皇子と異界の騎士⑤
「興味ない、ね。じゃあ探偵さん、探偵さんはロッククライミングとスキューバダイビング、興味があるとしたらどっち?」
「どっちにも興味ない。それよりも今の質問、本当に聞きたいのは山に埋められるのが良いか海に沈められるのが良いか、の選択?」
弟くんは嬉しそうに笑った。どうやら当たりらしい。
「へぇ、さすが探偵さん、勘が良いんだね。怖くないの?」
「いや、怖いよ」
弟クンはさっき「殺すのは駄目だよ」と言っていた。殺す度胸もそのつもりもないくせに、こういった脅しをかけて来る相手は経験上、それほど脅威ではない。
「そんな事より取引をしないか?」
「取引?」
「そう。お兄さんの依頼は“弟を連れ戻して欲しい”という事だけだ。だからキミが家に戻ってくれさえすれば、ウチの事務所は報酬が得られる」
「は? なに言ってんの、アンタ。それ、俺になんのメリットがあるんだよ」
「話は最後まで聞いてくれるかな」
俺は弟くんの顔を真っ直ぐに見つめた。
「“二度と家出をしないようにして欲しい”とは頼まれていないんだ。だからとにかく、一度は家に戻って欲しい。事務所に報酬が振り込まれたら連絡するから、その後でまた家出をすれば良いだろ? 監視体制は以前よりも厳しくはなるだろうけど、家出の手助けが必要なら俺がやる」
すでに皇子を見つけている以上、俺がこの世界に拘る意味など何もない。この世界の金をいくら貰ったところで俺にはもう関係のない事なのだ。
「……依頼人を裏切るなんて最低な探偵だね」
「なりたくてなったわけじゃないからな」
なんだかんだと育ちの良いお坊ちゃんには、俺の手の平返しがお気に召さなかったらしい。けれど、その両目には複雑な理解の色が広がっていた。
「……まぁ、その気持ちはわからなくもないけど。俺もあの家に生まれたくて生まれたわけじゃないし。いつも兄貴と比較されて、誰も俺の事なんか見ていなかったから」
俺は訳知り顔で頷いてみせながら、胸の内では目の前のお坊ちゃんを嘲笑っていた。
“わからなくもない”だと?
そもそもお前のように多少頭が回る程度の小生意気なガキが、こんな風に暗闇の凶獣共を飼い馴らせるのはどうしてだと思う?
──お前が有名企業の家の人間だからだ。いざとなったら様々な使い道が見いだせる“金持ちの子”だからに決まっているだろうが。
「その他に俺が出来る事なら何でもやるよ。頼むから、この取引に乗ってくれないかな」
「探偵さんさ、“取引”の意味をちゃんとわかってる? 同じ対価のものをやり取りしてこそ取引でしょ? 家出の手助けなんていらないよ。俺のメリットってその程度? それじゃ取引にならない」
「まさか、そんなわけはないだろ」
俺は心外、という顔をして見せながら、内心で歯噛みをしていた。クソガキが。いいからここで納得しておけよ。
「見てただろ? 俺、身体だけは頑丈なんだ。だからキミの専属護衛……いや、専属の盾になるってのはどう?」
専属という事は、コイツにつきっきりになるという事になる。仕事なんか碌に出来やしないだろうが、それはどうでも良い。皇子を殺したら、俺はこの世界から消える。弟くんは先ほどボコられていた俺がピンピンしている事に何か思う所があったらしい。少しだけ考える素振りを見せ、やがて小さく頷いた。
「いいよ。面白そうだし、探偵さんの言う通りにしてあげるよ。しばらく兄貴に改心した姿を見せてご機嫌取って、たっぷり小遣いをせしめたところでまた逃げれば良いんだし」
「そうしてくれると助かるな。ところで、ちょっと聞きたい事があるんだけど」
「まだなんかあんの? なに?」
俺は頷き、弟クンの顔を見た。この部分だけは絶対に確認しておかなければいけない。
「お兄さんの左手首に鳥の形の痣ってある?」
とんとんと左手首を指す俺の手元を見ながら、弟くんは怪訝な顔でゆっくりと首を傾げた。
