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 九

 珍しく雪の積もった二月最初の日曜日の朝、紗耶は、チェーンをじゃんじゃんいわせて登ってきたバスに乗ってやってきた。麓では雪が降ることはほとんどないが、この山地には南国でも年に二、三回は雪が積もる。ただし、雪は水を含んでいて、とても雪遊びができるようなものではない。

 バス停から観測所まで三回ころんだ、と言って、這うように入ってきた紗耶は、分析室にある椅子を左右にどけながらファンヒーターに近づき、抱きつくように倒れ込んだ。今日は観測所には佐々木しかいない。

「あぁあ」

 佐々木は慌てて紗耶をファンヒーターから引き離して立ち上げ、濡れているコートを脱がせた。中に着ている制服もじっとりと濡れているのがわかる。

 椅子を持って来る。ファンヒーターのそばに置き、座るように勧めると、紗耶は素直に座って、手を温風にかざした。

 佐々木はその場にしばらく佇んでいたが、ふと、鏑木の使っているデスクに行くと、電話から受話器を取り上げた。一つ深呼吸をした。

 しかし、そのまま受話器を下ろした。

 紗耶を見ると、椅子で震えている。

 走り出し、分析室を出ると、そのまま観測所を出て、官舎に向かった。二十メートルもない。五段ある階段を二歩で上り、一階の京子の部屋の呼び鈴を押した。二回ならしたところでドアが開き、京子が顔を出したようだ。佐々木にその顔はよく見えない。

「なに?」

 卵を焼いた匂いが漂ってきた。

「あ、紗耶ちゃんが……」

「何、紗耶ちゃんが、どうかしたの?」

「え、と」

「何、どうしたの? あっちにいるの?」

 佐々木が頷く「ファンヒーターの前で」

「何? やけど?」

「いや」

 京子は一旦部屋の中に戻ると、上着を持って出てきた。

「どいて」と言って、佐々木を押しのけて、官舎を出て観測所に駆け込んだ。佐々木も追いかける。

 京子は、震えている紗耶を認めるとすぐ近づき、両手で紗耶の顔を包んだ。

「熱はなさそう」

 と言って、そのまま抱きかかえながら紗耶を立ち上がらせた。

「とりあえず、私の家に」

 京子は紗耶の体半分を負うようにして部屋を出た。観測所の玄関で佐々木が手を貸そうとすると、京子は軽くその手を払った。

 呆然と見送った佐々木は、分析室に戻り、部屋を見回した。紗耶が入ってきて、出て行った跡のとおりにドアからファンヒーターの間の椅子がよけられ、濡れた跡が付いていた。紗耶のコートが床に放置されている。それを椅子の背もたれに掛けて、ファンヒーターの温風があたるように椅子を動かした。制服と同じ色の、そのじっと暖められている紺色が、とても懐かしく、いとおしい色に見えた。

 昼が過ぎ、陽が雪を殆ど溶かしきった頃に、ファンヒーターもコートの水分をすべて蒸発させきった。

 ずっと、ファンヒーターのそばに座ってコートを見ていた佐々木は、立ち上がり、コートにそっと触れて、それが乾いていることを確認した。次にコートを静かに取り上げ、頬にあててもう一度乾いていることを確認すると、二つに折って両手に抱えた。しばらくそのまま立っていたが、三つ四つ小さく頷くと、出口に向かって歩き始めた。両手にコートを乗せたまま観測所を出ると、濡れた地面が陽光の欠片をあちこちに振りまいていた。まっすぐ京子の官舎に行き、右肘を使ってベルを押した。今度は、京子はすぐに出てきた。そして、佐々木の持っているコートを取り、腕を引っ張って中に招じ入れた。

「寝てる」

 と京子が言い、和室のふすまを少し開けると、紗耶が見えた。敷かれた布団にくるまって、頭が少しだけ見えていた。ふすまを閉めて、京子はきれいに片付いた陽の当たるリビングのテーブルに座ると、佐々木に空いている向かい側の椅子を指さした。

