皇子と異界の騎士①
「あー、暑い!」
あまりの暑さに、思わず大声を出してしまった。左斜め前の席に座っている、八木彩人が眼鏡越しに俺をじろりと睨む。けれど、この暑さでは大声の一つや二つ、出したくもなろうというものだ。この国の暑さは異常過ぎる。
俺はこの世界ではこの国以外を知らないけれど、少なくとも『俺の国』とは比べ物にならない程の異常な気候だという事は分かる。
──そう。俺はこの国の人間ではない。正確には、この世界の人間ですらない。だが俺には『関村優也』というこの国の名前がついている。
「すいません、高橋さん。ちょっとコンビニ行って来て良いっすか」
俺は報告書を作成する手を止め、職場の先輩である高橋にそう声をかけた。事務所内に冷房はついているが、こうまで暑いとアイスでも食わないとやっていられない。高橋もそれを察したのか、俺の方を向いて意味ありげに笑った。
この先輩は口の悪いバツイチ男だが、俺には案外と優しい
「良いよ。アイス買いに行くんだろ? ついでだから全員分買って来てやれよ。多分経費で落としてくれるから」
「わかりました。でも、何でアイス買いに行くってわかったんですか? それよりも、甘いもの嫌いじゃなかったんですか?」
高橋は肩を竦めた。
「お前がアイス食いたそうな顔をしてたから。で、俺は今禁煙中。だから口寂しいんだよ」
「はは、なるほど。じゃあ、俺ちょっと行って来ます」
俺はヘラヘラと笑ってみせながら、内心はげんなりとしていた。自分のアイスだけ買って、店内で涼みながら食べて戻って来ようと思っていたのに。全員分のアイスを買いに行かされるって何の罰ゲームだよ。もちろん、そんな言葉を口には出さない。
財布を握って立ち上がりながら、しみじみと思う。何もかも気に食わない『この世界』と『この世界の人間達』だが、こういう所だけは本当に好きだ。以前暮らしていた俺の国では、職務中に菓子を食うなど許されないし、上役に軽口を叩く事などもっとあり得ない。
そんな事を考えながら、俺は『国武探偵事務所』と書かれた扉を開け、熱気満ち溢れる外の世界に飛び出した。途端に、全身に蛇のような熱気がまとわりついて来る。瞬時に高まる不快指数に、どうにもならない怒りともどかしさが一気に湧き上がって来た。これがもし本物の蛇だったら、俺の敵じゃないのにな、と少しだけ思う。
「あー、早く帰りたい。さっさと皇子見つけて、とっとと元の世界に帰りたい」
独り言をつぶやいている間に──コンビニへと到着をした。ふと、自動ドアに映る自分の顔を見つめる。そこには黒髪黒目の、悪くはないが特別良くもない平凡な風貌の青年が映っていた。以前の俺も同じ黒髪黒目だったけど、見た目は断然良かった。
あの時油断さえしなければ、今頃は娼館でのんびり昼寝でもしていられたのに。
そんな風にグダグダと思いながら、転がり込むようにして涼しい店内に入る。そしてそのまま一直線にアイスケースへと向かった。
ケースの縁に手をつき、選ぶフリをしながら少しの間、微かに感じる冷気を堪能する。そうやってさりげなく涼みながら、並べられているアイス達をじっと見つめた。
様々な味や香りを付けられた、冷たい氷の菓子。
冬に凍りついた湖の氷を切り出したものでさえ高価で貴重な物なのに、この世界ではそれを遥かに上回る味と繊細さを持った氷菓子が驚くほど安く簡単に買える。
俺はアイスを選ぶフリをしながら、何度か深呼吸を繰り返した。そうやって冷気をたっぷりと肺に取り込んでからアイスを選び、手に持ったカゴに放り込む。
──甘い物を好まない高橋はレモンシャーベット。所長は逆に甘い物が好きだからミルク大福。八木の事はよくわからないから無難にバニラアイス。同期の広本は今日休みだから、買わなくて良い。受付の吉島さんは苺好きだからイチゴアイス。そして俺は、ボリボリ君のソーダ味。
この世界に送り込まれた時、正確にはこの体の持ち主である『関村優也』の身体に俺の魂が放り込まれた時、になるのだが、次々と頭の中に溢れて行く未知の情報に脳みそが焼き切れそうなった。その衝撃で俺は倒れてしまい、次に目覚めたのが病院だった。
その時につき添ってくれていたのが高橋で、その高橋が病室で食べていたのがボリボリ君のソーダ味だった。
『本当に異世界に来てしまった』という実感よりも、そのあり得ない青さを持った何かを齧る高橋の姿に衝撃を受けた事は今もよく覚えている。
俺はそれからずっと、アイスと言えばコイツを食う事にしている。もちろん、好きだからではない。関村優也の記憶と肉体に魂が馴染み過ぎているのか、ここの所『元の世界』の記憶と使命をうっかり忘れそうになる事が増えて来た
