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 七

 冬はすぐにやってきた。

 以来、紗耶は毎週日曜日には観測所に来るようになった。冬休みに入ると、毎日来た。

 佐々木が分析器に向かっているときは、大抵近くで椅子に座っているか、京子や鏑木と話をしたり、所長室で、相変わらず慣れないコーヒーを飲みながら片桐の話し相手になったりしていた。佐々木が外を見ている時は、必ずそのそばにいた。

 十二月二十五日、観測所のメンバーは紗耶にクリスマスプレゼントをあげた。百人一首のかるたである。読み上げるアプリはスマホでダウンロードできる。

「うわ、きれいな絵!」

 読み札を見て紗耶は感嘆の声を上げた。

「でも、この下の句だけが書いてあるのは何ですか?」

「あら、紗耶ちゃん百人一首のかるた知らないの?」

 京子が驚いたように尋ねる。

「はい。でも、この歌は全部わかりますよ」

「え、かるた知らないのに百人一首は覚えてるんだ。なんか、すごいね。これはね、こっちの札をこうして並べて、上の句が読まれたら、それに応じる下の句の札を取り合うゲームよ」

「あ、おもしろそうですね」

「やってみる? みんなで」

 片桐以下、男三人は目を丸くした。

「勤務時間中だろ」鏑木が言ったが、片桐の「休憩中だ」で、全員でやることが決まった。

「まだ正月じゃないってのに」と往生際の悪さを見せながらも鏑木も身を乗り出して構えた。

読み上げはアプリに任せる。

《山里はー 冬ぞ寂……》

「あ、これ」

 紗耶がそっと取り上げた札には『ひとめもくさもかれぬとおもへは』と書かれている。スマホは、続きを読み上げている。

《人目も草も枯れぬと思えば――》

 おお、という溜息のような感嘆の息が周囲から洩れた。紗耶は、えくぼを見せて少し恥ずかしそうに札を脇に置いた。

 佐々木に見える唯一のその顔は、窓からの角度の浅い光を受けて、産毛の一本一本までが光っているように輝いていた。

 ゲームは、当然の事ながら下の句を知っている紗耶の圧勝だった。札を紗耶に取られていく大人達は、嬉しそうに札をのぞき込んでは、声をあげている。佐々木には、彼らの顔が、以前より少し近くに見えているような気がした。

 十二月二十九日から一月三日の六日間は、観測所も正月休みである。単身赴任の片桐は二十八日の夜から自宅に帰り、鏑木は二十九日から東京の実家に家族で帰って行った。京子と佐々木は、帰省せず観測所に残った。

 紗耶は毎日やってくる。冬休みというのにいつも制服である。最近はコートも着ている。佐々木は毎日観測所で紗耶を待つ。京子は、官舎に居ることが多かったが、日に一度は紗耶の顔を見に観測所に出てきた。

 一月一日に、佐々木はお年玉を紗耶にあげた。紗耶は、丁寧に礼を言ったが、さほど嬉しそうではなかった。紗耶にとって、金銭というのはあまり重要ではないのかもしれない。

「初詣に行こう」

 と佐々木が紗耶を誘った。佐々木が自分の意志で他人をどこかに誘ったのは、おそらく生まれて初めてのことだ。

「うん」と紗耶は大きく頷いた。

 観測所からバス通りを登る。息は白くなるけれども、歩いていると少し汗ばむくらいに暖まる。紗耶は、佐々木の前に行ったり、後ろについたり、両手を大きく振って楽しそうに歩いている。二人とも特に話をするわけではない。右に折れて山道をさらに登ると、鳥居があって、なるほど、これが参道か、と思わせるような階段と続いて質素な石畳があった。幾人かとすれ違うが、殆どが老人だった。その先に小さな神社があった。えびね神社と呼ばれていて、神主がどこにいるか分からないような神社であるが、さすがにこの日は、参拝者が十数人はいて、お守りやおみくじを売る臨時の出店もあった。

 紗耶は、小さな神殿らしき建物の前にある祠で佐々木の真似をして、手を打って手を合わせた。佐々木が顔を上げても、紗耶はまだ何事かを祈っている。佐々木は、紗耶の後頭部の禿が人目にさらされないよう、いつの間にか紗耶の左後ろに移動していた。祠は、古く色褪せていたが、不思議な威厳に満ちていて、それこそ何でも願いを聞き届けてくれそうな、そんな気が佐々木にはした。

 紗耶は、ずいぶん長いこと祈っていた。後ろに並ぶ数人の老人達は、それでも紗耶の傷痕が目に入るので、お参りが長いのも仕方ないとでも思うのであろうか、嫌な顔せずに、じっと紗耶の祈りが終わるのを待っていてくれた。

 紗耶は合わせていた手を下ろして、笑顔で勢いよく振り返った。だが、後ろにできていた行列を見て、瞬間的に自分が待たせてしまったことを悟り、笑みがしぼむように消えていき、そして、ゆっくりと小さく、頭を下げた。

 その様子が佐々木には、たまらなくおかしく感じられ、思わず、小さく吹き出した。もう、何年も忘れていた衝動的な笑いだった。

 それを見た紗耶も、また、笑顔に戻ってから慌てて佐々木の腕を引っ張って、横に逃げるようにその場所を空けた。

 佐々木は、笑顔のまま紗耶に手を引かれながら、この子の顔さえ見ることができれば自分はこれからも人間社会で生きていける、と思った。


 あっという間に冬休みが過ぎ、新学期が始まると、紗耶が来るのはまた日曜日だけになった。朝から来ては、佐々木の隣に座ってのんびりと窓の外を見ている。

 本格的な冬となり、昆虫は、殆どが土の中でじっとしているか、卵となって孵化を待つようになっていた。佐々木に届く声も少なくなっている。

 佐々木はちらりと紗耶を見る。紗耶は、まっすぐ前を見ている。かわいらしい横顔と同時に痛々しい禿が目に入る。よく見てみると、その部分は、以前より大きくなっているような気がする。

 気のせいかもしれないが、それにつれて、紗耶にはどことなく元気がなくなってきているようにも感じる。傷が悪いのだろうか。それとも、ここにいるのにもう飽きてしまったのだろうか。佐々木に不安がわき上がるが、どうすることもできない。



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