「お風呂に入れて、濡れた服も洗濯して、今乾かしてる」

 と京子が少し曇った声で言った。その表情は佐々木には見えない。

「なんか……」

 京子が言いよどむが、佐々木はじっと待った。

「なんか、すごく汚れてた」

 しばらく考えて、佐々木が口を開いた。

「服が?」

「うん、なんかこう、何週間も洗ってないんじゃないの、っていう感じ。今日汚れたって感じではない、少なくとも。それに、服だけでなく、体もすごく」

「体も……」

「そう、少ししか見てはいないけど、垢だらけ、って感じかな」

「でも……」

「うん、顔は洗ってあるみたいだけどね」

「うん」

「紗耶ちゃんの住所とか、佐々木君、聞いてない?」

「住所……」

 確かに住所も知らなければ、学校も分からない。首を振った。

「本人に案内させて車で送って行くつもりだけど」

「ああ……」

「佐々木君。あんた、中学生の子の面倒見てる、っていうか、まあ、彼女が勝手にくっついてるっていう感じではあるけど、一応、一緒に遊んでる……、なんか言葉悪いな。とにかく、そういう感じだから、紗耶ちゃんの保護者のこと知らなくちゃだめよ。まあ、私たちも、みんな責任あるとは言えるけど。だから、今日送る時、一緒に来てよ」

「……はい」

「ちゃんと、話せるあなた? いつも観測所に来ていますって」

「……」

「無理か。まあいいや。紗耶ちゃんにはいつも研究の手伝いしていてもらってるとでも言うからね、私が」

 佐々木が頷く。

「で、ほんと、これが本当の目的だけど、ちゃんと養育しているのか、虐待とかじゃないのかって、確認しないといけないわ。紗耶ちゃん、日曜日は家から逃げてきてるのかもしれないって感じがするのよね」

 佐々木は口を少しすぼめるようにして、また頷いた。だが、佐々木には紗耶が逃げてきているとは思えなかった。紗耶はここでみんなに会うのが楽しみで来ているに違いないと佐々木は信じている。もともと人の心のありようを理解することなど佐々木には不得意であるけれども、これだけは間違いないと思っている。

 ふすまがガタっと音をたてた。

 京子が飛び跳ねるように立ち上がって、ふすまを開けると、紗耶がふすまに手を掛けた格好で倒れていた。

「大丈夫?」

 京子が言うと、紗耶は、うつむいたまま首を縦に動かした。京子は佐々木を手招きで呼び、二人で抱えて紗耶を布団に戻した。

 紗耶の目はしっかり開いている。瞳が京子をとらえると、口が動いた。

「なに?」

 京子が耳を近づける。

「……飲み物……ください」

 うん、と言って京子が頷き立ち上がると、佐々木が、いままで聞いたこともないような大きな声――といっても、普通の人には普通の音量ではあるが――で、

「甘いもの」

と言った。京子は、一瞬足を止め、頷くと、すぐキッチンへ向かった。

 だが、暖かいココアを入れたマグカップを持って京子が戻って来たときには、紗耶は再び眠っていた。枕もとで佐々木がじっと紗耶を見ている。

「寝ちゃった?」と京子が尋ねると、佐々木が「うん」と答えた。

「意識がなくなったっていう感じではないね。病気なのか、ただ疲れているのか、よくわからないわ……病院へ連れて行くべきかな」

 佐々木はゆっくりと振り向き、京子の足下あたりに視線を置いて、「それより……」と言った。

「そうね。まず家に帰さなくちゃ」

 佐々木が頷く。

 京子が佐々木の隣に座り、紗耶を揺り動かすが、紗耶は目を覚まさない。軽く頬を叩いても、殆ど反応がなかった。

「だめだ。とりあえず、寝かせておくわ」

と言い、また、目が覚めたら呼ぶから、と佐々木に帰るように言ったが、佐々木は動こうとしない。

「佐々木君」

 と呼んでも反応せず、ただじっと紗耶を見ている。仕方なく、佐々木には好きにさせようと思い、京子は家の仕事にかかった。

 夕方になっても、夜になっても紗耶は目を覚まさない。京子は片桐と鏑木にも電話で伝え、それぞれすぐにやって来たが、二人にも為す術なく、結局佐々木に任せて戻っていった。

 佐々木は、京子が夕食を作るから食べろと言っても拒み、帰って寝ろと言っても拒み、紗耶の枕頭に座り続け、そして月曜の朝になった。

 紗耶は目を覚まさない。七時前にまた片桐と鏑木が来た。京子と佐々木は、今日一日有給休暇にしてもらった。十時になっても紗耶の目は覚めない。

 片桐の裁断で、紗耶を大学病院に連れて行くことになった。片桐は医学部に顔が利くらしく、とりあえず、住所不明、保険も不明という状況ながら対応してもらうことになった。

 鏑木も休暇にして、彼のワンボックスカーに寝ている紗耶を乗せ、京子と佐々木で挟みつつ、大学病院に向けて出発した。鏑木は、運転しながら、再三にわたり京子に警察に届けろ、と言う。その都度佐々木が、どうしても、本人から聞く、と小さな声で言う。鏑木は「お前に言ってるんじゃない。古賀に言っているんだ」と言って取り合わないが、京子も紗耶の件については、佐々木の意見を無視したくはなかった。

