浮気調査①
ある朝、調査報告を書いていた俺の所に八木がやって来た。相変わらず、きっちりとスーツを着ている隙のない姿。だが、その表情は存外柔らかい。
皇子、いや皆実社長の依頼の一件から、八木の俺に対する態度は何となく変わった気がする。とは言っても、仲良くなったわけではない。どことなく、以前よりかは親しげなものになった気がする、といった程度だ。
「関村。今度の依頼は旦那の浮気調査だ。これがざっとした資料」
「ありがとうございます。あの、依頼人っていつ来たんですか? 俺、そんな感じの人見かけてないですけど」
「昨日だよ。ちょうどお前が事務所に戻って来る前に来た。終業間際だったからな、とりあえずの情報と希望調査期間だけ聞いておいた。この後十一時過ぎに奥さんが詳しい話をしに来るから」
「この後、ですか。わかりました」
俺は差し出された資料を手に取った。浮気調査。苦手な分野に、少し気が重くなる。浮気調査の難易度は振り幅が大きい。拍子抜けするほど簡単だったり、信じられないほど難しい場合もある。
正確には、簡単か困難かは対象者の立場や性格などによって決まるのだ。それから、季節の問題。
外気温が高い今の時期は、場合によっては何時間も張り込みを続けないといけない浮気調査に最も向いていない季節と言える。
「……今回は少し大変かもしれないな。対象者が外での仕事が多いから」
「えー、マジっすか」
最悪。俺は顔をしかめながら資料を捲った。
「えーと?依頼主は土門柚香三十九歳。対象者は夫の土門弘樹三十一歳。……年下夫か。一週間の浮気素行調査、ね」
まぁ、よくある話だ。歳の離れた妻が若い旦那の浮気を疑う。そしてこの場合はクロが多い。こんな簡単かつ単純な案件、おそらく一週間もかからないだろう。
これは、調査をギリギリまで引き延ばして満額貰わないと、損になる。今回は前回のように速さを求められているわけじゃない。簡単に終わらせてしまっては、その分の調査費用が手に入らなくなってしまう。
「外での仕事って事は、営業とかかな? お相手候補は同僚か取引先ってトコか……ん?」
俺の目が、対象者の職業の所で止まった。職業は会社員。だがその職場が『森嶋下水道清掃』となっている。
「あ、これ……」
「なんだ? もしかして知り合いか?」
「いえ違います。ほら、ここから少し歩いた所に石橋があるじゃないですか。あそこの下の、地下水路の清掃をやっていたんですよ、ここの会社が」
「へぇ、そうなのか。その森嶋下水道清掃、社長の森嶋の他に社員が十数人しかいないらしい。その中での不倫を疑っているのか飲み屋の女を疑っているのか、それはまぁ今日聞いておいてくれ。調査が決まったら、前金を貰うのを忘れるなよ」
「わかりました」
八木は頷き、自分の席へと戻っていく。俺は資料を机の上に放り投げながら考えた。
あの時、見かけた作業員は三人だった。中年男と金髪と刺青。ひょっとしたらあの中年が社長の森嶋かもしれない。だったら、今回の調査対象は金髪か刺青か、あるいは別の作業員か。
若者二人は遠目からは二十代に見えたけど、それは中年男が近くにいたから無意識に比較していたのかもしれない。金髪は長いゴム手袋をしていたから指輪の有無は見えなかった。可能性があるとしたら刺青の方か。
「……あの程度の男に必死にしがみつく女も哀れだよな。探偵まで雇うなんて」
ともかく、詳しく話を聞いてからだ。俺はボイスレコーダーを机の上に置いた。昔はメモを取っていたらしいが、今はボイスレコーダーで録音するだけだ。
そのやり取りを後からパソコンに入力する。聞き漏れを防ぐのは元より、主に依頼料についての言った、言わない、を避ける為だ。
「えーと、まだ十時か。ちょっとコーヒーでも飲んで来ようかな」
ちょうど報告書も作り終えたし、と立ち上がった時、斜め前に座っている高橋と目が合った。いつもヘラヘラしているくせに、珍しく真面目な顔でこっちを見ている。
