『味玉ラーメン』
レシピには届かないお料理小説。
独身アラサー女が、中学生の甥っ子に、手の込んだ手抜き料理を作る話。
鍋底でふつふつと生まれだす気泡を横目に、依世は「まだ余裕だな」とコーヒーを啜った。
沸騰ってのは別作業と同時進行中だとあっという間なのに、専任状態の場合は案外待たされるものなのである。
ようやく水面がぼこぼこと踊り、頃合いとばかりに生卵に罅を入れた。
丸みのある底面に、絶妙な力加減で割れぬよう亀裂だけにとどめるのは、そこそこ技術が要るものなのだが、本日は全勝だ。
沸騰した鍋に放りこむと、五つすべての卵が白身を封じたまま平和に揺蕩った。
キッチンタイマーは6分30秒にセット。
(冷蔵庫から出したばかりだし7分でもいいかしら……まあ、ゆるめの半熟も悪くないから、6分半でよし、と。)
そこのところは結構適当である。
茹で時間の合間に、依世はめんつゆとみりんを取り出した。
某スーパーのPB商品であるめんつゆは、手ごろな値段のくせに味も悪くない。
(最近の市販品は馬鹿にできないわ。どれを買っても失敗しないもの。こうやって、調味料として使うなら尚更……板前稼業も商売あがったりね。)
めんつゆとみりんを2:1の割合でポリ袋へ。
タイマーは……まだ鳴りそうにない。しかしもう一杯コーヒーを淹れる時間もありそうにない。
単純すぎる作業というのも少々物足りないと、依世はわがままに考える。
ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ、
鳴った。
旋律からつい慌ててしまいそうになるが、茹で時間は元より適当。急ぐ必要は無し。のんきに卵を流水にさらす。殻を剥くのに差し支えないくらいになるまで、適当に冷やす。
トッピング用の味つけ卵なんて、大筋の手順さえ合っていればどうせ美味しく仕上がる物だ。
「あの子の場合、味玉が乗ってるだけで大喜びだし。」
相手が育ち盛りの甥っ子ならなおさらである。
仮に食事を振舞う相手が、舌の肥えた恩師であったり、結婚までこぎつけたい好みの殿方だったりするのであれば、茹で時間ひとつにも神経を使うものだが、もう一度言おう、しょせんは甥っ子。
味玉大好き。ラーメン大好きな男子。
男にはこんなもん食わせておけ。
そのくらいの精神で茹で時間を決め、市販のめんつゆを使って作る味玉でじゅうぶん。
実際、そのくらいの精神で作ったほうが、存外美味しくなったりするのだ。
やわらかく茹で上がった半熟卵をていねいに剥き、先ほどのめんつゆ入りポリ袋へ。
空気を抜き、こぼれないようにチャックを閉めたら冷蔵庫で寝かせる。
「さてと、」
今夜はここまでだ。
味が浸み込ませるにはどうしたって一晩は必要。しかし作業時間自体はものの10分、なんら面倒ではない。
「ラーメンが食べたい」という甥の注文に、「じゃあ明日ね」と切り返すやりとりも、もう何度目になるだろうか。
翌日の晩。
味玉以外の具作りが今夜の主な仕事。……といっても、つまるところ簡易版野菜炒めである。
まずはキャベツをざく切りに。人参は細めの千切り。ピーマンは縦半分にしてから細切りに。
チューブにんにくをごま油で熱し、香りが出てきたら豚ばら肉と人参を投入。
(豚バラって良い油が出てくるから、ごま油が少なめで済むのよね。)
肉の色が変わったところでピーマンとキャベツも投入。
(このままさっと炒めてシャキシャキ感を残すのも悪くないけど……)
思想と相反して依世はフライパンに蓋をする。そして火力を弱め、蒸し焼き状態にした。
(あの子、野菜は軟らかくしないとうるさいし。)
甥は、くたらせたピーマンでないと食べられない男なのだ。
野菜に火が通ったところで蓋を外し、粉末鶏がらスープを入れ、20秒ほど強火で炒める。
最後に塩コショウを振って火を止め、具材は完成だ。