「そんなに言うなら、鏑木さんがすれば良いじゃない。鏑木さんは関わりたくないから、自分じゃやらないんでしょ」

 憮然と黙った鏑木は、違法と知りつつ運転しながらスマホを取り出し、卑怯なことに片桐にこの件を連絡した。佐々木の怒ったような目がミラー越しに見えた。佐々木の感情が表情に出たのを見たのは、初めてだ、と鏑木は思った。

 二時間かけて病院に着いた。紗耶の目は覚めない。待たされることなくすぐに診察が始まった。


 所長の片桐は、鏑木から電話を受けると、そりゃそうだ、とすぐに所轄の警察に電話をかけ、白川紗耶という中学生の捜索願が出ていないか確認したが、何も届けられてはいなかった。同じ年頃の女子についても、該当する捜索依頼はないとも言われた。片桐は、頭に傷痕のある中学生を当方で預かっている旨を伝え、首をかしげつつ電話を置いた。


 診察は続いていた。紗耶は移動ベッドに載せられてあちらこちらをぐるぐる廻っていた。その間に、病院側から、とにかく入院させる旨の説明が付き添いの三人にあった。薄い水色の事務服を着た三十前後の背の高い女性が、身元が分からなければ保険がきかず、かかった医療費は全額が本人負担になるという説明を始めた。鏑木が、「とんでもない、この子の保護者が」と言いかけると、後ろから佐々木が、

「僕が払います」

と遮った。鏑木と京子はぎょっとしたように振り返るが、佐々木の表情は、いつも通り変わらない。

「他にお金の使い途もなく……」

 と、続けて言ったようには京子に聞こえたが、あまりにも小さな声で、確かではなかった。

 三時を過ぎた頃、病室に紗耶がベッドごと運び込まれた。まだ目覚めていない。病室は、他に空きがないということで、個室だった。

 程なく担当の医師らしい初老の男が来た。クリスタルのように透明度が高く、それでいて光をばらまくような眼鏡を掛け、グレーの口ひげを蓄えていた。看護師が一人付いている。

「保護者がわからないと?」

 部屋に入るなり、医師が言う。大学病院でこの年齢であれば、あるいは相当の地位の人であるかもしれなかったが、京子は憮然とした表情で、「はい」と応えた。

「でも、とりあえずは私たちが面倒を見ていますから」

 鏑木が言うと、医師は「わかりました」と頷いて、三人を交互に見た。

「この子の具合は、実は、どうにも、わかりませんのです。体に異常は見当たらないし、とりたてて症状というのもない。多少、徐脈かな、とは思われますが、大したことではないし……。片桐准教授からもお話があったので、MRIでも診ましたが、全く異常はない。頭の傷も、範囲は広いですが、一年ぐらい前に外傷を受けただけのようで、脳には全く影響していませんね。ということで、まあ、大丈夫だとは思います。意識が戻って、記憶やら言語やら運動が確認できればまた診断もできますが、今のところは、何というか、疲れて眠っていると言いましょうか、何か非常に疲れるような事はしましたか?」

「昨日、雪の中を少し歩いて何度か転んだらしいですが、その前の日のことは、わかりません」

と京子が言う。

「ああ、そうですか。特に外傷はないようですがねえ。何か体力的、精神的に大変なことがあったのかもしれませんねえ」

 医師が佐々木を見るが、佐々木の焦点は、遙か遠くをさまよっている。

「ああ、そうだ。この症状に最も近いのは、こんな事言うのも何ですが、あれです。老衰で亡くなる直前が、こんな感じなんですよ。もうエネルギーがなくなった、というような」

 京子が困惑気味な表情をしているのを見て、医師は、「まあ、大丈夫ですから」と言い、手を上げ、軽く会釈をして去って行った。

「無神経かつ頼りにならん医者だな」

 鏑木が医師の後ろ姿を見ながらつぶやいた。

 付き添いは二十四時間いてかまわない、ということだったので、三人で話し合った結果、佐々木が残ることになった。

 医師が大丈夫でしょうと言ったのを聞いて、佐々木の不安はだいぶ和らいでいた。京子と鏑木が帰り、ベッドの横にある椅子に腰掛けると、昨晩一睡もしていないこともあって、佐々木はすぐに眠りに落ちていった。

