恐れと不安
波のさざなみが聴こえる。陽の光に当てられているのか、体が温かい。さっきまでの凍り付くような寒さが嘘のようだ。
目を開けると、雲一つない青空に浮かぶ太陽が、僕を照らしていた。違和感を感じた僕は体を起こし、辺りを見渡した。
「……どこ、ここ……」
果ての見えない水色の海の前に広がる砂浜の上に、僕は立っていた。当然のように雪は見当たらず、砂浜に落ちている貝殻が陽の光を浴びて煌びやかに輝いている。
どうして僕はこんな綺麗な場所に、どうやってここへ来たのか。答えが分からない問題を永遠と門答している気分だ。
だから僕は、一つの仮説を立てた。根拠も無い仮説だが、このまま困惑したままよりはマシだと思った。
「……死後の世界?」
仮説を口に出してみると、意外と納得出来た。根拠も無い仮説であったが、証拠はある。この場所で目覚める前、僕は雪に埋もれたまま目を閉じた。体から体温が抜かれていき、体の感覚が無くなっていくのを確かに感じていた。
そうか、僕は死んだのか。例えそうじゃないとしても、今はそういう事にしておこう。いずれ本当の理由が分かるはずだ。
半ば強引に自分を納得させ、僕は歩き出した。海のさざなみが遠のいてくのを耳にしながら、砂漠のように広がる砂浜を歩いていく。貝殻しか落ちていない何も無い場所だが、寒い思いをしていた為か、不思議と退屈は感じない。
でも、お腹が空いた。暖かい日差しに当てられたままという事もあって、喉も乾いてきた。我慢は出来るが、このまま歩き続けて、時間が経てば経つ程、この渇きは大きくなっていくだろう。
そんな事を考えた矢先、僕は違和感を覚えた。どうして腹や喉が乾くのか、と。僕は死んで、死人になったはずなのに、まだ生きていた時の感覚を覚えている。
「僕は、死んでない……?」
本来なら喜ばしい事だが、そうなってくれば再び疑問が湧いてしまう。この場所が何処なのか、何故自分がこの場所に来たのか、どうやってここへ来たのか。解決したはずの問題が再来した時ほど、イライラするものはない。
でも、今はイライラよりも、恐怖や不安の方が色濃く感じられた。僕は今、見知らぬ場所で、独りでいる。知識の無い場所で独りという状況は、死よりも恐ろしい。
体の震えを手で抑え込んでいると、僕のすぐ隣から、何かモゾモゾと動く何かがいるのを視界の端で捉えた。
目を向けると、それは人でも、ましてや動物でもなかった。僕の腰くらいの大きさの、動く何かであった。黒い布で全身を覆っており、人でいう顔がある部分はモップのような毛量の毛むくじゃらであった。
動いているという事は生き物だと思うが、結局これが何なのか、その正体が分からない。分からない場所、分からない生き物、分からない自分の状況。重なっていく見知らなさは、揺れ動く僕の恐怖によってバランスが崩れ、発狂へと至った。
「うわぁぁぁぁぁ!!!」
僕は情けない声で叫びながら、その場から走り去った。とにかくアレから逃げなければと、僕の本能が叫ぶ。何処へ逃げて、誰に助けを求めればいいかは分からないまま、僕はとにかく走り続けた。
「マッテ」
「っ!?」
お腹の中に響くような低い声が、僕の背後から聞こえてきた。走る足をそのままに後ろを振り返ると、アレが僕を追いかけてきていた。地面を這いずるような見た目をしておきながら、二足で走る僕よりも速い。僕は目が離せなくなった。正体不明のアレは見ているだけで怖いが、アレを視界から外す事の方が怖かったからだ。
「何!? 何なのアレ!? ぐへっ!?」
前を見ていなかった為、硬い何かにぶつかって尻もちをついてしまった。見上げると、僕の目の前には人が立っていた。ガスマスクのような奇妙なマスクを着けて、服の上に黒いコートを纏っている。胸の膨らみを見るに、女性だ。
「た、助けて……!」
僕は見知らぬ彼女に助けを求めた。初めて出会った女性に対して、こんなみっともない姿を晒すのは少々恥ずかしかったが、初めて同じ人間と出会えた安心感があった。
「ア、アレ……! アレが、僕を追いかけて……!」
追いかけてきているアレに僕が指を差すと、彼女は僕を背中に隠してくれた。情けない僕に比べて、何とも頼もしい女性だ。
猛スピードで近付いてくるアレに対し、彼女がどういう行動で対処するのか気になっていると、彼女は足元にある貝殻を一つ拾い、それを投げ飛ばした。
すると、僕を追いかけてきていたアレは方向転換し、彼女が投げ飛ばした貝殻を追いかけていった。
「ストルツは砂浜にある貝殻を何より大切にしている。汚れが無いか、ヒビが割れていないのか、一つ一つ丁寧に確認していくの。靴の裏を見てみて」
彼女に言われるがまま、僕は自分の靴の裏を見た。靴の裏には、踏み潰した貝殻の残骸が付いていた。
「……怒ってたのか。僕が貝殻を踏み潰していくものだから」
「そう。ストルツはあまり頭が良くないから、私が投げ飛ばした貝殻を綺麗にしたら、何事もなく他の貝殻の状態を確認しに行くよ。これに懲りたら、足元には気を付けてね」
「は、はい……」
「ところで、君は誰? 初めて見るけれど」
「……ミツキ、です。えっと、人間です。あなたと同じ……」
「人間……人間? え、人間!?」
彼女は僕の肩をガッシリと掴むと、僕の顔を覗き込むように顔を近付けてきた。マスクを着けている所為で表情は見えないが、声色からしてとても驚いているようだ。
「に、人間!? え、ど、どうして人間がここに!? 好奇心旺盛な種族だと聞いてはいたけれど、ノストラムにまで来るような馬鹿なの!?」
「ノストラム? え、というか今、馬鹿って言いました?」
「馬鹿に決まってるでしょ!? えーっと、どうしよう……とりあえず、これ被って!」
「え、ちょっ!?」
抵抗する間もなく、僕は黒い布を顔に被された。視界が布で遮断されたのも束の間、僕の体が浮き上がった。恐らく、彼女に担がれたのだろう。
「今はジッとしてて! 私がいいよというまで、声を出しても動いても駄目よ!」
彼女が焦った口調でそう言った。言っている事や声色からして、僕の事を考えての事だろうが、不安が高まる。何も知らない場所で、何も知らない彼女に突然布を被せられたんだ。誰だって不安になるに決まってる。
でも、同じ人間だというだけで、僕は奇妙な心地良さを覚えていた。例え彼女が人攫いだろうが、独りでこの見知らぬ場所を彷徨うよりは、攫われた方がずっとマシだ。
そんな訳で僕は一先ず、彼女に身を預ける事にした。




