2.ビーツァとシエレイ
ビーツァとシエレイ。元の世界では島津と梅田という名前の、その頃はまだ二十歳になる直前の、若造と言っても良い年齢だった二人。同じ組で、片や使い捨てのチンピラ、片やフロント企業で使い捨ての兵隊社員として、全く接点のないままに生きていた二人は、同じ日に組織に切り捨てられて命を取られそうになりながら、一瞬の隙と偶然が重なりその場を逃げおおすことに成功する。
だがそれも一瞬のこと。二人して追い詰められた先で取り押さえられ、頭に銃口を突き付けられ、その引き金が引かれ、意識が途絶えて……
――気が付けば、この街の片隅にある安アパートの一室、「ケムリ」が充満した部屋の片隅で目を覚ます。
先に「ケムリ」の正体に気付いたのは島津だった。部屋に充満する匂いに気付いて反射的に口を閉ざし、慌てて出入り口を探して辺りを見回して、部屋の外に出て。そこで一息ついて、さてここはどこなのかと改めて周りを見渡したところで、同じように部屋を逃げ出てきた梅田と視線を合わせる。
とりあえずここはまずい、場所を変えようと二人は短く言葉を交わして外に出て。荒れ狂う吹雪に、ここが日本ではありえない極寒の地だということを思い知る。
その吹雪を突っ切って、二人は道路を挟んだ向かい側のアパートの中に入り。そこが無人であることを確認し、互いに自己紹介をする。
そこで二人は、自分たちが同じ組で、別の「シノギ」の捨て駒にされたこと、たまたま同じ場所に逃げ延びながら、結局は殺されたこと。
――そして、何故か今、生きてここにいることを確認する。
ここがどこかわからないが、とにもかくにも命はある。ならどうにかして生き延びようと彼らは頷きあい。……やがてこの街の過酷さを知るにつれ、二人は手を取り合い、信頼しあうようになる。そうしてビーツァとシエレイと名を変えた二人は、相手が自分にない「何か」を持っていることに気付く。
――フロント企業で非合法な儲けの嗅覚を得たシエレイと、組の下っ端として暴力の嗅覚を手に入れたビーツァ。日本で普通に生きていては手に入れることのできないその経験が、この過酷な異世界の街で二人を生き延びさせる。
シエレイにとってビーツァは、商取引が暴力によって壊され奪われるのを防いでくれる唯一無二の相棒だったし、ビーツァにとってのシエレイは、公正公平な商取引なんてものを期待することのできないこの街で、この街の流儀にそった真っ当な金を手に入れてくれるまたとない相棒だった。
やがて二人がそれぞれの分野で力をつけ、名を上げていき。この街で「クスリ」に手を出す意味も知り、自分たちがいかに危ない場所にいたのかも知り、今こうして命があることに感謝をして。この街の流儀に手を染めて、弱い者の血を流し、奈落の底へと突き落として。
やがて互いに人脈を築き上げ、唯一無二の相棒で無くなった今も、数多の苦難を乗り越えて育んできた信頼と友情はそのままの形であり続けていた。
――この日、二人がこの酒場に入る、その時までは。
◇
「……ああ、そうだな。確かにその『危ない橋』は、お前の領分だ」
乾杯の後、「仕事なら友達価格で請け負う」と言ったビーツァにシエレイは、少し歯切れの悪い、どこかはぐらかすような返事をし、グラスに少しだけ入れた蒸留酒に口をつける。その様子を見たビーツァは、シエレイの、答えになっていない答えに軽く肩をすくめながら、自らのグラスを手にする。
片方はちびちびと。もう片方はごくごくと。会話の途切れた空気を嫌うように、互いに話しかける言葉を探りながら、ほのかに薄茶色に揺れる酒を、二人は無言で飲み進め……
――やがて、外の風景にその言葉を見出したのだろう、シエレイがビーツァに話しかける。
「……この河の向こうには何があるんだろうな」
「さあな。この街とは違う街があるんだろうさ」
帝国と隣国とを分かつ国境の河。極寒の地に流れる氷の河は、ただ渡るだけで命を危険にさらす、いわば、帝都の反対側にあるもう一つの壁。
帝国の中央と辺境を分かつ文字通りの「壁」と、氷塊が絶え間なく流れる、国境の河の形をした「壁」。二つの壁に囲まれた街の住民は、この街から出ることすら叶わない。だが、そんな事実も、この街に住む多くの住民にとってはどうでもいいことだった。――ほんの一握り、壁の向こうに行き来することを生業とするような者たちを除けば。
この街が「他の街と比べて」どれだけ過酷でも、街に住む人間にとっては、この街が世界の全てなのだから。
「お前、帝都に住むつもりはないか?」
――そう、「交易屋」シエレイのような、壁の向こうを知るほんの一握りの者たちを除けば。
◇
「ここに、お前の分の『臣民契約書』がある。こいつがあれば、俺たちは『壁の向こうの住民』、帝国臣民になれる。こんなクソッタレな街で、ただ生きるために命のやりとりをする必要も無くなるんだ。
お前だって、平和に生きたいだろう。――平和に生きるべきなんだ、俺たちは」
シエレイは、懐から封筒を取り出すと、その中から一枚の書類を取り出す。――帝国臣民契約書。帝国臣民、壁の中の住民にとっては出生届と同時に役所に提出する、ごくありふれた書類。だが、帝国臣民にも他国民にもなれない壁の外の人間にとっては、壁の内側で生まれ変わるという夢を叶えることを可能にする、千金の価値がある書類。
その書類を机の上に広げ、同じく懐から取り出した万年筆をその上に置いて。シエレイはビーツァに向けて、説得するように話しかける。
「ただ生きていくだけなのに、荒事がついて回るのは間違ってる。少なくともお前は、ここに来てから『自分の都合で』誰かと命を取り合ったことは無いはずだ。――なら、まだ後戻り出来るだろう? 『命のやりとりの無い、普通の暮らし』だってできるはずだろう? そんな未来が、こいつにサインをするだけで手に入る。どうだ、こいつは悪い話じゃないはずだ」
そんなシエレイの話を、ビーツァは、どこか苦笑しながら耳を傾け。少しだけ考えた後に、シエレイに向かって問いかける。
「そいつは、今すぐに決断しないといけないことか?」
「――ああ。こいつは明後日までに『帝都』の役所に提出しないと無効になっちまう。今晩中にはここを出て明日の朝までに『壁』を超えないと、間に合わない」
シエレイの、どこか焦りを感じるような答えを聞いて。ふと、そんな未来も良いかもしれないなと、そんなことをビーツァは思う。この街から出て壁を越えて、帝国臣民になる。それも、周辺都市に居を構えるのではなく、帝都の住民として、だ。それならきっと、あの頃のように、平和な日々を送れるはずだと。
――きっとシエレイは、自分を誘う、たったそれだけのために、「危ない橋」と知りながらこの街に戻ってきたのだと、そうビーツァは確信をする。
ビーツァは、そんなシエレイの行動が、自分に向けた友誼から出たものだということを確信しながら……
「――返事をする前に一つ聞きたいが」
それでも、どうしても一つだけ、これだけははっきりさせなくてはと、店に入る前からそう思っていたことを確認する。
「最近、この街に出回り始めた新種の『ケムリ』、あれはお前が広めたモノなのか?」
――それは、この街で「クスリ」に手を出すという意味を知らない訳じゃないだろう、なのになぜお前は手を出したのかという、抑えきれない非難の響きが混じった、そんな問いかけだった。