その様子に、背中の中心をぞわりとした嫌な感覚が走る。そして弟くんは俺の顔を見ながら、絶望的な一言を告げた。
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翌日、出社した俺を出迎えたのは、所長の笑顔と他の所員達の感心したような顔だった。
「おはよう、関村君。今朝早くに皆実社長から電話があったよ。弟さん、無事に家に戻って来たらしい。こんなに早く解決して貰えるとは、とお喜びだったよ」
「すごいじゃん、関村。お前、ホント入院してから変わったよなー」
「ありがとうございます」
高橋の言葉に、俺は曖昧な笑顔を浮かべた。本当はもっと喜ぶべきなのはわかっている。けれど、俺の胸の内は虚しさと脱力感でいっぱいになっていた。
当然だろう。ようやく近づけると思っていた男が皇子ではなかったのだ。
「はい関村君。これ臨時ボーナス。皆実社長が報酬を弾んでくれたから、その分も上乗せしておいた。今後も困った事があったらウチを使ってくれるって言っていたし」
所長が差し出して来た封筒を受け取った瞬間、俺はこみ上げた溜息を瞬時に喉の奥に押し込めた。封筒はずっしりと重い。考えていた以上の額が入っている事がわかった。
ここは目を輝かせ、大喜びするのが正しい反応だとわかっている。けれど今は、表面上で取り繕う事すら出来ない。
「本当にお疲れだったね。関村君、今日は報告書を作成したらもう帰って良いよ。それから明日、一日お休みあげるからゆっくり休んで」
「わかりました。お言葉に甘えさせて頂きます」
正直、今はその言葉が一番ありがたかった。俺はもう祖国に、元の世界に帰る気満々だったのだ。それがまた振り出しに戻されてしまった。仕事なんかやっている心境じゃないが、この世界で生きて行くには働かないといけない。俺はのろのろと自分の机に向かい、座りながらパソコンの電源を入れた。
「……関村」
無心でキーボードを打っていると、横から静かな声がかかった。それと同時に、鼻先に香ばしいコーヒーの香りが漂ってくる。横目で見ると、八木がコーヒーを持って立っていた。手にしているカップは、俺の私物だ。
「お疲れ様。ほら、これ」
「ありがとうございます、八木さん。あの、報告書なら後少しで出来ますよ」
さっきまで食欲も何もあったものじゃなかったが、コーヒーの香りを嗅ぐと何となく心が落ち着いて来る。それにしても、急にどうしたのだろう。
今まで八木が俺に、というよりも他人に何かしてやるなんて事は一度もなかったのに。
「いや、急かしに来たわけじゃない。それよりも、今回はすごかったな。一体どうやったんだ?」
「どうって、何がですか?」
「皆実社長の弟さんだよ。お前も気づいていただろうけど、彼はよくない薬に手を出していた。まだそこまでズブズブではないみたいだけど、そんな子をよくこんな短期間で説得出来たなと思って」
「あー、その事ですか」
俺は少し考えた。どう説明したものだろう。
専属の盾になる事を引き換えに取引をしたとは言えない。高橋辺りだとむしろ感心してくれるかもしれないが、このお堅い八木は別だ。
本当の事をそのまま話したりなんかしたら、今こうして向けてくれている賞賛の眼差しはあっという間に軽蔑に取って代わるだろう。
別にこいつにどう思われようが構わないが、俺はまだこの世界で暮らさなければいけない。職場で居心地が悪くなるのは避けておいた方が良い。それに、手下連中に痛めつけられた事は話していない。顔に傷一つない理由がつかなくなるかもしれないからだ。
「いえ、特別な事は何も。ただSNSを使って情報を集めたんです。実を言えば弟さんのお仲間に襲われかけたんですが、探偵を雇ってまで自分を連れ戻そうとするお兄さんの気持ちに何か思う所があったみたいですよ。それで、ひとまずは説得に応じてくれたんです」
「……そうか。お兄さんの、気持ちに」
八木は小さな声でポツリと呟いた。こいつが他人の気持ちに言及するなんて珍しい。
