あなたのことを知らない
肺や喉が痛くなるほど走った。舞夜なんて膝に力が入らないほどだ。雪成は樹に腕をついて、荒い呼吸を落ち着かせている。
舞夜も雪成も息を切らせて走った。限界になるまで走って走って、やがてどちらともなく足を止めた。倒れそうなほど疲れていたが、それでも不思議と振り返っても大丈夫な気がしていた。耳を澄ませても足音は聞こえず、背後にあった妙な圧力も感じない。
とりあえず分かったことは、これほど走ったというのに、それでも祠には辿り着かないということだ。
(それから、それから……)
舞夜は懸命に頭を働かせようとしたのだが、苦しいほどの疲労と酸素を吸うことで精一杯なせいで、思考も空回りするばかりだ。
「……柊さんも、無事?」
「う、うん……」
日頃の運動不足を恨むばかりの舞夜に対して、雪成はすぐに呼吸を戻し、彼女を気遣う素振りをみせた。そもそも走る速度も舞夜に合わせていたのかもしれない。
雪成はしばらく周囲を警戒していたが、やがて何もないことを把握すると、そのままずるずると座り込んだ。力無い、弱々しい溜息が吐き出された。
「なんでこんなことに……。おかしい……絶対おかしいやろ。俺は普通の、すぐ帰れるような場所を選んだのに。変な噂とか、なんもない場所を選んだのに……」
追い詰められたような、苦しげな表情だった。俯いて頭を抱える彼に、舞夜は息を整えながら声をかけた。
「う、上村くん? あの……」
「ほっといてくれ……。なんでこんな……。なんで……、どうして…………」
ぶつぶつと止まらない独り言に、舞夜は微かに違和感を覚えた。
――ついさっきまで穏やかにこちらを気遣ってくれていたのに。
彼の急激な態度の変化は、やはり恐怖や困惑のせいだろうか? もしくは別の何かが? しかし何かを判断できるほど、舞夜はまだ上村雪成という人間のことを知らない。
「すぐ終わるはずやったのに…………、なにが原因でこんな…………、俺がいったいなにを…………、原因は…………」
彼の思いつめたような独り言は続く。舞夜はその姿を前に、ただ悄然と地面に座り込んでいた。
――こういうときこそ状況を打破するために、何か、何か考えないといけないのだが。
思いつかない。何もいい手がでてこない。
ただ悪い方向にばかり、思考が傾き、落ちていく。
陰鬱な気分に浸っている場合じゃない、なにか建設的なことを、と気を取り直そうとするのだが。結局引きずり込まれるみたいに、暗く重たい方へと気分が沈み込んでいく……。
自分はこんなに悲観的だっただろうか、それともこれも走って疲れたせいか。
舞夜が疑問を覚えた瞬間、雪成がハッと、まるで睨むように顔を上げた。
「あいつのせいか?」
「……あいつって?」
「あいつ。帝釈紫苑。秋太と同じクラスの……。だってタイミングが良すぎるし、一緒に来るとか明らかにおかしいし」
そうか、それでか、とまるで結論を得たかのように独りごちる雪成。舞夜は一瞬言葉を失くしたが、すぐに我に返った。
「しっ、シオンくんは違う!!」
「何が」
「……この変な現象は、シオンくんのせいじゃない。だってそんなことする筈ないもん」
彼は寧ろ退治する側だと、解決する側だと告げてよいものか。この非常事態だし別にいいだろうか。
そうして躊躇った舞夜の言葉は、雪成の冷ややかな視線に遮られた。
「柊さんが、あいつの何を知っててそう言うのかは知らんけど。どうせ、大した知り合いでもないんやろ? ホンマにそんなことが言い切れるか? あいつがそんなことする筈ないって……。何か知っとるのなら、話は別やけど」
「私は、……」
舞夜は咄嗟に開きかけた口を、戸惑うように閉じた。
彼の、何を知っているのか。……知らない。自分は帝釈紫苑という人間について語る知識を持たない。ただ彼は友達で、強くて、鬼でも幽霊でも化物でも退治するような、そういう同級生で。それで。
それで、こういうことはしないって、それだけはよく理解している。理解しているのだけれど。
舞夜は己のカーディガンの裾をぎゅっと握りしめた。――友達で、それだけで十分で。だからこそ、それについて語る言葉を持たなかった。
「でも、シオンくんは違うんやもん……」
いたたまれなかったし、自分が情けなかった。
当然雪成が納得するはずもなかった。彼は相槌一つ打たず、舞夜の横を通り過ぎて行った。
「……俺、独りで行くわ」
「そっちは祠のある方やけど……」
「お前は出口を目指すんやろ? じゃあ俺は反対方向に行く」
そんな理由で? と呆気にとられる舞夜に、雪成は鋭く舌打ちした。
「お前もあいつとグルやろ!? 普段仲良くしてないのは、繋がりがあるのを誤魔化すためか? ふざけやがって!」
「ち、違うけど……」
「信じられるか!! 組んでないにしても、仲良いってだけで信じられん。……俺はお前と反対方向に行く。秋太達と合流するから……付いてくんなよ」
俯いて去ろうとする雪成に、舞夜はさすがに奥を目指すのは危ない、と彼を説得しようとした。
瞬間、さあっと血の気が引いた。
「上村くん待って! 待って!!」
「だから俺は独りで――」
