アルタイル
異類の女×女子大生
少し不思議な、いきものとの別れ。
※友情以上百合未満程度の百合要素※
※ファンタジー要素あり※
鷲は私を決してひとりにしない。
有意義な退屈に浸っていればすぐさま、私のもとへ羽を休めにくる。
自宅であろうと学校であろうと、早朝であろうと真夜中であろうと、彼女は場所も時間も選ばない。
「退屈は共有するものなのです。」
それが鷲の言い分だ。
共有する時点で退屈ではなくなってしまうよ。と、一度だけ不満をこぼしたことがある。
私は、他人から言わせたところの『無駄な時間』を満喫するのが趣味だったりする。
たとえば、今年度の講義は土曜日の三限目と五限目を選択した。隙間時間は約三時間。友人たちにも、無駄なことしてるなあと呆れられたけれど、その無駄な三時間、本を読んだりお茶を飲んだり、予定も無く大学周辺をふらふら歩いたりするのが、たまらなく好きなのだ。
それなのに、鷲はその時間帯を狙って舞い降りてくる。
「つまり、あなたにとって、わたしとの時間は退屈でないということなのですね。」
物は言い様だね。
呆れと天晴れの間くらいの感想を告げると、鷲はしてやったりとくすくす笑う。そして私のカフェオレを一口奪い、真白い翼を広げて窓から飛び立っていった。
ここ数十年で東京の空は狭くなったと、恒例の口癖を残しながら。
先月別れたばかりの恋人から、連絡が入った。
五月の連休前に東京で用があるので、一晩泊めてほしいのだという。私は彼の、こういう弁えない性分が好きで恋人をやっていた節があるので、この不誠実な依頼につい吹き出して承諾してしまった。
電話を切って窓を開けると、絶妙なタイミングで鷲はやってきた。
「もうすぐゴールデンウィークですね。」
「ずいぶん人間くさい単語、知ってるんだね。」
タイムリーな話題に再度吹き出した。
「そりゃあ知ってますよ。どこの地上も人だらけですもの。ご実家には帰らないのですか?」
鷲に質問されて、そういえばこの時期は地元の繁忙期であると思い出した。
海しか取り柄がない私の地元では、連休中にちょっとした祭事が行われる。
作り物の馬を綱で引く子供達や、民族衣装を纏い木楽器を演奏する町民たちが行列をなし、半日以上かけて町中を闊歩するのだ。
しかし二十を目前にした今でも、私はこの祭の起源や由来を知らずにいる。
何度か父に尋ねようとしたこともあるけれど、幼かった私は町中に軒を連ねる出店に気が行ってしまい、結局機会を逃し続け知らずじまいのまま、もうすぐ大人になろうとしている。
「人だらけだからどこも行きたくないの。」
帰省しない理由を簡潔にのべた。おやおや。鷲は不思議そうに首を傾げる。
「大好きなお祭りだったではありませんか、」
べっこう飴、チョコバナナ、ヨーヨー釣りに射的。もう魅力的ではないのですか? 指折り数えて聞く彼女の翼を軽く握って、室の中へ促した。
「お店なんて、東京のほうがたくさんあるでしょ。それより寒いから、窓閉めて。」
彼女を迎え入れてすぐ、温かいミルクを淹れた。メープルとシナモンをふりかけた私特製のホットミルクは、鷲が唯一褒めてくれる品だ。
約束どおり、不誠実な元恋人はやってきた。
交際中と差して変わらない彼の態度に安堵した私は、特に影をおとすこともなく、以前と変わらぬやりとりを交わしながら外で食事を済ませ、室に戻れば当然のように身体を重ねた。
彼のにおいに心臓がざわつくのを期待したのに、行為を脳内で傍観できるくらい、私は冷静だった。
彼が寝静まったのを確認してベランダに出ると、まもなく鷲はやってきた。
「だめな女なんだ、わたし。」
先手のつもりで言い切った。
だめな女だから、ああいうだめな男、切れないんだ。室内に視線を流して言い訳をする。
鷲は翼を畳んで柵に腰をかけると、人差し指をたてて、つんと顎をひいた。
「そんな評価は、もっと女に成ってからするものです。」
女に?
