死事
誰しもが日常的に、何度も死んでいる世界が、僕の目に映っている。
気づいた時から、世界はそうなっていた。
その死は一過性のもので、寿命や病気、事故なんかで訪れる最期の死とは少しばかり異なっていて、いつからそうなのかは、きっと誰も知らない。少なくとも僕が生まれた時くらいにはこの世界ではそれが"当たり前"であって、常識と言われる類の一つだった。
けれど、ずっとずっと昔はそんな事も無かったはずだと思う。一部の人は未だ研究を続けていたりもするそうだけど、大抵の人間は関心も持っていないように見える。
死の時間帯は人によって異なるけれど、大抵の場合、陽が昇るとともに多くの人が死んでいく。日中など、生きている人の方が少ないはずだ。朝起きて、それからしばらく経つと死ぬ。それが世界の法則だ。
「今日は死ぬ日だ」と慌てて早く起き、ママにさよならのキスをしてからパパは死んでいった。僕は「明日のパパは死なないといいな」と思いながら見送った。翌日も、当然パパは死んだ。
外を見ても死に逝く人ばかりで、僕は何だかこの世界を直視したくなくなってカーテンを閉めてしまった。死に際の「さようなら」の言葉はきっと、家族とか親しい人とか、それから自分自身にも言っているんだと思う。
一時的な死ではあるけれど、死ぬ事には変わりない。
だというのに、永遠の死とは別物だからと気にしていないのか、それを当然のものと受け入れてしまったのか。人々はいつでもどこでも、そうあるべきかのようにして死んでいる。
頻繁に、連続的に、時に不規則に訪れる死に飽きもせず自分を死なせている。
僕は死にたくない。絶対に。それは、生きる事が好きだからだ。
兄貴は嫌なヤツで、ゲームは手加減してくれないし負けるとドついてくるけど、そんな兄貴を含めて家族みんなで美味しいものを食べてくだらないホームドラマを見ている時間が僕は好きだし、我が家で唯一の四足動物であるジャッキーの暖かな脇腹に顔を擦り付ける時間は何とも言い難い。来月にはゲームも兄貴に勝てるようになってやるんだ。
隣の家に住んでるハーニーとは恋仲で、電話するのだっていくら時間があっても足りやしない。昨夜は来年の夏は日本に行こうかオーストラリアに行こうかという議題で喧嘩になりかけたけど、結局どちらも行く事にした。生とは自由であってこそだ。こないだは近くの公園にジャッキーの散歩がてら向かって、日向ぼっこしながら自分で作ったサンドウィッチを片手にベンチで横になって小説を読んでいた。爽やかな春風と穏やかな陽の光が心地よくて、つい3時近くまでうたた寝しちゃったけど幸せだったな。
けれど、そんな幸せは長く続かない。
僕もあと数年したら、死に続けるようになる。
大人になると、この現象になりやすい。例外もあって子供でも死ぬようになったりとか、大人になっても全く死なない人もいるそうだけど、きっと僕も死ぬのだろう。
たった一日だけの死。しかしこの先の人生で何度も何度も「一日の死」が続いていくと考えると、何だかやるせない気持ちになる。人々は死んでいる時にこそ楽しみを見出し、面白いと思って死に挑む事もあるそうだ。けれど、辛くて気分の悪いと感じる人が多くいるという話も聞くし、案外大半の人は何とも思ってなさそうなのも不思議だ。
死は何日も続く事が多くて、結構規則的な周期であるみたいだけど人によっては何十日も死に続けるそうだ。統計によれば約7割、絶望的な事にそれが一ヶ月で死んでいる日の割合で、生きていられるのは3割だけらしい。季節による変動もあるみたいで、太陽が近い時期なんかは数日間死なない事もあるとか。
人間はいつか永遠の死を迎えるけれど、大人になって7割の死に浸る事で、きっと死への抵抗を弱め絶望しないような仕組みが出来ているんだろう。
僕は、死にたくない。
そんな事を考えていた幼い子供の頃を振り返って、こんな所までいつの間にか来てしまったことに気が付いた。あぁ、あれから15年が経とうとしている。
私は当然のように何度もの死を経て、死ぬ事に対して特に何も思わなくなっていた。
確かに、時にはそれを楽しいと感じる事もあり、何より今まで以上に生きている日を大切にするようになったように思う。
では、あれだけ嫌がっていた死を受け入れるようになった私は、何かを失ってしまったのだろうか?
実家に帰省した際、久々に部屋の片付けをしていると、まだ捨ててなかった押入れの小箱から昔の日記を見つけ出した。
……ああ、そうか。それを恐れる感覚が、もう麻痺してしまったんだな。
今ではもう、当然に思えて、何とも思わなくなってしまったよ。
ははと、乾いた笑いが零れる。
さようなら昔の「僕」。そして明日からの「私」。
手に取った日記をゴミ箱に放り、私は片付けを済ませ、職場近くの一人暮らしのアパートへと帰る。
日記の最後のページにあった殴り書きの文は、次第に記憶から薄れていった。
「恐ろしい。僕は恐ろしい。もっと僕は好きに生きていたいんだ。自由で在りたいんだ。
この有限たる人生の中で、自分の意思で選択できる時間を失う事が、僕は恐ろしい。
ああ…月曜日がやってくる。土曜日と日曜日が過ぎ去って、また、月曜日が。」
湯納も死にたくないと毎日思いながら死んでいます。
「人」は「重力」に「く」っするのです。それは自由のためでもあるのです。