「ちがっ、前! 前っ……!!」
「は、」
顔を上げた雪成の眼前に、半月のように開いた赤い唇が浮かんだ。剥き出しの歯は赤黒く汚れ、口端から顎を伝う赤い液体がぽたりと地面を打った。乱れ伸びた黒い前髪の下の、濁るような赤い二つの円。それが雪成を虚ろに見据える、飛び出た目玉だと理解したとき。舞夜の叫びが彼の意識を打った。
「上村くん!!」
雪成は声にならない悲鳴を上げた。咄嗟に雌雄も分からぬ化物めがけ腕を振り払い、藻掻くように身を翻した。訳も分からぬまま大地を蹴れば、声も出ぬほど怯んだ舞夜がいる。溺れるように彼女に手を伸ばし、その細腕を鷲掴んだ。
「え、」
と瞠目する彼女から目を逸らすように、雪成は勢いよくその腕を前に引き落とした。
当然、バランスを崩した舞夜は前のめりに地面に倒れ込む。衝撃に耐える彼女を振り返ることもなく、雪成の足音は躊躇なくこの場から逃げ去っていく。まっすぐ、出口のある報告へ。
「うー……」
舞夜は地面に手をつき、痛みに耐えながら身体を起こそうとした。
ひたりと、あの冷ややかな足音が近づいた。恐怖に息すら強張る。ソレが視界に入り込む。骨の浮き出た青白い足の甲、ひび割れた黒ずんだ爪。固まる舞夜の手のすぐ横、ぽたりと滴り落ちた血が一滴、大地を汚す――。
夏とは思えないほど冷ややかな風が、固まる彼女の項を撫でた。
何かに襲いかかられたので、紫苑は手にしたバットで殴って撃退した。見ればガリガリに痩せた人のような化物である。そう認識した瞬間、そいつは悲鳴を上げる間もなく消えた。
「あっつ……」
紫苑はウンザリした顔でぼやき、パーカーの袖で汗を拭った。虫も出ないなら、わざわざ長袖なんて着てくるんじゃなかった。
離れてその光景を眺めていた鈴は、半ば呆気にとられるように呟いた。
「やっぱ慣れてる」
「まあ。……暑いし、汗かくし、こういうのは好きじゃないんだけど」
情報集めて、手間暇かけて、懇切丁寧な除霊をするよりも楽だから、こうするが。
「これ、他の人達は大丈夫かな……。やっぱりもっと急いだ方が、」
「待って」
遠くからばたばたと、走る足音が響いた。それをなんだと思う間もなく、全力で走る秋太が曲がり角から姿を現した。
「うわ!!?」
そして紫苑と鈴の存在に悲鳴を上げ、勢いよく身を反らしてバランスを崩した。それでも転ばなかったのは、運動神経の為せる技か。
一呼吸置いたあと。二人が見知った人物であることを理解した秋太は、ハッとしたように捲し立てた。
「お前らか。逃げるぞ。後ろ、化物が、」
「いるようには見えないけど」
紫苑の淡々とした言葉に、秋太はえっ、と目を丸くして振り返った。それからしばらくきょろきょろしていたが、やっと何もいないことに納得すると、安堵したように長い息を吐き出した。
「そっか、よかった……ん、他の奴らは?」
「……それは言えない」
「は? なんで」
「僕が君を疑っているから」
秋太は心底訝しげな顔をした。純粋に意味が分からない、というような顔をしていた。そして助けを求めるように鈴に視線を送ったが、彼女もよく分かっていないらしい。ただひょいと肩を竦めて見せるだけだった。
「鈍いな。簡単に言うと、君がこの怪異に関わってないか心配してるってことだよ。分かる?」
「お、俺は違う。俺はそんな、疑われるようなことはしてない」
秋太は顔を歪め、紫苑から視線を逸した。
「疑うなら、あいつやろ。桜井 愛子。あいつが計画を立てたんやぞ。やたらヤル気あったし、クジの提案とか急にしてきたのも変やし。……なんか行き道の足取りとか、怖いくらい軽かったし」
「(にっっっぶいなーこいつ……)で、その桜井は?」
「……見てないか?」
「それはこっちが聞いて――ああそうか。先に逃げたのを追いかけてきたのか」
面倒臭そうにぼやく紫苑に、秋太は頷いた。
聞けば、祠まで辿り着いたはよいものの、妙に不気味だったので逃げ帰ることにした。しかしふとした瞬間に姿を消した――恐らく化物に驚いて逃げ出しただろう愛子を追うようにして、秋太も此処まで走ってきたのだと言う。しかし全速力で駆け抜けたにも関わらず、愛子に追い付かないから、さすがにおかしいとは思っていた……と、秋太は困惑した顔を見せた。
出口までの一本道、進む者と戻る者が出くわさないはずがない。しかし紫苑も鈴も、秋太以外の誰にも会っていない。
愛子にも、そして雪成と舞夜の二人にも。
「――とにかく、藤井だっけ? そこにいる風野のこと、頼んだ」
「え!?」
「俺に頼むって、」
「僕は行くところができた。君たち二人は先に帰った方がいいんじゃない?」
「待てよお前、俺のこと疑っとるくせに……!」
秋太は慌てて背を向けた紫苑の腕を掴んだが、それは予想外に強い力であっさり振り払われた。
「うるっさいな。……悪かったよ。誤解は僕の勘違いだと分かった。だから任せた。それでいいだろ? じゃあね」
袋にしまったバットを担いで、紫苑は走り去ってしまった。
残された秋太はぽかんと鈴を見たが、彼女は意外にも冷静だった。腕組みをし軽い溜息を吐いただけで、その動揺を片付けた。
「――じゃ、どうするか考えよっか」