鷲の言い分から察するに、私はまだ女として評価するには早いらしい。
「たかだかの憂鬱、お子様が何を仰いますか。
むしろ、一片の糧となってくださったこと、感謝するものです。」
鷲も、彼に視線を流した。
「……あなたって、時々すごくむかつく。」
唇を尖らせる私の頭を、鷲は優しく撫でる。
「そうそう、それもまた一つの糧なのですよ。」
「それじゃあ、感謝、しないとなんだ?」
「理解がお早いようで。」
微笑む彼女はそのまま柵から飛び降りた。
慌てて身を乗り出すと、地面に届く前に翼を広げる真白い鷲が、狭い街を不自由なく舞っている。こちらに笑顔を向ける彼女に、舌を出してやって室に戻った。
眠る彼の頭を、先程の彼女に習って撫でてみる。
……感謝してよね。呟いてはみたけれど、目覚めてはくれなかった。
連休の少し前から、鷲が姿を消した。
隙あらば私の退屈を邪魔していた彼女が、もう一週間近く現れていない。最後に顔を合わせたのは、件の、元恋人が泊まりに来た日だ。
私は頼りない記憶をもとに、あの夜のことを捻り出すように思い出した。
何か気に障ることをしただろうか。
不機嫌を隠さなかったこと?
大それた口をきいたこと?
だらしなく行為に及んだこと?
別れ際、舌を出したこと?
……どれも違う。どれも理解した上で鷲は私に微笑み、諭していた。
いくら考えても考えても、彼女が消息を絶った理由に心当たりはみつからなかった。
朝から夜まで空を眺めた。
カーテンも窓も開けて、窓際に椅子を引き摺って、ただただ眺めた。時々本を読んで、おなかが空いたら片手で食べられる物を買ってきて、頻繁に暖かいミルクを淹れて、贅沢な退屈をすごした。
春の真ん中の風が心地いい。明け方の空は薄群青色に雲ひとつなくて、昼の空は燕や雀がすいすい泳いでいて、夜の空には星が瞬いた。
退屈だ。退屈だった。
それでも、鷲は現れなかった。
「風邪を召されますよ。」
真夜中のベランダに声が響いた。
転寝をしてしまったらしい。瞼をこすると、鮮明になった視界に真っ白な翼を折り畳む鷲が映る。
返事をするより先に、私は彼女に抱きついた。
「おやおや、めずらしい。」
鷲は動揺するふりをしながら、私の行動をからかった。少しかちんときたけれど、構わず彼女の首に腕をまわし、顔を沈めた。
「どこへ行っていたの?」
聞くと彼女は、「少々お買い物を」なんて言いながら、薄茶色の紙袋を取り出した。
袋の中身は、べっこう飴だった。
「今年のお祭りも、無事終わりましたよ。」
「……きいてないよ、そんなこと。どうだって、いいよ。」
声が少し、震えた。
「私、本当はわかっているの。あなたのこと……わかってしまったの。」
震えた次は、水気を帯びて湿ってきた。
「わたしも、気づいていましたよ。」
鷲は静かに、はっきりと答えた。
彼女に絡めた腕をほどき、近距離で貌をみつめた。
相変わらず崩さない笑顔を浮かべている。こっちの気も知らないで、本当むかつく。言ってやりたかったけれど、ぐっと堪えてひたすらみつめた。
みつめているうちに、彼女の目元から一筋の雫が伝う。
薄闇にもはっきりと捕らえられるそれは、真っ赤な血の泪だった。
最初の一滴を皮切れに、泪は次から次へと流れ続けた。彼女の頬に手のひらを這わせ、泪を拭った。流れれば流れるほどに拭い、拭えば拭うほど、私の手も彼女の貌も、深紅に染まっていった。
「お会いしたかったのです。たとえ天から堕ちようと。」
鷲は羽根を広げ、その両翼で私の身体を包み込んだ。
翼のなかで私たちは見つめあう。
「すてきな時間をありがとう。
あなたの記憶は心地よかった。ホットミルクはおいしかった。真夏の夜に、東の天を御覧なさい。わたしはあなたをみつめています。きっとあなたは、すてきな女性と成っていることでしょう。
ありがとう、ありがとう。さようなら。」
包み込む翼が羽根から抜け、部屋中に舞い上がった。
幾千もの翼が彼女の姿を遮る。
……ああそうだ。
永い永い夢に堕ちていたのかもしれない。
気づけば窓を開けっ放しのまま椅子に座っていた。
部屋じゅうどこを見渡しても、羽一枚落ちていない。手のひらもいつもどおり、肌色に乾いている。そろそろ買わねばと思っていたシナモンとメープルが、まだ瓶いっぱいに残っている。
ただひとつ、膝の上には、紙袋に包まれたべっこう飴が残されていた。
透明の包装を剥いて舐めると、懐かしい甘さに舌が安らいだ。
不意に、家族の声が聞きたくなった。
父に電話しよう。今年こそ、祭りの起源を聞くつもりだ。