四
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佐々木は運転免許を取っていない。このため、数百の観測ポイントを回るのは、変わらず鏑木と京子の仕事だった。二人とも、当初は期待はずれにぶつぶつ文句を言っていたが、佐々木の観測所内での試料分析、資料解析の確かさと早さは驚くべきもので、少なくとも二人は試料分析をせずに済むようになったので、やがて何も言わなくなった。
大学の前期試験が終わり、人間の耳に聞こえる虫の音が騒がしくなってきた頃、学部の三年生の女子二人が、試料分析実習のために観測所に来た。実習は二週間である。最初の一週間、二人は試料収集の実習として、京子に付いて山道を車酔いしながら回り、各観測ポイントの土壌試料を集めた。日曜を挟んで次の週、今度は観測所内でその試料の成分分析を行う。所長は、学生の指導係として佐々木を指名した。
月曜の朝、佐々木は、丁寧に分析の方法を教え始めた。二人の女子学生は、メモを取りながら佐々木の説明を聞く。佐々木は分析対象ごとに違う分析器の前で説明するが、二人とも常に佐々木の口元に耳を持っていくほどに近づいて聞く。佐々木にとっては、どんなに近づかれても、その顔は三十メートル後方にしか見えないから、気にはならない。女子学生も、佐々木を男として見ていないのか、全く気にすることなく顔を近づける。
「特に、試薬の投入と窒素の通気、試料の投入の順は間違えやすいので注意してください。試料を先に入れてしまうと、分解が先に始まり違う値が出る事があります」
佐々木の口調には抑揚がないので、何が重要か分かりづらいが、佐々木も重要なところは二度三度言うようにしており、それで二人はある程度ポイントは押さえられたようだった。
二人が試料分析を始め、コツをつかんだことを確認すると、佐々木は分析を二人に任せ、自分のすべき他の試料の分析にかかった。
三日経過し、二人の行うべき分析は完了した。レポート作成のため、結果をまとめているところへ、片桐所長がのぞきに来た。
「おや」
パソコンの画面を見ていると、どうも、数カ所の土壌組成が見慣れない。片桐の記憶している以前のデータとはずいぶん異なる。
「劇的な環境変化があるようだな、ちょっとした発見かもしれん。おい、鏑木君」
と、鏑木を呼んで、学生そっちのけでデータの分析にかかり始めた。そこに京子も加わる。土壌組成が変わっているのは、七カ所で、いずれもある程度近接している地域のものである。
「何か、大規模な不法投棄があったのかもしれませんね」
鏑木が言うと、京子も、「可能性はありますね。でも、こんなに広範囲にばらまいちゃったんでは、大問題ですよ」
「ううむ」
片桐が、パソコンから目を離し、かがめていた腰を伸ばすと視線の先に佐々木が機械をいじっているのが見えた。
「佐々木」
と呼ぶと佐々木は、こちらを見て、ゆっくりと近づいてきた。
「このデータ、どう思う」
片桐は、佐々木の分析能力に関しては既に絶対的な信頼を置いている。
頷いて、しばらくデータを見ていた佐々木は、顔を上げて片桐に向き直った。
「正しい分析結果とは思えません」
辛うじて聞き取れる声で言った。京子と鏑木が再び画面をのぞき込んだ。
「ああ、分析の際、試料を先に入れてしまったとかの可能性は……」
鏑木が振り返って言う。
目を丸くした片桐は、すぐにまたマウスを取ってパソコンのデータを操作し始めた。
マウスから手を離し、近くにあった椅子に腰掛けると、片桐は、机から追いやられた格好になっていた学生二人を呼んだ。
「この九番から十五番までのデータ分析したのはどっちだ」
「あ、わ、わたしです」
ショートカットで少し肩の張った感じに見える、井上悠里という名札を付けた学生が、おそるおそる答えた。所長の顔は、やや紅潮している。
「分析器に入れる際、試料と試薬、窒素をどういう順で入れた?」
「え、あ、試料が先で、窒素で通気してから試薬を入れたと思います」
片桐と鏑木、京子が顔を見合わせた。
「そりゃ間違いだ。試薬を先に入れないかん」
すると悠里は、持っていたノートを閉じながら、
「あ、でも、佐々木さんが、そうしろって……」と言った。
片桐が佐々木を見る。佐々木の表情は変わらない。
「佐々木、おまえ、そう言ったのか?」
佐々木は首を少しだけかしげた。
「どうなんだっ!」片桐が大声をあげる。
佐々木の表情は、変わらない。
「おまえが間違えて教えたということだな」
佐々木は微動だにしない。
「何とか言わんかっ」
観測所全体が凍り付いたように静まりかえった。片桐が佐々木を見続けるが、佐々木は全く変わらない。しばらく沈黙が続いた後、
「全部おまえがやりなおせ!」
