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 暑い夏の日だったという記憶は、ある。

 その時、佐々木が四歳だったという記憶はない。だが、これは、後に常に親が話題にするときに言っていたから、間違いはないだろう。

 大きな手に引かれていた。見上げると、父はまっすぐ前を向いて、少しまぶしそうにしながら白い歯を見せている。足下を見ると、自分の足が、とんとんと前に動く横で、ビーチサンダルを履いたでかい足がにゅっ、にゅっ、と出てくるのが目に入る。影も動く。舗装された道に、ベッタンペッタンタタタタという音が鳴る。

 道沿いの店先には、浮き輪や水中めがねがぶら下がって売られている。ビニールやプラスチックに日の光が反射してまぶしい。父につながれていない方の手には自分の浮き輪が、汗に濡れた感触として、そこにあることを伝えている。

 確かに、まだ、この時は昆虫の声は聞こえていない。その能力もなかったに違いない。

 海が近づくにつれ、空が広くなり、そして色が変わってくるような気がした。視界がさっと開けると同時に聞こえてきた波の音。

 記憶の中の海に、人はまばらである。白い波が、花いちもんめのように並んで近づいてくる。

 冷たい、という感覚の記憶はない。冷たかった、という言葉の記憶はある。

 浮き輪に揺られていた。大きい海のくせに、ちゃぽ、という小さい音がしていた。海はずいぶん低いんだな、と思った。見えるものは、光ばかりだった。小さな三角の波の形の光。明るい点、小さい点からなる無数の光は絶えず変化していた。父の姿は近くには見えなかった。だが、焦った記憶はない。探そうとした記憶もない。ただ、漂うことが楽しいと感じていたようだった。

 突然、浮き輪が上に抜けていった。

 体が下に引き込まれたのである。きらきらした海面で妙に鮮明に見える浮き輪に向かって伸ばす手の画像が脳裏に残る。掴まれた足が痛い。次に肩を掴まれそうになったので、体をよじってよけた。一瞬見えたその正体は、父だった。目をむき、猛烈に手足を回して、鼻と口から空気を出していたその姿は、父が感じていた恐怖をそのまま、四歳の佐々木に与えた。水は外から見るときは青いのに、中では透明だった。そして、黄色い花畑があった。水から出た記憶はない。

 気づくと、空があった。知らない青年の肩が見えた。佐々木の肩に、その人の手のぬくもりを感じた。トンボが近づいてきて、目の前で「あ、これは違う」とはっきりした声で言って、離れていった。

 隣に、父は横たわっていた。父の顔は、遠くにあるようにしか見えなかった。父は死んだ、と聞かされたのは、それからずいぶん後のことではなかっただろうか。

 酒匂川教授が佐々木に転勤の辞令を伝えたのは、中庭に陽の光が降り注ぐ七月のことだった。



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