六
六
紗耶は、言ったとおり次の日曜にやってきた。
京子から話を聞いていた片桐と鏑木が、特に用もないのに職場に詰めていた。佐々木も日曜に観測所に出勤するのは、先週が初めてだったが、この日は、朝から分析室にいた。
午前のうちにきた紗耶は、時々片桐や鏑木が話しかけてくるのに応えたり、観測所内を巡ったりしていたが、することがなくなると、何となく佐々木の近くをうろうろしたり、佐々木と一緒に外を見たりしていた。
片桐と鏑木は、佐々木を慕ってくる中学生など変わった子だろうとイメージしていたが、紗耶に会うと、その可憐な面持ちと、明らかにハンデとなっている傷跡を気にもしていない態度、それにたまに口を開いた時の丁寧な物言いにすっかり魅了されてしまった。
片桐は、何かれなく世話を焼きたがって、午前中だけで三回もコーヒーを淹れてやった。紗耶は、まだコーヒーを飲み慣れないらしく、砂糖を三、四杯入れ、ミルクも大量に入れて、十分冷めてから飲んでいる。
昼食は、観測所内のダイニングキッチンで、五人で焼きそばを作って食べた。
「お父さん、お母さんは家におられるの?」
と京子が訊くと、紗耶は口に入っていた物を急いで呑み込んで、
「いません」
と明るく答えた。
「出かけているの?」
「いえ、もう亡くなったんです」
観測所の四人全員が一瞬箸を止めた。
彼女の顔を見ることができるのは、そのせいだろうか、と佐々木は考えた。何となく、肉親の死というものと、顔が見えないことに関係がありそうな気がしている。
「ごめんなさい。じゃあ、あなたの保護者は?」
京子が続けて質問した。片桐が極めて不快そうな表情をする。
「いますけど、なんか、よく分からないんです。小さいときは、お父さん、お母さんだと思っていたんですけど、ある時、本当の両親はもう死んだ、と聞かされて。でも、その二人が私とどういう関係にあるかは教えてもらえなくて……」
「ふうん」と京子は、いかにも答えようがない、という返事をした。
「複雑なんだね」
鏑木が背もたれに背を預けながらつぶやくと、片桐がまた不快そうな顔をした。
「ここに来ていることは、その、家の人達は知っているの?」
京子が尋ねると、紗耶は首を横に振った。
「まあ、できるだけ、きちんと言っておいてね。ここには、いつ来てもいいから」
紗耶が頷くと同時に、片桐も満足げに頷いた。
昼食が終わると、佐々木は観測所内の空き地に出た。紗耶は黙ってついていく。虫を踏まないように気をつけて歩く佐々木の踏んだ跡を慎重に歩く。
片桐が窓からその様子を見る。
「どうしてあの子は、佐々木をあんなに慕っているのだろう」
「害がないからじゃないですか」
鏑木が言うと、片桐は白い歯を見せた。
「でも、見ようによっては魅力的かもしれませんよ佐々木君は」
と後ろから京子が言うと、二人は勢いよく振り返った。
「え、女性から見ると佐々木は魅力的なのか?」
片桐が言うと、京子は小さく手を振った。
「いえいえ、人の好みなんか、人によるってことですよ。母性本能を刺激するタイプがいいとか」
「え、古賀くんは、ああいうの、母性本能刺激されるの?」
「あのね所長。そういうこともあるかもしれないって言ってるんです」
「ほお」
と言ったなり片桐はまた窓に向いて、佐々木と紗耶が外柵のブロックに腰掛けるのを見た。ブロックの上には、もともと金網が張り巡らされていたのだが、今は朽ちてしまっていて取り外されている。支柱だけは五メートルおきにブロックに刺さったままになっている。
それにしても佐々木はいつもいったい何を考えているのだろう、と片桐は思う。時間さえあれば外を見てぼうっとしている。あの時間を研究に使えば、彼の能力なら良いものもできように、と思える。だが、酒匂川教授からは、彼の赴任前、期待しても無駄だからな、と念を押されたことを思い出す。と同時に、自分が大声を出して怒った時に言い返しもせず黙って立っていた姿が思い出された。あの時は、あとで学生二人が謝りにきて、佐々木が悪くはなかったことが分かったのだが、佐々木は全く弁解しなかった。
佐々木は、空き地の草むらを見ている。エンマコオロギの声が聞こえる。コオロギは早口だ。
「昼間は眠い眠いこんなに明るいのは目に毒だから太陽に当たっちゃいけない目が壊れるだから寝なくちゃいけない眠い眠いでもなんでおいらは寝てないんだ何をしてるんだああ眠い夜になれば彼女に会えるああ寝なくちゃ眠いでも眠れない」
と独り言を言っているコオロギの横に突然ツグミが降り立った。
「やべ」
コオロギは動きを止めた。ツグミはすぐ近くで地面をつついては虫を探している。コオロギには気づいていないようだ。佐々木が動けばツグミはすぐに飛び立つだろう。コオロギを助けることはできる。
ツグミは一足飛びにコオロギに近づく。佐々木は動かない。ツグミは地面をつつく。コオロギは黙って、じっとしている。ツグミはコオロギに気づいたか、気づいていないか。
佐々木は目を離した。向けた顔の先には紗耶がいた。紗耶は黙って草むらを見ている。
「鳥は虫を食べなきゃ生きられない」
佐々木が囁くように言った。
「……自然の……自然の摂理に人間が介入するのは、ほどほどにしておくべき……」
少し早口で佐々木は続ける。目を草むらに戻すことができない。紗耶は頷く。佐々木はさらに続ける。
「だから、虫を助けないことは罪じゃない」
すると、紗耶が佐々木の方を向いた。その目は少し怒っているようだった。
「鳥の命は、いくつもの虫の死によって永らえるものです。少しばかり虫を助けたところで、鳥が死ぬわけじゃありません。だから、わたしは、もし、助けてあげられる状況があるのなら、虫を助けてあげれば良いと思います」
「それは虫の言い分……」
「虫の言い分でもいいでしょ」
紗耶が、キッとなって言うと佐々木は目を開いて大きく頷き、立ち上がった。