皇子と異界の騎士②
翌日、昼食から戻って来た俺は事務所のドアノブに手をかけたところで足を止めた。扉の向こうから妙な気配がする。それは熱気のようでも、緊張感のようでもあった。事務所の扉はそう分厚くはないが、耳を澄ませても何も聞こえない。
だが、中で何かが起きているのは確かだった。
何の訓練も受けていない一般人であるこの関村優也の肉体であっても、以前の感覚はこうして残っている。俺は身体を斜めにし、中からの急な襲撃にも対応できるような体制を取りながらゆっくりとドアノブを回した。
「おはよう関村くん!」
ドアノブが回り切るか切らないか、といった所で扉が内側からすごい力で開かれた。
俺は反射的に後方に飛ぶ。その直後に扉から顔を覗かせたのは、受付兼事務の吉島さんだった。
「ねぇちょっと、すごいんだけど!」
扉を押さえたまま、吉島さんは興奮気味に話している。何がどう凄いのが全く分からないが、このまま廊下にいると暑すぎて倒れる。とりあえず、早く中に入れて貰いたい。
「おはようございますー。あの、どうしたんですか?」
「依頼人依頼人! もう、すっごい人が来たの!」
「あぁ、依頼人ですか。あの、吉島さん。ひとまず俺を出勤させて下さいよ。入り口で足止め喰らってたらタイムカード押せないじゃないですか」
「あ、ごめん。ちょっと興奮しちゃって」
えへへ、と演技っぽく笑う吉島さんの横をすり抜け、俺は事務所の中に身体を滑り込ませた。打刻機の元に向かいながら、来客用のコーナーをそっと盗み見る。だがそこには誰もいない。俺は所内をざっと見渡した。広本と高橋はいるが八木がいない。タイムカードを押しながらついでに同僚の八木のカードを持ち上げて見た。
「もう出勤済み。……という事はやっぱりVIP案件なのか」
──ここ、国武探偵事務所の所長である国武陽一は元警察官だ。その影響なのか、探偵事務所の従業員には元警官や元新聞記者、元フリーライターなどが結構いる。実際、高橋は元新聞記者だし、広本は所長の後輩だった元警察官。両者とも色々あって元の職場を辞め、探偵としてここで働いている。
そんな中で俺、というか『関村優也』は異色の存在だった。大学を卒業した後、すぐにこの探偵事務所に就職をしている。その辺りの事情、というか詳しい記憶は俺の中にはない。正確には就職をした記憶は情報としてあるが、なぜ探偵事務所に社員として働こうと思ったか、の記憶がない。
それは別に不思議な事ではなかった。優也の身体に乗り移った時、この世界の知識や優也のこれまで送って来た人生の記憶は情報として入って来た。だが細やかな感情までは受け継いでいないからだ。
そして、八木。彼もある意味、異色と言えた。弁護士なのだ。それも事務所の顧問弁護士などではなく、調査員としてウチにいる。なぜ、弁護士事務所ではなく探偵事務所で働いているのかは知らない。
眼鏡をかけ、夏でも冬でもいつもきっちりと背広を着込んでいる八木は、ともすれば胡散臭く思われる事が多い探偵事務所の中で『信用を可視化した存在』でもある。肩書も申し分ない。だから金払いの良さそうな依頼人が来た時は、依頼は所長室で聞き、そして必ず八木が同席する事になっている。
決して悪いヤツではない。多分、どちらかと言えば良いヤツだと思う。だが、俺は実を言うとコイツが苦手だ。百七十七センチある俺よりも長身だし、顔立ちも綺麗な部類だ。あまり感情を表に出さず、つんと澄ましたような顔が何となく気に入らない。
「なぁなぁ関村。依頼人、誰だと思う?」
席に着くと同時に、椅子を蹴って移動しながら高橋が側に寄って来る。吉島さんの反応といい、ここまでくると一体誰なんだ、とさすがに興味が湧いて来た。