この青褪めたアイスを齧ると、そんな俺を戒めてくれるような気がする。
「あー、暑い。そろそろ帰るかぁ……」
もう全員分のアイスは買った。となると、いつまでもコンビニで油を売ってはいられない。俺はアイスの袋を持ち、陽炎揺らめく炎天下へと再び飛び出した。
◇
「あー、最悪な暑さだな……」
外へ出た瞬間、再び強烈な熱気が襲い来る。正直、走りたくはない。だがアイスが溶けたら困る。俺は仕方なく事務所まで小走りで走った。ほんの数メートル走っただけで、全身から汗が噴き出して来る。
「ん?」
信号が変わり横断歩道を渡り出した所で、向かい側で老女がよろめき、膝から崩れ落ちていくのが見えた。周囲には俺以外誰もいない。これは助けてやった方が良いのかもしれない。だが、俺は蹲る老女の横をそのまま通り過ぎた。
“以前の俺”なら絶対に老女を助けただろう。年寄りや女子供はすべからく庇護すべき対象であり、職務だからだ。けれど今は違う。この老女は、俺の同胞でも何でもないし、日頃から助けるように命令、訓練されているわけでもない。
老女は胸を押さえ、苦しげに呻くその顔は真っ赤になっている。おそらくこの殺人的な熱波にやられたのだろう。けれど俺は、それに気づかなかったフリをした。
俺はそれほど罪悪感が無いまま、振り向きもせずに歩き続ける。と、背後から焦ったような声が聞こえた。
「おばあちゃん! 大丈夫!?」
思わず振り返ると、それは幼い少女だった。俺はしまった、と思いつつ、今さらどうする事も出来ない、と素早く前を向いた。少女と目が合わなくて良かった、と心底思う。万が一『助けて』だのなんだの言われては困るからだ。
だがそう心配する事もないだろう、と俺は安心した。これくらいの年なら一緒に親がいるだろうし、今は見当たらないが近くにいるなら、なおさら俺が出しゃばらなくても良いだろう、と思う。
横断歩道を渡り切ったと同時に、遠くから、サイレンの音が聞こえた。きっと通行人の誰かが連絡をしてくれたのだろう。俺は今度こそその状況に興味を無くし、事務所に急ぎ走り帰った。
◇
事務所の扉を開けると、エアコンの冷気が身体中に染みわたりとても気分が良い。俺は嬉しそうに寄って来た吉島さんにアイスの入った袋を渡しながら、エアコンの下で深呼吸を繰り返していた。
「お帰り。外は暑かっただろ。お前、なかなか帰って来ないからどっかで倒れているんじゃないかと思ったよ」
背後から能天気な高橋の声が聞こえた。俺は振り向きもせずにそれに応える。
「いや、俺は大丈夫です。でも帰り道の途中で婆さんが急にぶっ倒れたからちょっとビビりました」
「マジで? まぁ、この暑さだからなぁ、年寄りには辛いだろ。あ、もしかして救急車とか呼んでいたから遅くなったのか?」
「え? いや、俺は呼んでないですけど。でも誰か呼んだみたいですよ」
「はぁ!? いやお前、それちょっと冷たくね? やっぱなんかさ、お前、最近……」
高橋は何かを言いかけ言葉を止めた。おおかた俺を責めるつもりだったのだろう。
この男は普段はいい加減なのに、意外と子供や年寄りには優しい事を俺は知っている。
「でも近くに家族がいたみたいでしたよ? 駆け寄って行ったのは小さい女の子でしたけど、どっかに親がいたんじゃないですかね」
「……へぇ」
高橋は頷きながらも、どこか納得がいかない、という表情で俺を見ている。
──なんだよ。そんな目で見んなよ。だって俺は、目的以外の事をしたくないんだよ。アンタには分かんないだろうけど。
俺はそんな気持ちをおくびにも出さず、肩を竦めながら自分の席に戻った。高橋はすぐにどうでも良くなったのか、レモンシャーベットの蓋を行儀悪く口で開け、片手でテレビを点けている。
俺も青いアイスを齧りつつ、何となく横目でテレビを見た。テレビの中では、高級そうな背広を来た見目の良い若い男が、カメラに向かって何やら話をしている。
『ではテレビの前の皆さん、こちらをご覧下さい!』
軽やかな声と共に、リポーターと思しき若い女が片手を前に差し出した。同時にカメラが引き、その場の全体像が映し出されて行く。
「お、これはすごいな。ほら、見てみろよ」
高橋の驚いたような声。映像を見た俺も素直に驚いていた。
恐らく夜の店なのだろう。店内は薄暗く、天井からは淡く水色に光る照明がいくつもぶら下がっている。店の床には、人口の小川が流れていた。
『ここが、来週開店するクラブですね。凄い! お店の中に川が流れています! ここが地下だという事を忘れてしまいそうですね』
