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風の音の


ずっと少女のままの使用人と、

大人になってゆく坊ちゃんの話。




※ファンタジー要素あり※




 白檀(びゃくだん)の香りがする。

 瞼が開くよりも先に指は体温をとらえ、ああ、籟子(ふえこ)が居るんだなと察した。


 体温は指先から手の甲へ、瑞々しい肌の感触を連れ立って走ってゆく。

 ぼくの、しわしわな手を握る彼女は、今どんな顔をしているのだろう。







 籟子はかわいくない女だ。昔からそれはもう、無愛想で堅物な女だった。




「坊っちゃん、左手がお留守ですよ。」



 物心ついてから、たぶん十歳くらいまで、ぼくはこれを言われ続けてきた。

 他にも、箸の持ち方が悪いだとか、魚のほぐし方が汚らしいとか、数え切れないほどの食事作法を注意されてきた。


「わかってるよ。いちいちうるさいな。」

 きまって、ぼくは唇を尖らせるものだった。


「そうですか。」

 ぼくの反抗に、籟子はそれ以上くどくど言わない。


「わかっているのなら、いいです。」


 代わりに、まるで教本に載るお手本みたいな食事作法で黙々と箸を進めるものなので、かえってばつが悪くなってしまい、ぼくはそこから、自身の作法に留意しながら食事を続けざるを得なかった。

 今にして思えば、それが籟子の躾の技だったのかもしれない。






「坊っちゃんは、素直な子でしたので。」

 躾の技、という例えに籟子は薄く笑ってそれを言った。

 なんだよ、わかりやすいバカだったって言えばいいじゃないか。手を握られたまま、ぼくも唇だけで笑った。





 本当に、わかりやすいバカだった。



 十五歳の春、腱を傷めて部活をやめた。

 引退前の、最後の試合を控えた矢先の出来事だった。

 生前の父から教わったバスケットボールはぼくの唯一の取り柄で、生き甲斐で、そして、ぼくが父の子である証だった。


 予定していた推薦入学は白紙となり、購読していたスポーツ雑誌や限定品のバッシュを一通り棄てた。ふりかかった挫折をまるで絵に描くように、ぼくはわかりやすい落胆を自分自身に思い知らせようとしていた。


 籟子がぼくを外に連れ出したのは、そんな折だった。

 久方ぶりの、二人きりの外出だった。

 幼い頃、彼女に手を引かれて公園、病院、スーパーなど、たいていの場所に足を運んだけれど、中学に上がってからは買い物にさえ同行しなくなっていたので、妙に手足がむず痒かった。



 到着したのは、大きな遊園地だった。

 日本でも有数の巨大テーマパークで、丸一日使わないと遊びきれそうにない。文字通り、ぼくらは午前中から夜の閉園時間まで遊びとおした。絶叫マシンから、子供騙しのゆったりしたアトラクションまで満喫し、昼と夜、両方のパレードも最前列で観た。すごくすごく、楽しかった。