 夢の中で佐々木は蝉になっていた。木にへばりついて、大きな声を出して歌い続けている。汗がたらたらと流れる感触がある。眼下には、黄色い花畑が広がり、モンシロチョウが幾千匹もひらひらと舞っているのが美しい。佐々木さんもこっちにおいでよう、と蝶が言うので飛んでみたが、蝉の自分はひらひら飛べず、まっすぐ花に突っ込んでしまう。ははは、と蝶が笑う。佐々木さんばかねえ。佐々木さん、佐々木さん。

「佐々木さん」

 と呼ばれる声に目が覚めた。廊下の明かりが室内に入っているが、部屋は暗い。

「佐々木さん」

 ベッドから声がした。すぐに電灯をつけると、紗耶が枕から少し頭を上げて、まぶしそうに目をしばたいていた。時計を見ると、もう九時になっていた。

「佐々木さん、ここは?」

 消え入りそうな声で紗耶が訊いた。

「起きたね。大丈夫?」

紗耶が頷く。「ここは?」

「あ、ここは、病院」

「……病院か」

 紗耶は、少し回りを見て、頭をまた枕に沈めた。

「病気じゃないけど」

 言いながら紗耶は目を閉じた。

「……うん、先生は、どこも悪くないって言っていた」

「……」

 紗耶の呼吸が、再びゆっくりと大きくなり始めた。

「眠い?」

 佐々木が訊くと、紗耶は枕に頭を置いたまま左右に首を振った。

「でも、力が出ない」

 佐々木は黙って紗耶を見ている。

「……佐々木さん」

「黙ってていいよ」

 佐々木が言っても、紗耶の口はかまわず小さな声を送り続ける。

「……雪、冷たかったな」

「そうだよね」

「……それとね……お風呂がね、気持ちよかったよ」

「そうだよね、気持ちいいよね」

「春は……もうすぐかな」

 佐々木はじっと、紗耶を見つめる。世の中でたった一人、顔の見える人のその顔は、目を閉じ、何か満足そうな表情を湛えているように見えた。

「うん、もうすぐ春だよ。冬はすぐに終わるよ」

「……もうすぐか」

 佐々木はうん、うん、と首を上下に振る。

「……もう、十分かな」

 と紗耶が言う。佐々木の心に何かが当たったような気がした。

「何が十分?」

「もう、春だもんね」

「いや、まだ冬だから。春はまだだよ」

んふ、と紗耶は笑った。

「……佐々木さん、変なの。今、もうすぐ春って言ったのに」

「いや、やっぱりまだなんだ」

「佐々木さん。ありがとう」

「え」

「佐々木さんのおかげで、楽しめました」

「え」

 紗耶の口が動くが、声が聞こえなくなった。

「どうしたの?」

 佐々木が、毛布の上から紗耶の肩を軽く叩く。こつりとした感触の細い肩だった。紗耶は少しだけ顔を左右に振る。

「……約束だったから」

「何の?」

 紗耶の口が、かみさまと、と動いたように見えた。

 佐々木が首を振る。

「紗耶ちゃん、大丈夫?」

 紗耶は動かない。

「だめだよ。紗耶ちゃん」

 すうっと、紗耶の顔からピンクの色が褪せていった。

「紗耶ちゃん、だめだって」

 佐々木が肩を揺するが、紗耶は動かない。

 震える手で、恐る恐る首の脈をみてみる。何も動いていない。耳を鼻に近づけてみる。何も聞こえない。

 慌てて枕元にあるナースセンターのコールボタンを押そうとするが、手元が定まらずなかなか押せない。何も見えなくなってきた。何が何やらかまわずボタンのあたりを押しまくる。「どうしました?」とスピーカーが、がなるのが聞こえた。

 佐々木は叫んだ。何を言っているのか全く分からない。とにかく、何か、声を出していた。

 すぐに看護師が幾人も来て、大騒ぎをしながら、一人が紗耶にまたがって、心臓を押し、そのまま紗耶をベッドごとどこかへ持って行ってしまった。

 誰もいなくなった病室のリノリウムの床の冷たさが、手にしみた。


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