「なんですか?」
「お前、やっぱり変わったよな」
「変わった? 俺が? 何ですか、いきなり。どういう意味ですか?」
「“あの程度の男にしがみつく女も哀れ”とかさぁ、前のお前なら言わなかったよ。前っていうのは倒れて入院する前な?」
俺は思わず言葉に詰まる。
「そりゃあ、以前のお前は暗くて無口で愛想もなかったし、はっきり言って仕事も出来なかったよ。今のお前は皆とも上手くやってるし、あの八木が認めるくらいにウチに貢献してる。けどな、前のお前は人を悪く言う事は絶対になかった。道端で年寄りが倒れたりなんかしたら真っ青になって駆け寄っていただろうし、助け起こしたまでは良いが狼狽えるばかりで何も出来ない。結局気づいた他の人間が救急車を呼んで、てきぱき説明している姿をぼんやりと見てるんだ」
「……なんですか、それ。俺、そんなにぼんくらじゃないですよ」
胸の内が、どす黒い不快感に覆われていく。この身体『関村優也』がそれなりにポンコツだった事は肉体に乗り移った時に得た情報で薄々知っていた。
その時は困難な任務に加え、使えない男の肉体に入れられ軽く絶望したものだ。
国の誇りである騎士団所属の俺が肉体に入っているからこそ、優也は『できる男』に変貌を遂げた。だというのに、高橋の物言いにはどこか棘のようなものを感じる。
「それはわかってる。お前は確かに頑張ってるよ。うん、文句なしにウチのエースだ」
「だったら……!」
「それでも俺は、前のお前の方が好きだったよ」
高橋はそれだけ言うと、煙草をくわえて立ち上がった。
「……禁煙したんじゃなかったんですか」
「したよー? 二十二日間な」
「……意味のない二十二日間ですね」
「これまでの最高記録だぜ? 覚えてないの? 冷たいねぇ、いつも“チャレンジする事に意味があるんですよ”って慰めてくれてたのに」
高橋はどこか探るような目で俺を見ている。俺は黙って見つめ返す事しか出来ない。
時間にして一秒もしない内に、高橋がフッと目を逸らした。
「じゃあ俺、調査に行って来るわ。今日は直帰するって所長に伝えておいてくれ」
「……はい。行って、らっしゃい」
後ろ手に手を振る高橋を見送りながら、俺の背に冷たい汗が大量に流れていくのがわかった。高橋は侮れない。俺が以前の関村ではない事が薄々わかっている。
もちろん『異世界の騎士が後輩の身体を乗っ取っている』などとは思っていないだろう。だが俺は、なんとも言えない気分が喉元までせりあがって来ているのを感じていた。抑えきれないその衝動に、俺は思わず喉元を押さえた。何故なのかわからないが、ひどく気分が悪い。
──いや、違う。本当はわかっている。
『前のお前の方が好きだったよ』
高橋のその言葉に、俺は驚くほど傷ついていたのだ。
◇
約束の十一時になった。
高橋の言葉は依然として俺の胸の奥深くに刺さっている。
だが今はそんな事を気にしている場合じゃない。今、俺の目の前には小柄でぽっちゃりとした女が座っている。依頼人である妻が打ち合わせにやって来たのだ。
俺は胸中のモヤモヤを振り払うように、殊更大きな声で挨拶をした。
「はじめまして。この度、担当させていただく調査員の関村と申します。これからお話を聞かせて頂きますね。その後で、ご相談内容を整理し調査にかかる費用のお見積りをいたします。それから、ここまでのやり取りは全てボイスレコーダーで録音させて頂きますがよろしいですか?」
「あ、あの、土門と申します……。あの、はい、それで構いません。あの、どうぞよろしくお願いします」
「ご安心下さい。もちろんその音声データは調査が終了し、最終報告の時に目の前で消去させて頂きますから」
女はおどおどとしながら頷き、しきりに周囲を見回している。依頼人と打ち合わせをする場所は部屋の隅だし、衝立で仕切っているから見渡した所で何も見えやしない。
だが、落ち着かないのだろう。
