八
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観測所で観測することに飽き足らなくなった片桐所長は、学部からの依頼の他に分析を重ね、地域の環境に関して観測所としての研究を発表しようと前年から準備を進めていた。その中で、分析結果による環境変化の現状と将来予測に関しては、鏑木をリーダーとして所員三人で分担し、一月末までに結果を出すよう指示していた。一月の三週目になると、三人とも、昼夜にわたりそれぞれ担当している部分のまとめに忙しく、日曜日とはいえ休む間もなかった。鏑木と京子は、官舎で作業をしていた。佐々木だけは、紗耶が来るだろうからと、分析室で自分の作業をしていた。
「おはようございます」
と言いながら入ってきた紗耶は少し顔色が悪かった。手に一輪の水仙を持っている。
「おはようございます」佐々木が小さな声で応える。
「佐々木さん、パソコンに挨拶してるみたい」
少し無理したように明るく言った紗耶は、緩慢な動きで棚の中を物色し始めた。ちょうどいい薬瓶を見つけると、
「佐々木さん、これ使ってもいい?」と、瓶を佐々木に見せた。
佐々木が、うん、と頷くと、紗耶は瓶に水を入れて、水仙を挿した。
「こんな冬に咲いてたから」
「せっかく咲いていたのに?」
佐々木が言うと、紗耶は眉間に皺を寄せた。
「……そうなんです。摘んですぐにひどいことしたかもって……」
と言いながら、水仙のささった瓶を佐々木の机に置いた。
佐々木は、じっとその水仙を見つめた。
「元気が出るね」
佐々木が言うと、紗耶は少し悲しそうな笑顔になって、頷いた。そして、佐々木の隣にキャスターのついた椅子を転がして持って来ると、どさっと全体重を一気に落とすように座り込んだ。
佐々木は、自分の仕事に向かった。時たま、左に座る紗耶を見るが、特に苦しそうでもなく、また退屈そうな様子でもなく、いつものように、好きでそこにいるという感じだったので、かまわず作業を続けた。
紗耶の頭の禿げた部分は、やはり先週より大きくなっているようだった。佐々木が紗耶を見ると、その都度にこりと笑うのだが、微妙にその笑顔がぎこちなく感じられる。もう少し何か紗耶の興味あることをしてやりたい、とは思うが、今日のところはそれは無理だった。
一日中、紗耶は佐々木の隣でパソコンと佐々木を見続けていた。
夕方、紗耶は帰り、夜になって鏑木が入ってきた。
佐々木の分析結果もちょうど下書きができあがり、プリントアウトしたところだったので、佐々木は黙って、その紙の束を鏑木に渡した。
「お、ちょうどさっき古賀からも受け取ったところだったんだ。だけど、これじゃ佐々木のところだけボリューム多すぎるな。三人のバランスもあるので、もう少し絞ってくれるか?」
と鏑木は言ったが、佐々木は鏑木の後ろの方をじっと見るだけで首を縦には振らない。
「うまくまとめてくれ」
佐々木は首を横に振った。
「……これが最大限まとめたもので……、これ以上は……」
「おまえ」
佐々木は、視線を変えず、動かない。
「これ以上短く書くと、論理性が疑わしく……」
「おまえな、この研究は一人でやってるんじゃないぞ」
それでも佐々木は納得しない。視線をずらし、鏑木の肩の辺りをじっと見つめる。
「わかった、もういい。俺がまとめる」
鏑木はその下書きを持って、大股で部屋を出て行った。
官舎の自室に戻り、鏑木はすぐに佐々木の下書きに目を通した。A4で百四十枚ほどになる佐々木の成果のドラフトは、確かに所長が考えている全体のボリュームにすると多すぎるが、佐々木の言うとおり、この分析をいい加減に記述してしまうと、論文そのものの論理性に疑問が残りかねない。読んでいけばいくほど、どこをどうやっても、これ以上は縮められないと思えてくる。そういう視点で、鏑木が自分で書いたもの、そして京子がすでに提出してきたものを読むと、それらが実に論証の甘いことに気づかされる。
結局、鏑木は、その日から三日三晩かけて、佐々木のものをベースにして、自分たちの分を再度組み直し、所長に提出した。だが、その内容について、佐々木には何も言わなかった。