前兆
「……その、髪の手入れって、どうしとる……?」
雪成からの予想だにしない質問に、舞夜は一瞬呆気にとられて。
それから、三つ編みにした自分の髪をつまんで見せた。
「……髪って、この?」
「そう……あっ、ちが、変な意味じゃなく! そういうのじゃなくて!! 純粋に知りたいというか疑問というか!! ただどうしているのかって、技術とか知識とかそういうのを知りたいだけで……!!」
「別に全然いいけど……」
何をそんなに慌てているのか。ぽかんとする舞夜の顔に、彼は若干冷静になったらしい。「その、」と気まずそうに後頭を掻いてから、ぽつぽつと話し始めた。
「俺、将来美容師とか……そういう方面に進みたくてさ。……あ、俺のこの髪型、高校デビューで……担当してくれた美容師さんが凄いいい人で、髪型とか何も興味なかった俺に、すごく丁寧にしてくれてさ。それからオシャレとかにも興味が出てきて、なんか自分で服とか揃えたり、髪とか整えたりしてたらさ、自分に自信もでてきて、楽しくなって……。俺も、あの人みたいになれたらなって……」
ほんのりと笑みを浮かべて語る様は、本心でそう思っていることが伝わってくるように楽しげだ。しかし雪成は徐々に俯き、やがて片手で顔を覆ってしまった。
「急に語ってごめん……」
今更ながら我に返って照れているらしい。よく見れば頬が赤かった。喜怒哀楽というか、感情の変化が激しい人だという印象を舞夜は持った。
「――美容系の情報ってさ、ホンマめっっっちゃくちゃあんの。ネット、テレビ、雑誌もそうやけど……髪の手入れに限定しても、調べてるうちに、なんかもう……何が正しいとか分からんくなってきて……。それで結局、実際に髪を綺麗に保った人に質問してみるかと……その、ごめん」
「謝らんでいいよ。全然気にしてないし。えっと、髪の手入れやね。そんな凄いことはしてないけど大丈夫?」
「もちろん! いや、ほんと……急にこんな変なこと聞いたのに。……なんかもうホンマ、ありがとう……。今日肝試しに来た甲斐があったわ……」
「そこまで?」
その後、共通の話題が出来てから二人の会話が弾むのは早かった。
雪成は最終的に、髪含めた美容の情報にはあまりにも曖昧なものが多いため、最近では確実だろう科学の勉強を考え初めていて、そのために理系に進みたい、というようなことを語った。本当に真面目な人らしい。
面白い知り合いができたことが嬉しくて、舞夜もまた満足してその話に耳を傾ける。
二人揃って肝試しのことも、時間のことも忘れてしまうほどだった。
やっと祠に辿り着いた頃には、さすがの愛子もすっかり無口になっていた。
歩き続けて十五分程だろうか。とにかく足が痛い。太腿や脹脛はもちろん、歩くには向いてないパンプスの中の靴ずれが一番痛い。
秋太は祠の方へとさっさと歩いていってしまう。気が利かない人なのは分かっていたが、それでも、(少しくらい気付いてくれてもいいのに……)と恨めしくなった。
木製の祠は遠くからでも分かるくらい真新しく、そして非常に小さかった。それを支える石の台を含めても、正面に立つ秋太の背の半分ほどしかない。
少し考えたが結局、傍に行くのもやめた。祠に着いた証拠として、秋太が写真を撮っている間だけでも、足を休めたかった。
愛子は近くの樹に体重を預け、深い溜息を吐いた。
(……なんか、思ってたのと違う)
初めの高揚はどこへやら。自分でも奇妙に思うほど気分が落ち着いていた。生来、気分の浮沈みは激しい方だが。
……こういうのは、手軽に非日常感を味わってはしゃげるから楽しいし、意味があるのであって。そうでなければ、なんの価値もない。
「つまんない……」
ぼやきながら、ふと視線を下に向けると、草の陰に隠れて、平たく大きな石がいくつか、重なり合うように倒れていた。起立していたものが何かの拍子に崩れたようにも見える。
改めて周りを見ると、森は寒気がするほど静かだった。秋太がこれに気付いているかは分からない。
