緑の人
領主様のところで働きはじめて一週間が経った、庭師の仕事は鍛冶仕事に比べたら楽なものだけど時々高所での作業があって、それだけは苦手意識があった。
今までそれほど高いところに登ったことがないので気付く機会もなかったけれど、どうやら僕は高所恐怖症の気があるらしい。
さっちゃんの方はというと彼女が期待する仕事とは少し違ったようだ。入って間もない新人の、しかも身分のない立場での給仕の仕事には大きな制限がある。
出入りが許されているのは公共設備しかない一階のみで、殆どの作業がその掃除や洗濯といった地味なものと言っていた。
時々、領主様やお客様の給仕がしたいとこぼしているが、それは相応の身分と経験がないと無理なんだそうだ。そういった仕事は下級貴族の嫁入り修行で来ている人達のものらしい。
「おーい!少年!そろそろ昼にしないか!降りておいで」
そう下から呼び掛けてくるのは面接のときに説明のあった上長とよばれる立場の人だ。
彼女はニア先輩、正しくはニーアさんというそうだが本人が間延びした名前は嫌だと言って周りにそう呼ばせている。
「やぁ少年、ご苦労だね。お茶を淹れてきたんだが君もどうかな」
宝石のような赤い髪に日焼けした肌、僕よりもずっと背が高くて格好いいお姉さんだ、梯子から降りてきた僕に満面の笑みで、僕に飲み物を差し出す。
「すみませんね、頂きます」
見た目の格好よさや口調とは裏腹にとても女性らしい細やかな気遣いのできる人で、その人柄は庭仕事にも表れている。
僕らがはじめてここに来たときに感心した手入れの行き届いたあの庭園はニア先輩が丹精こめて世話をしているらしい。
それにいつも僕のために昼食を用意してくれるのだ、申し訳ないので断ったりもしたが、ついでのことだと押し切られてしまった。
「少年の前職は鍛冶見習いと言っていたね?腕っ節のほうはどうかな?失礼するよ」
そういって僕の二の腕をプニプニと揉んでいる
「アッハッハッ!確かに見習いという感じだな、すまないね笑ってしまって。柔らかくて気持ちがいいよ、フフフ」
「僕だって力んでみれば……どうですっ!」
力いっぱい力んでみたが、余計に笑われただけだった。ニア先輩が楽しそうに笑ってくれるのは僕も楽しいのだけど、先輩の笑う姿は僕には少し刺激が強い。
僕らの作業服というのが白地の薄手のシャツに胸元のあいたオーバーオールのようなツナギを着て、腰に作業道具を下げるための工具ベルトを巻いているのだけど
ニア先輩が笑う度にこぼれそうな大きな胸がプルプルと大きく揺れて、そのたびに目のやり場に困ってしまう。
それを見咎められると、また笑われて、そしてまた揺れるの繰り返しだ。
「君も大概スケベなんだな、まあ男子はそれくらいでいいと思うよ。ここで働いているのは半分以上が女性だろう?どうも油断してしまってね。それで君が喜ぶなら女冥利に尽きるというものだね」
そういって豪快に笑った。ふと視線を逸らすと近くの窓からさっちゃんがこちらを見ていた
目が合うとすぐどこかへ行ってしまったが、それにしても凄い形相だった……怖いので僕は深く考えるのをやめた。
そんな僕をよそに、先程まで剪定していた庭木をニア先輩がじっと眺めていた。
「剪定のコツは掴んだようだね、無駄なく日の光を受けられるように出来ているよ」
「はい、ただまだ形を整えるのがしっくりこなくて……全体像がうまく掴めなくて落としては離れて眺めての繰り返しに」
「生育のために落とすべき枝葉と、見栄えのために落とすべき枝葉は違うものだからね、それじゃあ今度は形を整えるコツを教えてあげよう」
そういって先輩の指導がはじまった
ニア先輩は仕事がとても早いので、普段から僕の指導に入るころには自分の作業は全て終わっている。そのため午後からの殆どを僕のために使ってくれているような状況だ。
