0003レ ギャップ
「由紀ちゃん、今日空いてる?」
仕事が終わって、そろそろ帰ろうかと思っていた矢先
唐突に聞いてきたのは小森秀哉だ。
いつでも馴れ馴れしいし、あまり好きなタイプではないが
下心はないというか、変わったヤツ。
「ん?なに?ごはんでも奢ってくれるワケ?」
「あ?わかった?流石だなぁ。」
「この間、競馬で儲かっちゃってさ。」
こいつは無類の競馬好きで
休憩スペースで何か読んでいると思えば
たいてい競馬に関する雑誌だったりする。
「儲かったって、いくら?」
「万馬券でも当てたの?」
「3万の配当に5千円突っ込んでた。」
「さんごじゅうご… 15万!?」
「由紀ちゃん一桁違うよ。」
秀哉がさらりと言う。
「え??…」
「え?え?え?え!?」
「ひゃ、ひゃくごじゅうまん~!?!?!?」
「そ、だからごはん奢るよぉ。」
「ごはん奢るって、そんなレベルの儲けじゃないでしょ。」
驚きつつも半ば呆れたように言うと
「だからさ、今日はちょっと贅沢にいこ。」
「あ、終了点呼取ったら着替えてくるけどさぁ。」
「由紀ちゃん、どこにいる?」
そう言うと制服姿の秀哉はテーブルの上の帽子を被り直し
当直のカウンターへと向かった。
先ほどまでのデレっとした表情が一変する。
「気を付け!」
「敬礼!」
カウンター越しに立つ当直の担当助役がそれに応えて一礼する。
「平日1801行路、終了です。」
「乗務中、昨日の55運行にて車内急病人発生のため対応を行いました。」
「〇〇を5分遅れ、終着◇◇には3分遅れで到着、その他異常なしです。」
「次回出勤は2日休んで、〇〇日の休日1503行路、15時25分です。」
それに対して助役が復唱し、出勤時間に間違いが無いことを互いに確認する。
各自に貸与されている業務用のスマホにチェックを入れると、
当直の端末にもそれが表示される仕組みだ。
「それでは点呼終了、お疲れさまでした。」
これで秀哉の昨日からの仕事が終了した。
「わたしはここで待ってるよ。」
そう告げると
「オッケー、おめかししてくるから、ちょっと待ってて。」
そう言いながら秀哉はロッカールームへ向かって行った。
仕事とプライベートの切り替えとそのギャップにいつも感心する。
「由紀ちゃん、また誘われたの?い~なぁ~。」
秀哉の点呼の相手をしていた当直助役から声を掛けられた。
「ま、奢ってくれるなら有り難く頂戴しないとね~。」
「ああいう人は珍しいからね。何ていうのか裏表がないというか。」
「気前が良いのを通り越してるよね。」
「だけど、結構したたかというか、仕事はしっかりこなすし。」
感心しているのか、呆れているのかといった表情で
「あんなダンナが欲しかったな…。」
当直助役の香織さんはカウンターに寄りかかりながら呟いた。
「え~っ?香織さんのご主人、素敵な方じゃないですかぁ。」
「見てくれだけよ、見てくれだけ。」
「中身が悪けりゃダメなのよ。」
謙遜なのか照れ隠しなのか、軽く首を振りながらそんなことを言う。
2ヶ月ほど前だったか、買い物へ行ったとき、
二人でいるところに偶然出くわしたことがある。
その時はちょこっとだけ挨拶して別れたけど。
旦那さんはなかなかのイケメンで、直接聞いたわけではないけれど、
大手航空会社のパイロットをしているとか。
正直、香織さんには悪いけど、
どこでこんなカッコいい人を見つけたの?って思った。
「どこで知り合ったんですか?」
単刀直入に聞いてしまったが
「きっと驚くから、それはナイショ。」
と、軽くかわされてしまった。
”ピンポン、ピンポン・・・・”
カウンターの端末からのアラーム音
誰かの出勤時刻が10分前になった合図だ。
香織さんは端末を見て
「・・・石田君か。」
そう言って、辺りを見回す。
すると、入り口のドアが開き運転士の石田が姿を現した。
「石田君、あと10分だよ。」
香織さんが声をかけると
「は~い、わかってますよぉ。」
と石田はニコニコしながらロッカールームへと消えていった。
「まったく、いつもこんななんだから・・・。」
「時間にルーズっていうのかしら。」
「もうちょっと、余裕を持って欲しいわね。」
誰に語りかけるでもなく香織さんはブツブツ言ってる。
ここは運転士や車掌が所属する乗務区
この部屋はいわゆるワンフロアになっていて
当直のカウンターを中心に、出入り口側に乗務員の休憩スペース
奥には内勤や事務を担当するスタッフのデスクが並んでいる。
いくつかある扉の向こうはロッカールームになっていて
浴室やシャワールームなんかもある。
ここから階段を昇ると、泊まり勤務用の仮眠室がいくつも並んでいて
これが男女用それぞれに分かれているといった具合。
男性用のスペースには入ったことがないけれど
話によれば女性用の倍の広さがあるらしい。
この職場も最近は女性が増えてきたから手狭に感じてる。
内勤スペースの奥へ向かうと各ホームへの通路や
それを挟むようにミーティングスペースや訓練用の部屋がある。
乗務員の出勤時刻は担当する列車の時間によって毎日違っていて。
朝早い出勤や日中帯から夜にかけての勤務
そして泊まり勤務、これがこの乗務区では運転士が40パターン
車掌は35パターンに分かれているから、1日に出勤するのは75名
泊まり勤務には翌日の仕事があって、ここでは明け番と言ってる。
この泊まり勤務は運転士と車掌で35パターンあるので
明け番の乗務員もそれだけいることになる。
トータル110名ほどの乗務員がいて
休みの人を入れると250名くらいがここに所属してる。
さらに、ここより少し規模の小さな乗務区がもう一つあるから
始発から終電まで一日あたり200名ぐらいで担当している計算。
休みのパターンが一緒の人は仕事に行けば年中顔を合わせるけど
そうでない人とはすれ違いが多いので、
顔と名前が一致しない人も結構いたりする。
「由紀ちゃん、お待たせ~。」
そう言って現れた秀哉はトレーニングウエア姿だった。
「おめかしって、それ?」
「え?これじゃダメ?」
秀哉は自分の姿を見回す。
「ダメってことはないけど、ご馳走食べるんじゃないの?」
「何着てても、味は変わんないでしょ?」
こういうところが、秀哉の持ち味かもしれない。
「で、なにご馳走してくれるの?」
「まさか、〇屋のどんぶり系とか?」
以前、高級肉料理をご馳走するとか言って
結局牛丼だったことが頭をよぎった。
「そんなワケないよ。」
「さっき予約しといたからさ。」
「行ってからのお楽しみ~。」
軽い口ぶりで明かなドヤ顔
「予約って、それでそのカッコ?」
「ま、いいわ。楽しみにしとく。」
どうせ、大したとこじゃないだろうけどね。
「あ、25分の特急に乗るよ。」
「特急??一体どこまで行く気なの?」
「え?〇〇温泉」
秀哉の想定外発言がさらに想像を上回った。