最後は麺とスープ。
こちらのほうもお世話になります、某スーパーのPB商品さま。行き場のない感謝をしながら、依世は冷蔵庫から市販の醤油ラーメンを取り出す。
めんつゆ同様、昨今の市販生麺は安くて味も上等だ。スープも付いているし。パッケージ裏には作り手順まで記載している丁寧ぶり。
鍋にたっぷりの水を火にかけ、沸騰する手前で甥の部屋に向かった。
「星史、」
甥はだらしない姿勢で、テレビに向かってコントローラーを握っていた。
「んー? ごはんー?」
「ええ。あとは麺茹でるだけだから、セーブできるうちにしておきなさいよ。」
「はいはーい。」
軽く言ってはくれるが、この返事の信憑性は極めて低い。男子中学生にとって自分に都合の悪い言葉は、右耳から左耳へ流れる物だと、依世は常日頃から観念してはいるが、どうしても一応に一言が出てしまうのだ。
(私もおばさんになる一方ね……)
そちらに対しても観念しているうちに、あっという間に鍋はぐつぐつ沸く。記載された茹で時間を確認し、麺をほぐしながら湯へ落とす。
ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ、
早い。2分はやはり早い。
手早く笊にあけ、湯を切る。椀に注いでおいたスープへ麺を移し、野菜炒めの具材をたっぷり載せた。
さいごに、昨晩作った味付け卵を二つ、丸のままのっける。
「…………。」
ほおら。やはり一向にやってくる気配無し。そんなものなのだ、男子中学生など。
「星史、」
先より幾分トーンを下げ、部屋を覗く。
「まって! ちょいまって! もうすぐセーブできるから!」
これもまた的中。当たっても何一つ喜ばしくない予言に苛立ちながら、依世は腕を組む。
「戦闘中に一時停止できるってことくらい知ってるのよ?」
「ええ~? なにそれなんのこ――――」
「とぼけても無駄よ。そのゲーム、元は私が兄さんに教えたんだもの。」
「……ちっ。」
「それに、
のびるわよ、ラーメン。」
「え。それやだ。」
嫌だじゃないわよ、嫌だじゃ。光の速さで画面をポーズ状態にし、キッチンへと走る甥に、依世は目を据わらせた。
「ラーメンの煮卵ってさー、二個くらいが妥当だと思うんだよね。」
一つ目の卵を口にしてすぐ、甥は唐突な理論をとなえた。
いいぐさは真面目そのものではあるが、齧った際に溢れた半熟の黄身が、口端をオレンジ色に汚してどうにも滑稽である。
「そう?」
ティッシュを箱ごと差し出して依世は首を傾げた。
「お店とか絶対一個じゃん? 半分って所もあるじゃん? おれ本気になれば四個くらい余裕なんだけど。」
「なんの本気よ。」
「あはー。」
屈託ない笑顔を向ける甥は、続けて麺をすすり、野菜炒めにも箸を伸ばし始めた。
椀の上では、もう一つの煮卵が綺麗に残されている。最初にまず一つ、そして最後にもう一つ食べるのが、甥っ子流なのだ。
みるみるうちに減ってゆく椀のなかと、とどまらない甥の箸を眺めながら、依世は頬杖をつく。
(男にはこんなもん食わせておけ。)
いつだって依世は、食べさせる相手のことを考えて食事を拵える。
そんな習慣が悪くないと密かに思う。
「イヨさんってさ、結婚しないの?」
「…………。
しないんじゃなくて、できないの。」
「あはー。うける。」
「うけんじゃないわよ。否定しなさいよ。」
やはり引っ叩いてやりたいとも、たびたび思う。
◆豚ばら肉はベーコンでも代用可能です。また違う風味と良い油が出ますが塩気が少々強いので、塩コショウは控えめに。
◆味玉は甘めのほうがお好みでしたら、めんつゆとみりんを1:1にしてください。めんつゆのメーカーによって味が左右されますが、それもまた楽しいです(たいてい美味しくなります)。
◆みりんはみりん風調味料でも問題ありません。