「えぇと、ある程度のお話は昨日うちの八木にされていますよね? 質問が重複するかもしれませんが、もう一度聞かせて下さい。まずご主人をお疑いになったきっかけは?」
「……」
なぜか女はなかなか話しださない。口を開けたり閉じたり、まるで何かを言いたいけれどそれを口にする勇気がない、とでもいうように見える。
「落ち着いて。ゆっくりで良いですよ」
「は、はい……」
俺は女が喋り出すのを辛抱強く待った。その間に、さりげなく女の様子を観察する。四十手前にしては、見た目はまぁ若い。肌は少々荒れているけれど、これは心労のせいかもしれない。目も大きくくっきりとした二重で、もう少し痩せたらそれなりに良い女なのではないだろうか。この感じだと金髪と刺青、どちらが旦那でも不自然ではないように思う。
「実は、ですね……」
ようやく女が話し始めた。俺は溜息を押し殺しながら、ボイスレコーダーのスイッチを押した。
「主人の様子が、おかしいんです」
「おかしいとは? 具体的にはどんな風に?」
「あの、なんて言うか半年くらい前からずっと、夜中に携帯をいじってたり、飲みに行く回数が増えたり、です。飲みに行くのも社長さんとか同僚の武田君とかと一緒だったらまだわかるんですけど、二人の方もここ最近飲みに誘っても断られるって言っていて……。私がうるさく言うから主人の付き合いが悪くなったって思っているみたいなんですけど、私はそんな事一言も言った事ないんです。だから……」
「それで旦那さんが、浮気していると? しかし、それだけでは浮気をしているとまでは言えないのでは? 携帯のチェックとかしました?」
「いえ、していません。確かに、証拠とかもないんです。でも……」
女はまたもや口を閉じてしまった。
だが、何かを話したいと思っている事はわかっている。一体なんだろう。よほど恥ずかしい事なのだろうか。
「あの、思っている事は全て話して頂いた方がこちらも助かります。大丈夫ですよ、私を信じて貰えませんか」
俺は次第にイライラとし始めていた。もちろんそんな気配を出さないよう細心の注意を払ってはいるが、こういう風なうじうじした所が浮気される原因なんだろうな、と勝手な事を思っていた。
「あの、主人の実家が、いわゆる、あの、反社会的なアレで、それで主人も中学の頃から身体中に刺青を彫ったりとかしてて」
「はぁ、ご実家が……」
俺は一気に気分が下降していくのを感じていた。浮気旦那は刺青の方。そしてソイツは暴力団関係者。
「あの、引き受けてくれますか? 実はこちらで五軒目なんです。主人の家の話をすると、どこの探偵社さんにも断られてしまうので……」
俺の表情に気づいたのか、土門柚香は不安そうな顔を向けて来た。少し迷ったが、ここは正直な意見を返す。
「あー、はい、そうかもしれない、ですね。けど、まずはお話を聞かせて下さい。引き受けるかどうかは所長と相談してからになりますが」
ヤクザの息子の浮気調査を進んでやりたがる事務所は少ないだろう。正直、俺もこの案件は断るべきだと思っている。頭ではわかっているのだが、俺はそのまま聞き取りを続行する事にした。
「あ、ありがとうございます……! お話を聞いて頂けるだけでも嬉しいです。五軒とも、ほぼ門前払いでしたので」
まぁ、それが妥当な反応だろう。
「ではお話の続きを。えぇと、浮気に気づいたきっかけとご主人の刺青になんの関係が?」
「……ずっと携帯を触るようになったのと、皆さんと飲みに行かなくなった時期くらいに主人、腕の刺青を隠すようになったんです。正確には、手首付近の刺青を」
「手首の、刺青……?」
柚香は頷き、おもむろに左腕を持ち上げた。そして、右手の人差し指で左の手首付近を指差した。
「主人はここに火傷の痕があったんです。煙草の、根性焼きっていうんですか、丸くて膨らんだような傷痕がいくつか。それを隠す為にその上から刺青を彫っていたんですが」
心臓が、ドクンと跳ねた。なぜだろう。俺は今、この女の言葉に何かを見出そうとしている。