ずっと二人きりで、なんて思っていたのが嘘のようだ。別の誰かが来ないだろうか、とさえ思って、二人で歩いてきた道の方へと目をやった。しんとして、人気はない。一瞬、誰も来ないのではないか、という錯覚に襲われるほどに。
「桜井!」
驚いて肩が跳ねた。見れば、秋太が困惑に眉を顰めていた。
「スマホ使えるか? 俺のやつ、なんか調子悪くて」
愛子は慌てて鞄から、ピンクの手帳型カバーに飾られた端末を取り出した。そのまま適当なアプリを立ち上げようとしたが、不思議と反応がない。画面を何度かタップしたが同じだった。不具合だろうか。
再起動するため一度電源を落とし、秋太の側に行くと、彼は祠に向けたスマホの画面を難しい顔で睨んでいた。
「……もしかして、そっちのもこんな感じか?」
「こんなって、」
覗き込んで、ぞっとした。カメラ自体は普通に起動している。おかしいのは、その画面に赤いノイズが走ることだった。ふと祠を映したかと思えば、まるで砂嵐のように画面が乱れ、また元の薄暗い画面に戻る。ざらざらとした不安を煽るような、不規則な色合い。ただ液晶が壊れたというには、あまりにも気味が悪過ぎる。
「なに、これ……。落として壊れた、とか?」
「いや。さっきまでは普通でさ。……そっちは?」
秋太の視線に、愛子は首を振った。そういえば、と自身のスマホの電源をいれようとしたが。
「……つかない」
「充電切れか?」
「でもまだ半分以上」
残って、と言いかけた瞬間、秋太のスマホの電源が落ちた。どちらともなく押し黙り、目を合わせたあと、自然と祠に視線を向けた。
離れた位置からは分からなかったが、祠の扉は開いていた。中は空だ。台座らしきものが三つ――中心に大きな台が一つと、その左右に侍るような小さな台が二つ――もあるというのに、何もない。
愛子は自分でも理由が分からぬまま、背後を振り返っていた。何もない。誰も来ない。ただ寒々しい空気が流れているだけだった。
「……やっぱり、どう考えてもおかしいよな。もう祠に着いてもいいはずやのに……」
「うん……」
不安げに足を止めた雪成に、舞夜も小さく頷いた。
どう考えても歩き過ぎている、とどちらともなく気付いたのは、夢中になっていた会話がようやく途切れてきた頃だった。
一息ついてよくよく考えてみれば、これだけ話して歩いているのに、まだ祠が影も形も見えていないのは明らかにおかしい。せいぜい片道15分程度のはずなのに。それから更に歩いたが、やはり祠は見えてこない。
舞夜は遠くを見通そうと目を凝らした。木々の影だろうか、先は暗くなっていてよく見えない。頭上に広がる空はまだ夕焼けに入る前の明るさを保っていて、それがまた不気味だった。
「うーん。愛子ちゃん達も、まだ戻ってきてないしねぇ……」
一番手である秋太と愛子も、まだ祠から折り返してきていない。祠までは一本道なので、向かう自分達と戻る彼らとが、すれ違わないはずがないのに。
二人がまだ戻らないということは、普通に考えると、祠はまだまだ先にある、ということなのだろうが……。
舞夜はちらりと隣に立つ雪成を盗み見た。ひどく不安そうな顔をしていた。
「……静かやな」
ぼそりと雪成が呟いた。
話に夢中の間は気付かなかったが、森はしんと静まり返っている。あれほど夕暮れに備えて鳴いていたひぐらしはどこに行ってしまったのだろう。……夏の思い出を作るためだけの明るい森が、途端に不気味なものに変わったような……。
「もう少し進んで、何もなかったら休憩しよ? それで前の二人が帰ってくるのを待ってもいいし、後から来る二人を待ってもいい。どうですか、この作戦!」
ふざけて胸を張る舞夜に、雪成は笑って賛成してくれた。
また歩きだした二人だが、今度は会話が弾まなかった。ふと浮かぶ沈黙がより冷ややかに感じられ、やがて舞夜も雪成も、話題を挙げるのを諦めた。
険しくもない一本道が、最初とは全く異なって見えた。道の左右、木々の生い茂るところは鬱蒼と暗い。何かが潜んでいても、おかしくないくらいに。