五
五
冬が近づいている。しかし、この日曜は濃い蒼の空からそそぐ陽の光で春のように暖かくなっていた。佐々木は、麓の町までバスで買い物に行き、その帰り、観測所から三百メートルほど下がったところにある最寄りのバス停で降りた。バス停には、近所のだれかが寄付したのだろうか、食卓で使うようなビニール張りの椅子が三個並べられ、その隣には木製のベンチが置いてあった。このバス停に三人以上が並ぶことなどあるのか、と佐々木は思いつつ、立ち止まってそのベンチを見つめた。背もたれのない、ほとんど人に座られることのないそのベンチは、色あせ、表面のニスが剥げ、それでも何かを待っているかのように静かに佇んでいた。佐々木は、背負っていた荷物を下ろし、道路を背にしてそのベンチに腰掛けた。少し、暖かかった。前には、草むらが広がっている。山の中腹であるが、視界が開けていて、とても明るく感じられる。
「ユーは、もう少しコーティシーというものを身につけないといけないねえ」とキリギリスが誰かに言っている。自分が礼儀正しいとでも思っているのだろうか。キリギリスは続ける。
「そのためには、まず、マナーをスタディするといいよ」
やや低い声で、相手のキリギリスが応えた。
「けっ。なにがマナーだ。遊ぶのに忙しくてそれどこじゃねえさね」
「ウィーのライフはベリーショートなんだから、遊んでいる暇はないはずだよ」
「何言ってやがんでえ。ベリーショートだから一所懸命遊ぶんじゃねえか」
「全く、その前にコーティシーだよ。相手を不愉快にさせるんだからユーは」
「何だと」
「ガッ」
「グ」
キリギリス同士が喧嘩を始めた。
「無益な喧嘩だなあ」
と、佐々木は二匹を引き離そうかと、立ち上がりかけたとき、いつの間にかベンチの隣に人が座っているのに気づいた。
見ると、中学生くらいの女の子だった。佐々木はすぐに目をまたキリギリスに戻し、もう一度引き離しに行こうか、どうしようか、と考えた。
が、何かが変だった。また、女の子を見る。十五歳前後である。着ているブレザーにスカートは、どこかの中学の制服だろう。佐々木と同じように道路に背を向けて、草原を見ている。髪は肩までかかるほどの長さであるが、一部、後ろの左側の髪が大量に抜けているようだった。他の髪で隠してはいるが、すぐに判別できるほどの大きな、手のひら大の禿であり、傷跡があるようだった。横顔はとても整っていて、大きな目と長いまつげ、小さいながら高さと丸みを持った鼻がなんともかわいらしかった。
と、思ったところで気づいた。「え」と声が出た。顔が見えるのである。四歳のあの日以来、目の前に人の顔を見るのは初めてだった。
佐々木はその女の子を見つめ続けた。
女の子は、佐々木の声に気づいたのか、すっと佐々木の方に顔を回した。佐々木と目が合う。横顔から想像するとおりの正面からの顔だった。壊れそうな可憐さとでも表現するべきか、佐々木の眉が開いた。
女の子が微笑んだ。
――ああ、人の顔というのは、こういう風に変化するんだった。
と佐々木は、女の子の顔を見つめ続けた。女の子の口が開いた。
「おじさまは、どうしてくさむらの方を見ているのですか?」
「おじさま?」
「ええ、おじさま」
「……」
「どうして、道路じゃなくて、こっちを見てるんですか」
自分だって、と思ったが、口から言葉になって出てこない。
「虫……」
「虫ですか」
「うん、虫」
「ふうん」
女の子は、また草原の方を向いた。
「虫はすきですか?」
彼女の問いに佐々木は草原を見ながら頷いた。
「わたしも、すきです。あの儚き生涯に、小さな喜びを数多見いだし、謳歌するその生き方が」
「うん」と言って、しばらく何かを考えてから、佐々木は立ち上がり草むらに入っていった。
争っている二匹のキリギリスを見つけると、取り上げて、それぞれを違う方向に投げた。投げられたキリギリスは空中で羽を広げ、思い思いの方向に飛び去っていった。
それを見届けると、佐々木は、ベンチに戻り荷物を取り、ふたたび背負った。そしてちらりと横目で女の子を見ると、そのまま、官舎の方への坂を上り始めた。
歩道を渡る蟻の行列から声が聞こえてくる。
「第三小隊は右前方の砂糖回収に向かえっ」
目を懲らして見てみるが、どの蟻が指揮官なのかは分からない。とりあえず、踏まないように注意しながら、蟻の集団をまたぐ。