「八木さん? どうかしました?」
「え? あ、いや、何でもない。まぁ良かったな」
「はい。ただ、今回大人しく帰ったのは一時の気まぐれかもしれないですからね。俺としてはまた家出を繰り返すんじゃないかなと思っています。その先の話は俺達には関係ないですけど」
弟くんは、確実に再び家出をする。その時の為に、さりげなく可能性を示唆しておく。
「……そうかもしれないな。そうだ、報告書が出来たらすぐに社長の元に持って行くつもりなんだが、お前も一緒に来るか?」
八木の言葉に、俺は即座に首を横に振った。このタイミングこそが何よりも欲しいものだったけど、今やなんの意味もない。皆実社長は皇子ではないからだ。
「いえ、俺は遠慮しておきます。社長の前に出られるような服装でもないし」
「……わかった」
八木は曖昧に頷きながら、俺の側から離れていった。わざわざ飲み物を差し入れてまで連れ戻した方法を聞いて来た割には、大した反応も示さずあっさりと引いて行った。
その姿には少し首を傾げるが、八木は普段調査行動には赴かない。単純に興味があったのかもしれないし、もっと劇的なやり方だとでも思っていたのかもしれない。まぁ、どっちでも良い。
俺はコーヒーを啜りながら、再びパソコンの画面に向き直った。
◇
事務所を出た後、俺は真っ直ぐに例のバーへと向かった。
そこに弟くんがいない事はわかっているが、そう遠くない内に彼がまた戻って来る事はわかっている。俺が専属の盾になる、と宣言した事に対して、残った連中がどう思うか確認しておこうと思ったのだ。
──現在時刻は午前の十一時過ぎ。店が開いている時間ではないから、真っ直ぐに店の裏手に向かった。昨日はあまりわからなかったが、そこは綺麗なものだった。煙草の吸殻も空き缶も落ちていない。
そして、誰もいなかった。てっきり、この辺で何人かたむろしているかと思ったのに。
「ここにいないってなると、店の中か」
店の表に回り込み、扉に手をかけた。やはり、鍵はかかっていない。店内を覗き込むと、特殊警棒で俺を殴っていた銀髪男ともう一人別の男が、カウンターに座っている姿が見えた。
「あのー、すみません」
「……あ? 誰だ、お前。まだ店は開いてねぇぞ」
男達は鋭い目で俺を睨んで来た。怖い。それにしてもひどいな、『誰だ』って事もないだろ。昨日はあんなに情熱的に俺を殴ったり蹴ったりしてきたクセに。
そんなくだらない事を考えながら、俺は彼らに愛想笑いを向けた。まぁ、無理もない。
昨夜はバーに飲みに行くわけだからそれなりにお洒落をしていた。今はTシャツとデニムしか着ていないし、髪も寝ぐせがついたままだ。
「すみません。探偵です、昨日の」
「お前……!」
男達は弾かれたように立ち上がった。予想外の行動に、俺は少したじろぐ。
まさか小遣いをバラまいてくれていた飼い主がいなくなった腹いせに、また暴力を振るおうとでもいうのだろうか。死にはしないけど、痛いのは嫌だ。
だが、俺の予想を斜め上に裏切る事態が起きた。俺に最も暴力を振るっていた銀髪男が、おもむろに俺に近寄り両手を掴んで来たのだ。
「おい探偵! お前、俺らの仲間になったって本当か?」
「は? 仲間?」
「そう。仲間。王子が帰る前に言ってたんだよ。“あの探偵、あんたらの仲間になったぜ”って。王子のヤツ、それだけ言って帰っちゃうからさ、こっちはアンタがどこの誰だかわからないだろ? だから王子に電話して聞いてみたんだけどさ、“兄貴に聞いたら連絡する”って言ったきり、まだ連絡が来ないんだよな。だからとりあえずここらの防犯カメラをハッキングして情報集めようと思っていたトコ。ほら」
銀髪男が親指を背後に向ける。それに従い、男越しに覗き込むとそこにはもう一人、別の男がいた。男というより少年に近い。
弟くんよりも年下に見えるその少年は、膝の上にやたらとステッカーを貼った大きなノートパソコンを乗せていた