「誰なんですか? もしかして芸能人とか?」
「いや、一般人。けどお前、見た事あるはずだよ? 昨日とか」
「昨日?」
「うん、昨日。え、まだわからないのか?」
「わからないです。何ですか、早く教えて下さいよ」
──もったいぶってないで、早く言えよ。
俺はそんな苛立ちをおくびにも出さず、首を傾げて考えた。昨日。昨日は普通に仕事して、途中でアイスを買いに行った。帰って来て、アイスを齧りながら昼の情報番組を観て──。
「あ、打ち合わせが終わったみたいだな」
高橋の声に一時考える事を中断した俺は、ゆっくりと開かれる所長室の扉を見つめた。まず、最初に出て来たのは八木だった。ドアを手で押さえ、中から出て来る依頼人を促している。
「……あ」
続いて出て来たのは、昨日テレビで見たばかりのあの綺麗な顔だった。
「嘘だろ……」
そこにいたのは、まさかの皇子。
俺は驚きと興奮のあまり、眩暈を起こしそうになっていた。平静を装う事も出来ず、ただひたすらに皇子を凝視する。すると俺の視線に気づいたのか、皇子がフッとこちらに視線を向けて来た。思わず全身に緊張が走る。
だが、皇子は軽く目礼をしただけで何事もなかったかのように視線を元に戻した。俺は安堵と失望、といった何とも言えない複雑な感情に襲われた。
皇子は俺の顔を見ても驚かなかった。あの整った顔には、驚愕も嫌悪も恐怖も焦りも何も、浮かんではいなかった。俺の顔が違うからだろうか? 俺は皇子がすぐにわかったのに?
いや、もしかして記憶がないのかもしれない。この『己の魂を抜き出して異界へ渡る』という禁術は魂に大いなる負担がかかる。皇子の魂は、この世界に耐えられなかったのかもしれない。
これは、不幸中の幸いなのではないだろうか。
皇子が追っ手である俺に気づかないという事は、俺がなんらかの手段を用いて接近しても警戒されないという事だ。記憶があったらあったで、味方を装って近づく事が出来ないでもないとは思う。
だがあの賢い皇子に俺如きの浅知恵が通用するとは思えない。どちらにしても探偵事務所に来たという事は、何かしらの調査を頼みに来たのは間違いない。ならばまず、依頼内容を確認するべきだろう。それは恐らく俺が担当する事になる。
なぜならば今、事務所の中で手が空いている調査員は俺と八木のみだからだ。だが、八木は外に出て調査対象を見張るような仕事はしない。進捗報告などは八木が担当するのだろうが、足を動かす調査メンバーは俺しかいない。
「おい」
八木に合図され、俺達は心得たように全員で立ち上がった。受付の吉島さんは、先ほどのはしゃぎぶりが嘘のように澄ました顔で頭を下げている。
「では、よろしくお願いします」
「お任せ下さい」
所長室の戸口で、所長が深々と頭を下げる。それと同時に、俺達も一斉に頭を下げた。これはどの客に対しても行うウチの見送りの儀式なのだ。
俺は扉の向こうに消えていく皇子をじっと見つめていた。頭の中で、これから行うべき事を整理していく。なんとかしてあの男に接近し、皇子であるという確たる証拠を見つけなければならない。それは手首にある小鳥の形をした青い痣だ。
ちょうど腕時計をはめる位置にあるそれを、他人な上に男の俺が違和感なく確認する事が出来るかどうかわからない。だが、そこはどうにかしてやるしかない。
確実に皇子であると分かった時点で、皇子を殺す。そしてその場所は地下でなければならない。ならば地下に展開している店のどこかで殺せば良い。そうすれば、俺と皇子の魂は元の世界に帰る事が出来る。
「じゃあ、今回の仕事の主要調査員は関村。広本は今の仕事が終わり次第、関村のサポートに入ってくれ。関村、調査の経過は逐一、八木に報告するように」