つまるところ僕の体力は既に限界だ、ニア先輩の『細かいことは気にしない』ことに起因する心臓に過度の負担を強いるようなハプニングもあって本当に疲れる。
一番ひどかったのが木の幹につく病気について説明を受けていたときだ、しゃがんでよく見るように言われたので
指示通り見ていたらニア先輩が僕を後ろから抱え込むようにして覗き込んできた。そして僕の頭の上に胸を載せ、そのまま説明がはじまったのだ。
多分わざとなんだろうと思う、僕が照れているのが面白いのだ。かくいう僕はというと素晴らしいハプニングに小躍りしたい気持ちはあっても、そこから立ち上がるのに難儀したことで素直に喜べない微妙な気持ちでいる。
結局のところ僕はお年頃なので恥ずかしいのだ、大人になればこういう恥ずかしさは吹っ切れるのだろうか。
僕の方が先に仕事が終わるので休憩室でのんびりとさっちゃんを待っていた
「あっ、さっちゃんお疲れ様」
「お疲れ様」
労うための言葉のはずなのだが語気に研ぎ澄まされたナイフのような鋭利さがある。あと……なんだろう、凄く汚いものを見る目だ。それから誤解を解くためにかなりの時間を要した。
「ニアさんって上で働いてる人達にすごく人気なんだって、今日もニアさんを見掛けてはしゃいでた子達が叱られてたよ」
ニア先輩の物腰と見た目なら女の子にもモテるんだろうなぁと思った、普段の様子は紳士的で格好いいとは思うけど、僕からしてみればイタズラ好きなお姉さんという感じで話に聞くイメージとは少し違った。
ちなみに上というのは領主様の住居や客室のある二階以上のフロアのことで、そこで働く人達は貴族階級に限られる。
「それとね、魔法のことなんだけど、私が見聞きした範囲ではそういう話はさっぱりで……貴族の人達とか偉い人なら何か知ってるのかもしれないけど」
身分の違いのせいで同じ建物のなかにいても話せるような接点さえないというのが現状だった。
「詮索しすぎても居心地が悪くなるだけだろうから、あまり無理しないでね、さっちゃん」
翌日もまたニア先輩と共に庭仕事に励んでいたときのことだった、立て付けがわるかったのか僕は梯子ごと派手に倒れてしまう。
「少年!しっりしろ!目を開けるんだ!」
意識は戻りつつあるんだけれど瞼ひとつ動かない、脳震盪でも起こしたのだろうか
「……お願い……ねぇ……起きて……」
僕を呼ぶ声が涙声に変わる、この声は先輩だろうか……強く抱き締められている感触が伝わってくる。ひどく心配をかけてしまっているようだ。
はやく起きないと……
「うぅ~……せ、先輩……あ、いてててっ」
「少年!良かった!!目を見せなさい、しっかりこっちを見て」
先輩の目をじっと見る、泣いていたのか目が真っ赤だ
「良かった……なんとも無いようだ。すまないね感情的になって……君が亡くした弟のようだったからつい」
「弟さん……」
「ああ、高所での作業中落ちてそのまま……不運というほかないが打ち所が悪かったんだ。私が気付いて助け起こしたときには既に弟は亡くなっていたよ」
そう言いながら先輩は僕を抱き締めてずっと撫で続けた
「もう八年前になる……君が落ちたとき弟のように死んでしまうのかと思って……私は……」
「ニア先輩、僕なら大丈夫ですから安心してください。大丈夫、大丈夫……」
「少年、君は私に少し似ているし弟にもよく似ているよ。君が私のもとを訪ねて来たときは弟が帰ってきたのかと思ったほどだったんだ。だからついね……すまないがもう少しこのままでいさせておくれ」
これが姉の温もりなのだろうか、僕は安心感から泣き出してしまいそうだった。
とても温かい先輩の胸の中は花と緑の香りがした