ひとでなしの戀 再誕
妻が七年ぶりに、会いに来てくれた。
花の世に生まれたものだと痛感する。
しみじみ思うのでも、情景に揺さぶられたのでもなく、本当にふと突き刺さったのだ。予兆か前触れか、その直後に妻と会った。
六年、いや、もうすぐ七年ぶりの再会だ。
「驚いちゃった?」
妻は無邪気に小首を傾げる。あのころとなんら変わらない、歳不相応のあざといしぐさについ吹きだしてしまう。
「もういい年なんだから。」
僕がからかうと、これまた大げさに頬を膨らませる。と思えば今度は両手を唇にあててくすくすと漏らす。
目まぐるしく変わる表情は結婚前から、結婚していたとき、そして七年ぶりの現在も健在らしい。
妻とは学生のころ出逢い、五年の交際を経て結婚した。
ちょっと「いいな」と意識していた子に告白されて、じゃあ付き合おうか、結婚しようか、という流れで一緒になった、至って平凡な経緯である。
お互い特段美男美女でもなかったし、誇れる経歴も特技も趣味も無い二人だったけれど、幸せだった。
金曜の仕事帰りによく待ち合わせをして外食をした。
それは家族連れや学生にも敷居の低い焼肉店だったり、お好み焼き屋だったり、回転寿司だったり。お世辞にも贅沢とはいえないものを口にする度、妻はおいしい、と、あのあざといしぐさで何度も笑ってくれた。
帰り道ではスーパーやコンビニで色々と買い込んだ。
アイス、スナック菓子、簡単な食事の材料、妻の好物のカフェオレ、僕しか飲まないアルコール類。土日は一歩も外に出ないと企てて、翌日は計画通りぐだぐだする休暇をすごした。
出掛ける休日もたまにはあった。
動物園や水族館でペンギンを眺め、当てもなく散歩をして、本屋と雑貨屋をぶらつきラーメンを食べて帰る。そんな幼稚なデートを三十過ぎになっても繰り返した。
ほんとうの本当に贅沢をするときは、僕らなりに精一杯の贅沢を満喫した。
温泉旅行は宿の値段を見ない。ディズニーランドには必ず泊まりでいく。旅行先では絶対我慢をしない。
どんなに贅沢な旅行でも、幼稚でちんけなデートでも、ただの帰り道でも、妻はいつも隣で同じように笑ってくれていた。僕の手を握ってくれていた。
「今日だから来たのか?」
僕が聞くと、妻は、
「今日だから来たのよ。」
と、笑って返す。
「誰の報せだ、」続けて聞くと、
「女の勘。」意味深に目を細める。
こうやって、普段は無邪気を振舞うくせに時折女をみせるのは、妻が若い頃から持つちょっとした技巧だ。
僕もその手に引っ掛かってしまった男の一人なので、あまりとやかく言えないのだけれど。
妻は美人でもないのにそこそこもてる類の女だったのだ。
どうして、僕なんかを選んだのだろう。
「どうして私なんて選んじゃったの、」
新婚当初、妻は夜が来るたびに泣いた。
昼間の、天真爛漫なしぐさが空元気か嘘のように、さめざめと泣いた。
「私はあなたの人生を無駄にするだけなのに、」
「私と一緒になる意味なんてないのに、」
「私じゃなければ、」
何度も似たような言葉で自分を否定し、僕を悲観した。
それが同情なのか罪悪なのか、判別はつけないように僕はいつも警戒していた。判ってしまったところで得られるものなんて何一つ無かったからだ。
だからいつも笑ってやった。
「またそんなこと言ってんのかよ。」「俺は充分幸せなのに。」「おまえは贅沢な奴だな。」妻が沈むほど、僕はだらしなくへらっと笑って、からかうように彼女を宥めた。
宥めたいからじゃなくて、見透かされないために。
からかいながら撫でたり抱きしめたりしているうちに、やがて妻もくすくす笑い始めるものだった。
「……本当、そうね。私はぜいたくな女なの。
だからなんでも叶えてくれなきゃいやよ。私のわがまま、なんでもきいてくれなきゃ。」
妻のあざとい言い草が戻れば、安心できた。