後ろから足音が聞こえてきた。振り返ると、女の子がついてきている。目が合うと彼女は微笑んだ。えくぼが見えた。佐々木は、地面を指さした。彼女は頷いて蟻の集団を慎重にまたいだ。
佐々木は、ほっ、と一息吐いてまた歩き始めた。女の子は、黙ってついて歩く。佐々木はかまわずに歩き続ける。
五分ほどで観測所に着いた。開きっぱなしになっている門扉を通って、右に行けば官舎の建物、左は観測所である。佐々木は、振り返って、女の子がまだいるのを確認すると、少し考えて観測所の方に入っていった。日曜だが、観測所内には誰かがいる気配がする。
女の子も続いて入る。
分析室に入ると、案の定古賀京子がいた。
「あれ?」
京子は、女の子と佐々木を交互に見た。佐々木は、黙って自分の机に行くと、荷物を下ろした。
「誰?」
京子が佐々木に訊く。
佐々木は、首をかしげる。京子は、なお首をかしげる。
「暇だからつけてきちゃいました」
と、女の子が肩をすくめた。
「まあ」
京子は、また佐々木と女の子を見比べた。
「お嬢さん、どこの子?」
「麓の鶴町です」
「中学生?」
「はい。二年生です」
「名前は?」
「あ、白川紗耶です」
「さやさんね。私は古賀京子。さやさん、つけてきたこの変な人の名前は知っているの?」
「いえ」
「佐々木さんです」
「佐々木さん。佐々木さんっていうんですね。音の響きがその佇まいにとても調和しているように思います」
佐々木が、うつむいた。京子が、くく、と笑った。
「佐々木さんは変な人なんですか?」
紗耶が真顔で京子に尋ねる。
京子は、また、くくく、と笑って、「そうね。変っていうのは言葉が悪いわね。佐々木さんは、少しみんなとは違うって感じかな」
「あ、それなら、分かります。菜の花畑に咲く一本の紫草のように」
「え?」
京子が少し首をかしげる。
「あなた、それ、佐々木さんが好きだから人間が好き、という意味になってない?」
今度は紗耶が小さく笑った。
「紫のひともとゆゑに武蔵野の 草はみながらあわれとぞ見る、ですね」
「そうそう。よく知ってるわね。私理系だから、得意じゃないけど、そういうことだよね」
紫草という貴重な草が一本あるだけで、武蔵野の野原いっぱいの花すべてがいとおしく見えるという歌である。
二人は、目を合わせて莞爾と笑った。
「そういう意味で言ったのではなかったんですけど」
「ふふ、そうでしょうね。じゃあ、まあ、好きなだけ見学していってください。将来ここの研究者になるかもしれないものね。……でも、あなた文学系だからそれはないか」
「あ、でも、ありがとうございます」
と紗耶は頭を下げた。その時、京子に紗耶の頭の禿げた傷跡が見えた。
佐々木は、試料分析器で何か作業を始めた。紗耶は、佐々木や京子のしていることを興味深げにのぞき込んだりしていたが、やがて佐々木がやるべき事を終え、窓際に椅子を持って行って外を見始めたら、その横に椅子を並べて、外に向いて座った。
佐々木はウスバカマキリの声を聞いている。
「こうやって待っとっても、食べもんは、なかなか歩ってきいひんなあ。なんぞ滋養のあるもん食べんと卵産めへんわあ」
と言っているそばをミツバチが口笛吹きながら飛んでいる。
「お」
佐々木が声を出すのと、蜂が声を出すのがほぼ同時だった。そして、瞬く間にカマキリはその腕に挟んだ蜂をかじり始めた。
弱肉強食の世界である。蜂もその運命から逃れることはできなかった。特にこの時期のカマキリのメスの食欲はすさまじい。佐々木は心で手を合わせた。
紗耶は、その昆虫の声を聞いている佐々木の様子をじっと見ていた。この佐々木の様子を気持ち悪いと思うのが普通の感覚であるが、紗耶はそうは思っていないように見える。佐々木には隣で息を殺して静かに座っている紗耶の雰囲気が、虫の声を聞いていてもよく伝わってくる。横を向けば、紗耶の顔が見える筈である。気にはなるものの、どうしていいか分からない。いつものとおり、佐々木は自分の世界にこもった。
やがて、陽が低くなり、空の赤みが増してきた頃合いに、紗耶がふわっと席を立った。そして、「ありがとうございました」と、二人に向かって頭を下げた。
佐々木も衝動的に立ち上がる。京子が「またおいで」と言う。
はい、じゃあ日曜日に、と言ってくるりときびすを返し、紗耶は舞うように部屋を出て行った。