4 当日、朝
約一ヶ月後。
都市防衛軍訓練校の入学式当日の朝。
俺は一人、ロイヤルスイートの部屋で入学式に向けての支度を進めていた。
エルナの姿は既にない。
聞いた話によると彼女も仕事のようだ。
彼女はあれで天才魔術薬師……俺に一ヶ月付きっきりでいられる方がおかしい人材。
都市を支える知の結晶だ。
とはいえ、一人でも粗方のことはこなせる。
休暇と任務が半々の三年間を送るために、死に物狂いで無理やり順応した結果だ。
過程で俺の中の何かが崩れ去った気がするが、それはそれ。
現実的には元の姿に戻れる可能性が低いのだから、エルナの薬に期待するよりは高度な変装だと意識を塗り替える方が精神的に楽だ。
「まずはいつも通り服装から……」
今は姿見前で身嗜みと持ち物のチェック中。
俺は、黒い女子軍服に身を包んでいた。
一番内側はシミ一つない白のブラウス。
その上にジャケットと膝上のプリーツスカートが一体となったワンピースを着る。
華が開いたようなシルエットのスカートは最近になってデザインが変わったのだとか。
デザインを意識するあまり機能がおろそかになっているかと思えば、そうでもない。
左右一つと胸元のポケットは広く、激しい動きにも耐えられるように素材も伸縮性に富んだものが使用されている。
袖口の鮮やかな蒼玉のカフスボタンが、窓から射し込んだ陽光を跳ね返し、煌めく。
上着の前面にボタン、背面にファスナーがあるため着脱は楽だ。
服の内側に入った長い髪を外へ出す。
首元には『魔術科』を示す緋色のネクタイが締められている。
前後をクルクルと向いて確かめ、スカートの長さなどを調整。
エルナ曰く、膝上10センチが黄金比とのことだ。
限りなく正確な目測で調整を終え、再び正面を向く。
渋滞を起こしていた胸元の勲章はない。
まっさらな状態の軍服が、とてつもなく新鮮に感じられる。
スカートのポケットには清潔なハンカチ。
胸元へ事前に配られているICチップ付きの学生証を収納する。
紛失したら再発行する必要があり、面倒な手間や料金がかかる代物だ。
しかも紛失した場合、軍人としての自覚が足りないと叱責を受けるため、念には念を入れて保管しなければならない。
「トランクの中は……大丈夫そうだな」
寮へ持っていく品を詰め込んだトランクを開けて、中身を一度外へ出した後に目視で確認しながら詰め込み直す。
服や日用品の類いばかりだが、それなりの量になってしまう。
学校の敷地内にも買い物が出来る場所はあるが、なるべく使い慣れたものが良い。
ただでさえ環境が変わってしまうため、元の生活で使っていた物は心の支えにもなる。
トランクを閉じて施錠し、身体を姿見の方へ向け直す。
「次は表情練習。口角を上げて、目をほんの少し意識して開く……」
呪文のように唱えながらエルナ直伝の表情練習を今日も行う。
元より、俺は感情が乏しい……と、よく周囲から言われていた。
歳の割に愛嬌がないとか、目が死んでいるとか、世界に興味がなさそうだとか、散々な評価を受けることが多い。
その問題を解決しようと始まったのが、この笑顔トレーニングである。
エルナ曰く、「笑顔は女の子の必須技能です!」とのこと。
普通なのであれば受け入れる他ない。
衰えた表情筋に鞭打って、ゆっくりと着実に表情を変えていく。
頬が柔らかく緩み、細く整えられた眉が僅かに上がる。
その状態を十秒間キープし、一度脱力する。
これを数度繰り返したところで、鏡に映る笑顔を採点。
……まあ、及第点か。
一ヶ月なんて短い期間では多少の改善が関の山。
成長は未来の自分へ持ち越しとなる。
「でも、随分と形にはなった気がする。うん」
小さく頷き、呟く。
少なくとも俺の中身が男だと一目で気づかれることはないはず。
エルナの教えは考えうる全てを網羅した隙のないものだった。
俺には隙と呼ぶべき部分が理解できなかっただけかもしれないが。
「時間がないな。巻きでいこう」
初日から遅刻しては適わない。
服装と表情のチェックを切り上げて、細かな身嗜みを整えていく。
長い銀白色の髪は手入れの甲斐あって鮮やかな艶と質感を保っている。
手櫛を通しても、すっと指が沈んで毛先まで引っかかることはない。
前髪の間から覗くはパッチリ二重な黒燿の如き瞳。
パチリと数度瞬けば、長い睫毛が蝶の羽のように揺れ動く。
すっと通った鼻筋、その下の瑞々《みずみず》しい桜色の唇へ誰もが目を奪われることだろう。
透き通るように白い肌には若々しさが満ちている。
そのまま両手へ視線を落とす。
しなやかで細くも、柔らかさを感じられる指。
切り揃えられ磨かれた爪。
細部こそ手入れを怠ることなかれ……全くもって同意見だ。
ソックスは脛の中腹ほどまでの長さ。
コンバットブーツに肌が擦れて炎症を起こすのを防ぐため。
俺がこれから通うのは都市防衛軍の訓練校……遊ぶ場所ではない。
都市の未来を担う軍人を養成するために存在している学び舎だ。
「じゃあ、最後に――私は一条カズサです。よろしくお願いします」
通りの良い澄んだ声音を響かせた。
一条カズサというのは、俺が訓練校で素性を隠すために室長が作った偽造の戸籍。
軍の上層部からの命令のため、細工も抜かりない。
苗字だけを変えたのは名前まで変えると咄嗟の時に反応が遅れることを危惧してだろう。
俺としても有難い配慮だった。
これまでの一ヶ月で得た知識と経験をフル動員した確認作業を終える。
美少女と形容して差し支えない少女。
それが自分なのだと暗示をかけていく。
「時間は……七時五十分。そろそろ出ないと」
入学式は敷地内の大講堂で九時から開始。
その前に寮へ荷物を預けたりとやることがあるので、多少は早めに出た方が混雑に巻き込まれずに済むだろう。
元より人混みがあまり好きではない。
荷物を詰め込んだトランクを引いて、最後に忘れ物の確認をしてロイヤルスイートの部屋を出発した。
間違えてフライングしたのは誰にも見られていないはず……