「わかりました」
思った通り、俺と八木が抜擢された。俺は緩む頬を懸命に抑えながら神妙な顔で頷く。その時、ふと視線を感じた。視線の気配を辿ると、俺を見つめる八木と目が合った。
「八木さん? なんですか?」
「いや、別に。いいか、調査報告は細かくやれよ? 何か不測の事態が起きたら必ず僕に言え」
俺は大人しく頷いた。八木はよろしい、とでも言うような表情をしながらも、どことなく訝しげな顔で俺を見ている。俺は気づかないフリをしながら、内心で薄ら笑いを浮かべていた。
八木の考えている事はわかる。
この身体の持ち主、関村優也は金持ちを嫌っているからだ。だから『俺』が不平不満を何一つ言わずに素直に従うのが不思議だったんだろう。
「じゃあ関村に八木。しっかり頼むよ。依頼人が依頼人だからな、経費は惜しむな。因みに一か月以内に任務を完了した場合は追加で特別謝礼金を払ってくれるそうだ。かといって、無理はしないように」
「わかりました。関村、携帯は必ず繋がるようにしておいてくれ」
「はい。もし電波の届かないところに向かわなければならない場合は、事前に連絡します」
「……一応言っておくが、功を焦って法に触れるような事はするんじゃないぞ」
「はい、わかっています」
八木の小言に内心で舌を出しながら、表向きは神妙な顔をしてみせる。
「これから打ち合わせの内容を資料にまとめる。一時間ほど待ってくれ。それを受け取ったら、今日はもう帰って良い」
「え、帰って良いんですか?」
「あぁ。その代わり、明日から定時なんてものはない。夜も働いて貰う。というよりも、調査のメインは夜だ。理由は、資料を読めばわかる」
「わかりました。ありがとうございます」
大人しく頷く俺に、八木が再び不審そうな眼差しを向けて来る。けれど、今の俺にはそんなのはどうでも良い事だ。サービス残業強制宣言をされた所で痛くも痒くもない。さっさと依頼をこなし、皇子との面会のチャンスを手にし、そして殺してしまえば良いのだから。
八木から資料を受け取り、今後の調査の方向性と報告のやり方についてのちょっとした打ち合わせを終えた後、俺は言われた通り帰路についていた。事務所を出て歩きながら、ふと足を止める。俺の家は事務所から電車で三駅だが、四十分も歩けば最寄りの駅に着く。
早く帰れるのはありがたいが、家に帰ったところでテレビを見る以外にする事もない。だったら、のんびり歩いて昼間から営業をしている近所のスナックで一杯飲んで帰るのも良いかもしれない。
そう思った俺は、駅に向かう道から通りを一本外れた路地に入った。しばらく歩くと、石づくりの橋が見えて来た。ここの下はいわゆる『地下水路』になっているのだが、雨上がりなどは水が溢れている事がある。
「ん、何だ?」
その下から、複数の人の声がした。俺は思わず眉をひそめる。
「まさか、また集団リンチとか? 勘弁してくれよ、全く……」
橋の下の水路には人が歩けるほどの縁があり、数メートルなら中に入る事も出来るのだ。この人気のない暗い地下の入り口で、少し前に中学生が酷い暴力を受けた事件があったらしい。
俺がこっちの世界に来る前の事だからよく知らないしどうでも良いが、ここで再び何かが起こると当然警察が来る事になる。別に今は何をしたわけでもない。
だが人を殺す予定がある身としては、警察に周囲をうろつかれるのは避けたかった。何となく周囲を窺いながら、橋を渡って右に曲がる。そっと覗き込むと、水路の入り口が見えた。少し迷ったが、とりあえず様子でも見るか、と足音を忍ばせて近づく。
その先に見えた光景は、俺の想像していたものとは全く違っていた。