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 十

 四角い煙突を見上げる佐々木の前で、紗耶は、白い煙となって乾いた蒼い空へ舞い上がっていった。

 死因は分からず、身元も分からないままの、一人で逝く悲しい旅立ちだった。行旅死亡者として、市によって荼毘に付され、遺骨は市に預けられた。

 すべての手続きを見届けて、夜になって観測所の四人は、鏑木の車で山に戻った。車中、鏑木の妻の趣味の男性アイドルの平坦なメロディの歌が流れ続けた。何かを言えば、紗耶との美しい思い出が穢れてしまいそうで、誰も何も言葉を発することができなかった。

 皆がそれぞれの官舎に戻った後、佐々木は、分析室に入った。電灯を点けると、入り口からファンヒーターまで、紗耶が通ったとおりによけられた椅子がそのままになっていた。その道を避けて、ファンヒーターまで行き、電源を入れた。

 近くの椅子に腰掛け、紗耶のコートを乾かしていた椅子を見る。椅子は椅子としてそこにあるだけだった。物は物として存在するだけだった。紗耶のいない世界は、表情のない、のっぺりした灰色の世界でしかない。

 立ち上がり、分析室を出ると、所長室に入った。所長の机の引き出しから鍵を取り出し、分析室に戻る。隅に置いてある金庫の前でしゃがみ、鍵を入れ金庫を開け、中にある試薬を眺める。

 どれがいいのか、よく分からなかった。もっと、生物系の学問をするのだったと思いつつ、適当に、三個ほどの瓶を取り出した。液体の試薬が一つ、粉末が二つだった。粉末二つを液体の中に流し込む。特に反応はない。よく振る。

 目を閉じて、その液体を一気に呑み込んだ。

 むせかえりそうになったが、こらえた。口、のど、胃が猛烈に熱い。激しい吐き気が来たが、全身の筋肉を使ってそれを押さえ込む。やがて意識が遠のいていく。


 春の草原が見えてきた。

 黄色い花が一面に咲く、この前見た夢と同じところだ。自分は蝉ではない、自分は、自分である。腰ほどの高さの菜の花をより分けて進む。そのなかに、一株エンドウが生えている。実はまだ小さく、いわゆるサヤエンドウの状態である。とたんに、菜の花畑がいとおしく思えてくる。

 蝶が舞っている。モンシロチョウだ。「楽しき日々よ、この春の日」と声が聞こえる。上へ下へ右へ左へ、ひらひらと何千匹も飛んでいる。

 それぞれの声が、聞こえてくる。ここでは、顔を向けなくても声が聞こえてくる。

「佐々木さん」

 と言う声に振り返ると、すぐそばの菜の花に止まっている蝶が目に入った。四枚の羽のうち、一枚がない。ぱた、ぱたとゆっくり羽を広げたり閉じたりするが、飛び立てはしない。

「佐々木さん、よくなきことをしたり」

 と蝶が言った。それは、紗耶の声だった。

「あ、紗耶ちゃん」

「我が心のかわることなく。寂しさも感じず、ここにて、いと楽しきなり」

 紗耶の周りには、何匹もの蝶が舞っていた。佐々木は笑顔になった。

「紗耶ちゃん、寂しくはないんだね」

「はい。故に、佐々木さん、戻りたもう」

 突然、大地が揺れ、真っ暗になった。頭ががんがんする。猛烈な吐き気。たまらず胃の中の物をもどす。

「馬鹿野郎!」

 声が聞こえた。体が揺れている。

 目を開けると見知らぬ人が、おそろしい顔で自分を怒鳴りつけている。

「馬鹿野郎。佐々木」

 佐々木はその男に抱きかかえられていた。さっきまで鏑木が着ていた服を着ている。佐々木のもどした物で汚れている。

「佐々木、ささき!」

 紛れもない、それは鏑木だった。初めて間近で顔を見た。

「大丈夫か?」

 鏑木が訊く。佐々木はゆっくりと頷いた。

「お前、全然分かってない。お前は必要な人間なんだ」

 佐々木は、鏑木を見つめる。

「紗耶ちゃんは、お前を道連れにするために来たんじゃないんだぞ、大馬鹿」

 佐々木は頷いた。紗耶が寂しくないなら、それでいいじゃないか。鏑木もわかってくれていた。大きな声で、何かを言いたかった。

 季節を間違えた蠅がぶん、と通り過ぎた。もうその昆虫の声は、聞こえなかった。


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