『はい。川の中には本物の魚も泳いでいます。これまで弊社が展開した店は全て大人の空間でしたが、今回はあえて若者向けのクラブにしました。けれど、DJなどは置きません。あくまでお酒と料理、そして会話を楽しむ空間です。派手な音楽もなく踊る事も出来ませんが、それでもこの店のターゲットは“若者”です』
男はリポーターの女に向かい、綺麗な笑顔を浮かべてみせた。女はさすがにプロと言ったところか、美しい男に笑いかけられてもみっともなく頬を染めたりはしない。だが、相当な好印象を持っている様子なのは確かだった。俺は改めてテレビを見直し、その店を作り上げた男の顔をまじまじと見つめた。
作り物のように整った綺麗な顔。それはどこか気品すら感じさせた。ちょうどカメラが男の顔面に寄り、その美貌を画面いっぱいに映し出す。
──その瞬間、俺の周囲の時が止まった気がした。
「……皇子だ」
俺は画面に釘付けのまま、思わずそう呟いていた。俺の独り言が聞こえたのか、背後から高橋の愉快そうな笑い声が聞こえた。
「おうじ、か。当たらずとも遠からずって所だな。この皆実 一馬って男、“地下帝国の貴公子”って呼ばれているらしいぜ?」
「地下帝国の……貴公子……」
「うん。コイツの手掛けている店は全部地下に展開されているらしい。で、その全部が大成功。だから
地下飲食業界の貴公子って事。まぁ、吉島さんが言っていたんだけどな」
俺は震える手を必死で抑え込んでいた。
──皇子を見つけた。国も俺達も捨てて、逃げ出した皇子を、こんな所で、やっと。
「……ところでお前、なんでテレビを睨んでんの? 珍しく嫉妬か? まぁ分からなくもないけどな。コイツ、皆実興業の社長だってさ。なんとまだ二十八歳。俺の五つ下でお前の一つ上か。いいなぁ、ぼんぼんは。いくら親父が急死したからって、こんな若さで社長になれるんだから」
高橋の本気ともつかない妬みの声に適当に頷き返しながら、俺は食い入るようにテレビ画面を見つめた。
顔は全く違う。けれど、何よりも感じるのだ。同じ世界に住む人間同士の、共鳴のようなものを。
それに、雰囲気も似ている。上に立つ者特有の育ちの良い顔つきに、賢そうな細面。おまけに二十八歳と、年齢まで同じだ。
皇子が“逃げ出した”時、ちょうどその年齢だった。俺も同い年の男の肉体に入り込んでいるし、これはもう間違いないだろう。それにしても、皇帝の一人息子という身分や境遇を嫌がって異世界に逃げ出した癖に、結局同じ運命を持つ器に飛び込むとは何という皮肉、としか言いようがない。
俺は画面上の『皇子』をじっと見つめた。店内の説明の為、皇子はあちこち動き回っていた。その仕草の一つ一つが、腹が立つほど様になっている。悔しいが、『仮の器』ですら皇子ともなると違うのか。
俺はそんな風に思いながら、どの角度から見ても整った造形の顔を改めて見つめていた。リポーターの耳障りな賞賛の声が、俺の頭の中をグルグルと回って行く。
『はい、本当に素晴らしく、そして斬新なコンセプトのお店でした! オープン時には、色んなイベントもあるそうです。これは新しい夜遊びスポットになりそうですね!』
不意に、リポーターの締めの言葉が耳に入って来た。皇子の顔ばかり見ている内に、どうやら取材は終わっていたらしい。俺はさりげなく、リモコンに手を伸ばした。
この世界での皇子の顔を今一度焼きつけておきたい。それに、まだ何か情報が手に入るかもしれない。
高橋辺りに勝手にチャンネルを変えられたくはなかった。それにしても運が良い。昼の情報番組なんて、普段は下らないものしかやっていないのに。
「オープンは来月か。この店、渋野にあるらしいぜ? お前、確か渋野の近くに住んでたよな、一回行って来たら? 良さそうだったら俺に教えてくれよ」
「嫌ですよ。俺がそういう所に行くようなキャラじゃないの、高橋さん知っているでしょ」
「もちろん知っているよ。だから言ったんだろ」
「うわぁ、性格悪いなぁ。ここで俺が意地になって行くと思ったら大間違いですからね?」
「うーん、入院前のお前なら絶対に行ったと思うんだけどな」
高橋は何か含みのあるような笑い方をしている。俺は呆れた風を装いながら、そっと顔を逸らした。
そして高橋に気づかれないように、もう一度だけ画面に視線を戻した。
心から忠誠を誓っていた俺の主。そして、深く尊敬をしていた。この方の為なら命も惜しくないと、本気で思っていた。その存在は俺の誇りそのものだった。けれど今は、ただひたすらその存在が憎くて憎くて、仕方がない。
画面に映る男は、俺の気持ちなど知りもしない完璧な笑顔でこちら側に向かって優雅に手を振っていた。