「三十年、です。」


 帰り際、籟子はおもむろに口を開いた。

「三十年?」

 ぼくは首を傾げた。


「この遊園地が開園して今年で三十年になります。坊っちゃんが生きたのは、その半分でしかありません。」


 人生には、まだまだ楽しいことが山ほどありますよ。


 いつの間にか目線が同じ高さになった彼女に手を引かれて、少しだけ泣いた。







 おまえが初デートの相手だったんだよなあ……

 遊園地での件を思い出して、今度は目尻も使って笑った。


「カウントしてくださるのですか?」

 籟子も無愛想なりに、精一杯ぼくをからかう。


 華の無いデートだったなあ。ぼくも浅い呼吸でからかい返した。

 ……ああ、でも、頑張って華やかにしたデートもあったな。更に思い出した彼女との記憶を、呼吸を整えながら話し始めた。


「……あまり、無理なさらないでください。」


 籟子はそう言うけれど、ぼくはどうしても喋りたかった。

 白檀の香りが、消えてしまう前に。







 大学卒業間際、入学してからずっと付き合っていた女の子にふられた。

 優しい、賢い女の子だった。別れの責任をぼくに負わせない、ちょっとずる賢い子でもあった。


 遊園地のときみたく、籟子が何かを察したように接近してきたので、ぼくは先手を打って彼女の手を引いた。

 彼女を美容院に押し込んで、化粧とヘアメイクを施してもらい、服屋で可愛らしいワンピースを買って、それを着させて二人で夜の街を歩いた。

 さすがにレストランは気が引けて居酒屋で食事をした。


「烏龍茶を」なんて籟子が言うので、一杯くらい付き合えよと勝手にビールを二つ、ついでに軟骨揚げと茄子漬とホッケの塩焼きを注文した。

 籟子と酒を呑むのは初めてだった。


「今の居酒屋さんって、こんなに品があるのですね。」

 メニューを眺めながら籟子は言う。

「おまえ、居酒屋きたことあったの?」

 ぼくの質問に彼女は、はい、と返事する。


「昔、旦那さまと御一緒致しました。」


 旦那さまとは父のことだ。ついでにいうと母は「奥さま」である。彼女はぼくよりも、ぼくの両親との付き合いが長い。



「坊っちゃんは本当に、旦那さまそっくりになられました。」



 たった二口呑みこんだビールが、籟子の頬を薄紅に染める。

 若き日の父も、彼女のこの貌を見たのだろうか。


 帰り道、並んで歩く彼女を横目で見下ろして、あの、優しくずる賢かった女の子と、脳内で見比べた。同じなのは女であることだけだった。




 それから十年後、ぼくは職場で出逢った女性と五年間の交際を経て結婚した。妻は男の子を一人、産んでくれた。

 その息子も五年前に妻を娶り、同じく男の子を一人、授かった。







 おまえがな、坊っちゃん、坊っちゃん、なんて呼ぶから、あの子なかなか自分の名前を覚えないんだよ。


 孫の言葉が遅い理由を籟子に擦り付けて、ぼくは笑った。手を握る先で、籟子も微笑んでいるのがわかる。


「私にとっては、みんな手の掛かる坊っちゃんです。」

 名前でなんて呼びませんよ。静かに、それでも頑なに彼女は言う。


 でも父さんは、旦那さま、だったよな。



「手が掛かるのは、生きている間だけですから、」


 ああ、ほんとうに、彼女は今、どんな顔をしているのだろう。



 瞼が重くて開かない。開けようにも開けようにも、かろうじて鈍い光がぼんやりと浮かぶだけだ。

 どこに力を入れればいいかわからなくて、歯を食いしばった。脚がこわばった。指先が震えた。

 震える指先に、籟子が僅かな力をこめる。


「坊っちゃん……」


 籟子の声も震えていた。

 無愛想で堅物な、最高にかわいくない女の、情けない姿を拝みたい一心で、ぼくはようやく瞼を開けた。



「ふえこ……おまえは、かわらないなあ……」



 そこには、ずっとみてきた少女の姿があった。



 幼い頃、ふざけて彼女によく抱きついた。そのころ、ぼくは彼女の腰くらいだった。


 少し成長して、まだまだべそかきのくせに、意地を張るようになった。なんでも御見通しの彼女は黙ってぼくの隣にいてくれた。そのころ、ぼくは彼女の胸あたりだった。


 大人になりかけ、久しぶりに彼女と歩くと目線はほぼ同じ高さになっていて、完全に大人になったころには、彼女を見下ろしていた。


 そして今、寝たきりになったぼくの、しわしわな手を、彼女の瑞々しい手が包みこんでいる。



 ぼくはいつしか彼女を置き去りにして、こんなにも老いてしまった。



「ごめんな、ふえこ。おれも、とうさんとおなじ、なんだな、」

「いいえ……謝るのは私のほうです、坊っちゃん、」


 私はまた繰り返します。

 罪を重ねます。

 あなたにも、あなたの坊っちゃんにも、そのまた坊っちゃんにも、

 私は、まとわりつき続けます。



 ごめんなさい。ごめんなさい……ごめんなさい。

 風をやますのは、おそろしく切ないのです。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……………



 繰り返す籟子の謝罪が途切れてゆく。見馴れた少女の姿は霞んできた。

 手が、氷のように冷たい。




「旦那さま、あなたはもう大丈夫。……また、お逢い致しましょう、」




 声が聞こえない。姿が映らない。手の感覚もなくなってきた。

 真冬の風が、何か香りを運んでくる。



 甘いような、古くさいような、どことなく懐かしい、ふわふわする、におい。









 ああ これは 白檀だ

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