三
三
タクシーは、霧の山道を登り続けた。運転手が返事をしない客に話しかけるのをあきらめてから、二十分ほど過ぎたところにその観測所はあった。タクシーを降り、門らしきものの前に立つ。二階建ての小さな建物が二棟。ひとつは、いわゆる公団型の古い住宅でおそらく職員住宅と思えたので、そちらへは後で行くとして、とりあえず佐々木はもうひとつの建物に向かった。
中央の入り口の横に「えびね観測所」と書かれた板が打ち付けてあった。ドアを開け、中へ入るとひんやりした空気とともに、つんとした黴のにおいが鼻に来た。だが、嫌な匂いではない。
荷物を持って立っていると、佐々木より四つ五つ歳上に見える、白衣を着た背の高い男が近づいてきた。
「佐々木君?」
佐々木は、相手の左胸を見ながら頷いた。ネームプレートには、「鏑木」と書かれていた。
「かぶらぎです。よろしく」
再び頷く佐々木を見ながら、鏑木は少し首をかしげた。佐々木が何か言ったように思えたが、聞き取れなかったのである。
所長と、もう一人の所員の古賀京子に紹介されたときも、佐々木ははっきりとした挨拶はできなかった。頷きながらぶつぶつと何か言うだけだった。鏑木はその都度、首を傾け、最後には近くにあった椅子を軽く蹴った。
観測所は主に各学部からのオーダーに基づき、地域の環境データを収集するのがその役目である。現在は、三人、すなわち片桐所長、鏑木、古賀女史だけで運営されている。佐々木が加われば四人になる。それは、増員を要望していた観測所にしては、願ってもいないことであった。この観測所はここだけで観測をしているのではなく、半径十キロ以内に数百の観測ポイントを持っており、その各ポイントのデータを収集、解析するには、三人ではとても足りないのである。とにかく、処理能力の高いメンバーがもう一人は必要だと、大学側に常々言い続けてきたのであった。
そして、ようやく増員としてやってきたこの一名は、何か訳があってここに飛ばされてきた、ということは、三人ともそれは自分たちの経験としてよくわかっていた。だから、佐々木の態度の異様さについても、ある程度は許容できるところがある。
佐々木は、この観測所勤務が気に入った。
観測所も隣接している職員住宅も、多くの昆虫に囲まれていたからである。この日も引越荷物を片付けることもせずに、ベランダで昆虫たちの声に聞き入っていた。
「うんめ、うんめ」
といいながら、クヌギの木の皮をバリバリ食べているのは、シロスジカミキリである。その横を「邪魔だな、でけえの」カマドウマが通り抜けて登っていく。その先には樹液があるはずだ。佐々木は顔を向ける。だが、あまりの喧噪に誰が何を言っているのかわからない。そこはまさに戦場だった。
「佐々木くん、来ませんね」
古賀京子は、佐々木と同学年に当たる二十九歳である。今日の歓迎会を「つまみと酒を持って所長の官舎に集合」と、セットしたのは京子である。
開始予定の七時をすでに三十分回っているが、佐々木は現れない。
「呼びに行きますか」
鏑木が言う。官舎、と通称で呼ばれる職員住宅は二階建て一棟に六戸が入っている鉄筋コンクリート製である。佐々木の部屋は、所長の上、鏑木の隣である。二戸は空き家である。
所長は、首を振った。
「かまわんよ。忘れているにしろ、来たくないにしろ、無理に連れてくることもあるまい。なんか、変わっているからな、やっこさん」
「やっこさん、ですか」
鏑木が笑って焼酎をこぼしそうになる。
京子も、鼻で一つ笑った。笑った顔は、見た者がぞくりとするほどの冷たい美しさがある。普段のややきつい上がり目が、少しだけ緩やかになるその加減が、なにがしか男の理性に作用する。
京子は、工学部の助教との不倫がばれて去年この観測所に来た。京子の人事権を持っている理学部長は、京子を工学部に取られたのが気にくわなかったのだと、その不倫相手の助教が言っていた。しかし実際は、その助教が自分への影響を避けるために京子を人身御供として差し出したということを京子は知っていた。だが、特にどうということもない。そもそもその助教に恋心があったわけでもないし、ここに来たおかげですっぱり別れられたのだし、その上、この観測所暮らしも意外に性に合っている気もする。
所長の片桐准教授は、一昨年、学部長と論文の発表先について揉めて暴言を吐き、ここに飛ばされてきた。普段は温厚なのだが、頭に血が上ると何を言っているのかわからなくなる。妻子は大学近くの自宅に残し、単身赴任でここの官舎に住んでいる。
鏑木は請われて東京の大学からこの大学に来たが、地方大学の教授を多少馬鹿にする態度が嫌われ、学内で追いやられた格好になっていた。観測所勤務が命ぜられた当初は、東京に戻ると言っていたが、タイミング的に適当な配置もなく、仕方なくここで妻と三歳の息子と共にしばらく辛抱することにしたのである。
えびね観測所勤務は、原則として三年と決まっていた。三人とも、飛ばされたわりには心が捻れきっていないのは、年季が明ければ、また大学に戻れると知っているからでもある。
佐々木の来ないまま、歓迎会は十時過ぎに散会した。
隣の家のドアの閉まる音で、佐々木は、ふと今日の歓迎会のことを思いだし時計を見た。玄関まで行き、しばらく考えてから、ドアを開けて外に出た。ドアがオートクローザで、バン、と閉じた。階段を二段ほど下りると、隣のドアが開いた。鏑木が顔を出したのだろう。佐々木にはその場所に顔を見ることはできない。
「もう、終わったぞ。何なんだお前は」
と言うと鏑木はドアを閉めた。佐々木は黙って部屋に戻り、取り付けたばかりの蛍光灯の下に座った。畳の縁を見ながら、やはり自分は人間社会で生きていくのに向いていない、と思った。
翌日、誰も佐々木のすっぽかしについて話題にはしなかった。