イエルは冷やすと美味くない
蜘蛛腕族の料理人ハンデルの朝は早い。
前日に仕込み寝かせておいたシチューやソースの様子を見た後、次に街の中央に設けられた街市場に向かう。
顔馴染みの店で定番食材を吟味しながら仕入れつつ、掘出物の食材が出ていないかマーケットを一周するのだ。
運良く今日は珍しい食材が手に入ったので、この食材を使った料理を本日のお薦めとする。
店に戻ったハンデルは、購入してきた食材を食材庫に補充してから、当日分の料理を仕込み始める。
今日は思い当るところがあり、先程購入した食材で軽食を一品こしらえた。
仕込みが一段落した後は、新たに加わったルーチンを開始する。
それは『鳥居』に出向いてビールと保冷剤をこちらに持ち込む作業である。
ハンデルは貴意からサービスだと譲ってもらった大きなクーラーボックスと、昨日一日クーラーボックス内で冷気を維持し、今は溶けてしまっているたっぷりの保冷剤を六本の腕で抱えながら、淡い光をくぐる。
鳥居の前に出てから向かうのは、こちらの管理人から借り受けている建物。
扉の鍵を開け、冷蔵庫から本日用の冷えたビール、冷凍庫からはカチカチに凍った保冷剤をクーラーボックスに入れると、横に積まれた箱からビールを冷蔵庫に補充し、持ってきた溶けた保冷剤は冷凍庫にしまっておく。
保管してあるビールの数が少なくなったところで、ハンデルはまとめて貴意に発注することになっている。
「さて、行くか」
ハンデルはそう一人つぶやくと、クーラーボックスを持ったまま、鳥居ではなく、隣の建物へと向かった。
「きーさん、いるかい?」
「おう、ハンデルのおっさんか。ビールがそろそろ切れたか?」
台所から顔を出した貴意はハンデルを迎え入れると、茶の間に招いた。
どうやら朝食の準備をしていたらしく、シルベールとナハルッド、そしてプドルフもおとなしくちゃぶ台を囲んで座っている。
「飯時とはちょうどよかった。こいつを一緒に試してくれ」
バスケットを差し出された貴意は、そこから伝わる香りにニヤリと反応する。
「フライか?」
「おう。今朝市場に届いたばかりの『コカトリス』のブロットフライだ」
バスケットの中には先日のフライと同じ、味の濃いブロットという粉をまぶした一口フライが良い匂いと湯気を上げている。
まず反応したのはナハルッド。
「これは美味しそうだ。早速いただこう」
と、指先で一つつまむと、口の中に放り込んだ。
「うん、うん、まだ温かくて美味しい!」
それにシルベールとプドルフが続く。
シルベールはフライを口に入れてから、続けてお茶碗のご飯をほおばり、悦に浸っている。
プドルフも器用に箸を使ってフライを次々と口に運んでいる。
硬直しているのは貴意だけとなった。
「コカトリスってもしかして?」
「おう、鶏と蛇の魔獣だ。まずは一番癖のない胸肉を試してみろ」
ハンデルから遠慮するなとばかりにフライをバスケットごと前に押し出された貴意は、覚悟を決めてフライを一つ口に放り込んでみる。
「こりゃあ旨い!」
さっくりと心地よい衣に続くのは、柔らかくジューシーな肉。
食感は鶏の胸肉に近いが、肉からしたたる旨みと鼻を抜ける香りが段違いである。
「そいつはよかった」
ハンデルはそれ見たことかと自慢げにニコニコとしている。
あっという間に朝食が終わったところで、貴意は満足げに腹をさすりながらハンデルに向かった。
「それじゃあ注文数を聞くとするか」
「実はそれについて相談があってな」
ハンデルが言うには、彼の予想以上にビールが大当たりをしたという。
評判は街中に伝わり、彼の店は大繁盛している。
ハンデルの街では、仕入先を秘密にするのはごく当たり前のことであるので、ビールの販売を独占していることでハンデルが責められることはない。
が、ややこしい人物が登場してしまった。
それはこの街の領主である。
噂を聞きつけた領主は、当初『冷えたイエル』だと耳にしていたので、城付きの魔術師に『寒冷化』の魔法をイエルの瓶に向けて唱えさせた。
魔力の消費でその日は使い物にならなくなった魔術師を尻目に、領主は冷やしたイエルを楽しみにしながら口に運んだ。
が、それは驚くほど旨いものではなかった。
確かに冷たいのは心地よいのだが、本来は口の中で膨らむイエルの芳香や喉の奥に伝わる芳醇な苦みが薄くなってしまったような気がするのだ。
これは魔術師を一日消耗させてまで飲むようなものではない。
実はハンデルもイエルの瓶を冷蔵庫にしまい、一本試してみたのだが、イエルは冷やさないで飲むべきだとの結論に至っている。
ここで諦めないのが領主が領主たる所以。
彼は部下を一人だけ同行させ、お忍びでハンデルの店を訪れたのである。
「旨い!」
領主は驚いた。
ハンデルの店で出している『ビール』は、冷たさと香りと喉に抜ける刺激と切れのある苦みが完璧だったのだ。
これはこんな食堂で、たかが800ブロスで売られていい代物ではない。
ならば当然こうも考える。
「店主、冷えていないビールはあるか?」
「ありますがお勧めはできませんが……」
「よい、持ってこい!」
店主のいうことを素直に聞いておけばよかった。
領主は香りと苦みが飛んでしまったようなイエルを思わせるぬるいビールを一口飲むと、同行の部下にグラスを押しつけたのである。
「そりゃあな。日本のビールは冷やして飲むのが前提だからな」
貴意の言葉にハンデルも頷く。
「で、相談って何だ?」
「実はな」
ハンデルを見送りながら、貴意はどうしたものかと考える。
今度の取引は大商いになるだろう。
しかし失敗は許されない。
恐らく失敗はハンデルの失脚につながってしまう。
ゾーンは残るだろうが、それを扱うキーマンを失ってしまうと、途端にゾーンの使い勝手は悪くなる。
なにより、せっかく気持ちよく異世界の旨いものを食わせてくれるハンデルのおっさんを失うのは、貴意達にとっても非常に惜しい。
何かうまい手はねえかなあ。
すると今度はギリードがやってきた。
「きーさん、『栄養シャワー』を仕込んでもらえるか」
「おう、そうだったな」
貴意はポリタンクの水に濃縮活力剤を混ぜると、ギリードに渡してやる。
と、とあることに貴意は気付いた。
「なあギリードさん。おてんとうさまは向こうもこっちも同じかい?」
「天の光のことなら、ほとんど同じじゃ。ただしこちらの光は向こうほど強くはないけれどな」
「そうか……」
試してみる価値はあるな。
貴意は戸棚からある道具を取り出すと、鳥居に向かった。
「ハンデルのゾーンへ」
そう呟きながら鳥居をくぐると、見慣れた通路に到着する。
突然現れた貴意に仕込み中のハンデルは驚いたが、それを無視するかのように貴意は店の窓へと向かった。
そうして持参したあるものをかざしてみる。
「どうしたきーさん」
「領主は『ブロス』に糸目はつけないと言ったんだな?」
貴意の強い声にハンデルは思わず後ずさりながら頷く。
「そりゃあ限界はあるだろうが、あの様子なら百万ブロスくらいは余裕で出すだろう」
「ブロスか……」
ブロスを貯め込んでも、今のところハンデルの店での食事代くらいしか使い道がない。
が、今後のことを考えると、貯めておく価値はあるかもしれない。
「よし、百万ブロスで何とかすると領主に伝えてくれ」