と、片桐は椅子を倒しながら席を立って、向かいの所長室に戻って行った。
佐々木は、そのまま動かない。
井上悠里は、呆然と片桐の後ろ姿を見送ったまま立ち続ける。
京子が、鏑木を見て、肩を少しすくめるような動作をした。鏑木もにやりと笑う。そして京子と鏑木は、それぞれの仕事に戻った。
すると佐々木も一旦天井を見るように顔を上げてから、分析器に向かった。試料が残っているのを確認し、分析器の電源を入れる。
もう一人の学生、児玉早紀は、悠里の震える肩に手をかけて、悠里を傍らのテーブルの前に腰掛けさせた。そして、悠里が手にしているノートを取り上げた。
悠里が取り返そうとする。早紀はそれを遮り悠里に背を向けノートの中身を見た。分析の方法をまとめてあるページに、
〈試薬の投入→窒素の通気→試料の投入の順 これ間違えやすいので注意!〉
と書いてあった。佐々木が悠里と早紀に正しい手順を教えていたのは明白だ。
早紀は深く息を吐いた。
「悠里、あんたって」
と、振り返って悠里を見ると、悠里は黙って佐々木を見ていた。
「ちゃんと教えたって、言い返さないあの人がいけないんだ」
悠里がつぶやくと、早紀は悠里の肩を掴んだ。
「あんたね」
早紀は佐々木を見た。黙々と分析の作業を始めている。
「あの人は、こうやって、どんどん人間がきらいになっていくんだわ」
早紀はそう言うと悠里を引っ張って立ち上がらせて、佐々木のいるところまでいざなった。
「手伝います」と早紀が言うと、悠里もその隣で少し頭を下げた。
佐々木は振り返り二人を認めると、小さく頷いた。
三人はその後、深夜まで試料の再分析を行い、その日のうちにすべてを終わらせた。
翌日、金曜日は、実習の最終日である。すべての試料分析をもとに学生二人は分析室でレポートの仕上げにかかっていた。昼が過ぎ、三時頃にはようやくめどがついた。
早紀が大きく伸びをしながら、隣の悠里に話しかける。
「ユリ、ちゃんと佐々木さんに謝っとかなきゃだめだよ」
悠里は、手を止めて早紀を見る。
「わかってるの?」早紀が言う。
「うん、まあ、わかってるよ」
悠里がパソコンに向き直って答える。
「でもなんであの人は自己主張をしないんだろう」
「そうね。所長も怒ったけど、もともとは信頼してるみたいだったし、ちゃんと言うこと言えばすごい人なのかもしれないのにね」
「だよね。でもまあ、へんな奴だよ」
と言った悠里を早紀が軽く叩いた。悠里が顔を早紀の方に向けると、近づいてくる人影が目に入った。
そちらを見ると、佐々木だった。
悠里の顔面から笑みが消える。
佐々木は、悠里の前に立ち、静かに何かを差し出した。
何だろう、と悠里が見ると一冊のノートだった。
「間違って教えたお詫びに……」佐々木の虫のような声が聞こえた。
「え?」
悠里は恐る恐るそれを受け取って佐々木を見上げ、またノートに目を落とした。早紀がのぞき込む。ノートの表紙には「無機微量分析概説」という表題と、佐々木、と名前が書いてあった。悠里が見上げると、佐々木は、すでに背を向けて自分の仕事に戻っていくところだった。
「なにこれ」
悠里がそっとページを開くと、ふわりとノートの回りの空間が華やいだような暖かく賑やかな雰囲気に包まれた。ノートを見ると、その中は芸術的なまでの美しさだった。一文字一文字正確に丁寧に細い万年筆らしきもので書かれた内容は、とても平易でわかりやすく、所々にある注釈や矢印に導かれた思考過程、回路図や概念図、多くの機械のスケッチは、それぞれが美術品とさえ思える。字の色には、それぞれ何か意味があるらしい。悠里は、次々とページをめくる。
横からのぞき込んでいる早紀は涙を流さんばかりである。
「これ、佐々木さんが学生の時の概論のノートね」
「……」
「テキストの百倍わかりやすいわこれ。これで勉強すれば、間違いなくAとれるね」
「……」
悠里はノートを閉じた。
「なんで……」と言って、早紀を見る。もう一度ノートに目を戻して首をかしげる。
「嫌味かな」
と言った瞬間、いつの間にかそばに立っていた古賀京子が悠里の側頭部を思い切り平手ではたいた。悠里はその勢いで椅子から転げ落ちた。
「あんたにこのノートをみる資格はないわっ」
と言って京子はノートを取り上げるとそのままそれを早紀に渡した。
「ったく。大学まで来て何を学んでいるの!」
普段少しきつめに見える京子の瞳が、今は本当におそろしげにつり上がっている。しばらく悠里を見下ろして黙っていたが、突然きびすを返すと、カツカツとヒールを鳴らして部屋の外へ去って行った。
佐々木は、背を見せて分析器で黙々と作業を続けている。床に尻餅をついたままの悠里は、床に向かって小さく「すみません……」と言った。