジョスランに対する認識を改めることにした。
「……で。俺は何をすればいいんだ」
「言わずもがな。護衛です」
「はあああ。勝手に手を出すな、ってことだな」
「またも、ご明察」
ルシアが歩きながら大きく頷いたので、ジョスランは歩きながらぐるぐると肩を回した。
「よし。了解したぞ、相棒殿」
「剣狂の相棒だなんて、光栄すぎますわね」
「ったく、素直じゃないな」
「そういう性格なのです。この機会に、お考え直しを」
「何をだ」
「婚約」
クックック、とジョスランの口から笑いが漏れる。
「考え直す気はない。俺からすると、こうして正直にいられるというだけで、貴重な存在なんだよ、ルシア嬢は」
「見解の相違です」
「そうか。まあ、急いでいないから、ゆっくり考えてくれ」
ルシアは、今度は頷かなかった。