妻の笑っている顔が好きだった。彼女を笑わせられるなら、どんなわがままだって平気だった。
気まぐれな嫉妬も、理不尽な不機嫌も。行きたいとねだられれば日本じゅうどこだって連れて行ったし、甘えられればどこであろうと手を繋ぐのだって抵抗無かった。
彼女のためではなくて、僕のために。
僕はどこまでもひとでなしだった。
「なんか、私のときより豪華みたい。」
窓から見下ろすチャペルを眺めながら妻は頬を膨らませた。
「上等なのは会場と衣装くらいだ、」
僕は背広をぴんと引っ張りながら、へらっと笑った。
「あなたって、昔からこっそりもてるのよね。」
とたんに妻の頬も緩む。
「なんだよ、こっそりって。」
「こっそりよ。私、あなたを好きだったって人、結構知ってるもの。」
「初耳だな。」
「にぶいのよね、案外。」
まさにその通りだと思う。僕はたぶん、妻のこと以外にはめっぽう疎いのだ。
それはむしろ賞賛されるべきだとも思うのだけれど、妻はくすくす笑いながら、だめな人ね、と話を続けた。彼女の話によると、僕を二十年近くも慕ってくれていた人もいたのだと言う。
「もう。本当にだめなひとなんだから。」
そうだよ。
だめな男だ。
「だから、おまえのわがままもきけた。」
妻を喪った日、僕は泣かなかった。
妻の最期のわがままだったから。
出逢って十二年、結婚六年。僕らに子供はいなかった。
「私はあなたをひとりにしちゃうのね。」
病床で、妻はいつかと同じように、同情と罪悪が入り混じったような声を出した。
「新しいひと、みつけなきゃだめよ、」
今度は明るく言う。
弱々しい音を絞って、明るく言う。
「私のせいでひとりなんて絶対にいや。私が悪者みたいでしょう?
新しいひとをみつけて、一緒になって、ちゃんと幸せになって、そのひとと同じお墓に入るの。
あなたって、なんでもできるふりして、ほんとは全然なんだから一人でなんか生きていけないわ。
大丈夫、あなたはこっそりもてるんだから。
私のせいで不幸になるのも、私のせいで泣くのも、絶対にいやよ。」
……無理だよ。俺と一緒になってくれるのなんて、おまえくらいだ。
僕は懇願した。
妻が、目を細める。
「もし、あなたがどうしようもなくもてなくて、誰にも相手にされないんだったら、そのときは仕方ないからまた一緒になってあげる。でも、それまで私が売れ残ってるなんて保証は無いわよ? 私だって、けっこうもてるんだから。」
妻は大いばりで、最近も僕以外の男にプロポーズまでされたのだと笑った。
おまえがもてるなんて知ってたさ。だから必死で捕まえたんだろう。僕は最後までへらっと笑って、さいごの最後まで嘘をついた。
その年の、
冬の真ん中で、妻は死んだ。
「そろそろね、生まれようと思うの。」
窓を開け放って妻が言う。
「ふらふらするのも、いい加減飽きちゃったから。」
窓の淵に座って脚をぶらつかせながら無邪気に笑った。
どこまでもあざとい女だ。
こんなふうに、別れを告げにきたなんて。
「……笑美子、」
最後になるかもしれない妻の名前を、呼んだ。
「俺で、幸せだったか?」
妻のわがままは全部きいてきた。
約束だって破らなかった。
だから不安だった。
僕は彼女の恋や人生を、無駄遣いしていなかったのだろうかと。
「文也くんの、ばか。」
妻がからかうみたいに、笑う。
「幸せすぎてほんとうに笑っちゃってたわ。ぜんぶあなたのせいよ。」
そのまま背中から窓の外に姿勢を崩すと、彼女の姿は白い花弁の群集となって、舞うように、ぱっと空へ散った。
「お時間です。」
係りの者が時間を告げにくる。鏡のなかにいる自分を整えて、用意されたブーケを手に取った。見覚えのある白い花が、ブーケのなかでも一際存在感を放っている。梔子だ。
窓の向こうは雲ひとつなくて、たぶん風も心地いい。
僕は今日、結婚する。