奇跡(5)
次の日のお昼頃、マリアラは目覚めた。
寝過ぎたせいで少し頭が重い。よろよろとベッドを出て、シャワールームに行った。しまった、制服のまま寝てしまったじゃないか。クリーニング担当の人に余計な手間をかけてしまう。
しわしわの制服を洗濯ボックスに入れ、熱いシャワーを浴びながら、昨日のことを考えた。
――あの人にはミランダがいるんだから。
相棒に恋人がいたって、ちっとも悪いことはないはずだ。フェルドにはそもそも、自分に彼女がいることをマリアラに伝える義務さえない。南大島で、初めてミランダを見たときも思った。とてもお似合いだし、釣り合いが取れている。ちっとも不思議じゃない。
――好きになったらダメよ。あの人にはミランダがいるんだから。
「……別に好きになんか、なってないし」
ただ相棒になっただけだ。それもまだ、一ヶ月足らずしか経っていないのだ。それなのに、そんな色眼鏡で見てくる方がどうかしている。
シャワーを止め、タオルで顔を拭いた。孵化してからと言うもの、髪と体を乾かすのは格段に楽になった。本当はタオルさえいらないのだが、シャワーを浴びた後に乾いたふかふかのタオルで顔を拭く気持ちよさだけはやめられない。
それにしても、しみじみと空腹だった。昨夜は結局食べずに寝てしまったし、朝ご飯の時間もとっくに過ぎた。なんだか落ち着かない気分なのは、きっと空腹だからだ。ルームサービスを頼もうとして、いやいやせっかくなんだし、と思い直した。身支度をして、出かけよう。せっかくのお休みだ。前みたいに本屋さんに行ったり、美味しいものを食べたりしよう。コオミ屋にリベンジするのもいいかもしれない。そうすれば少し、気が晴れるかも。
――じゃあまたね、フェルド。
イェイラの優しいまろやかな声を思い出し、マリアラは身震いをした。
どうしてだろう。どうしてだろう。
ジェシカに言われた言葉より、イェイラのあの視線、ごく自然にフェルドの背に宛てられた手のひら、そしてあの微笑みの方が、ずっと――
「……何でこんなことで、ざわざわしなきゃ、いけないんだろ」
着替えて、髪を結い、ベッドを整え、部屋を出た。全くもう、何でこんな気持ちにならなくてはならないのだ。少しずつ腹が立ってきた。理不尽じゃないか。
*
町は今日も吹雪いている。
コオミ屋の近くまで来たものの、空腹は既に抜き差しならない段階にまで来ていた。この状態でコオミ屋に行ったとしても、優雅なお茶の時間など楽しめそうもなかった。腹ごしらえをしてから向かおう、そう思ったが、あんまりお腹が減りすぎて、何を食べたらいいのかわからない。
動道を降りてたどり着いた、地下街は美味しい匂いで満ちている。マリアラは途方に暮れた。空腹が差し迫ってきていて、匂いも暴力的なのに、何を食べたらいいかわからない。手近なお弁当屋さんのサンドイッチ? いやいや、せっかくの休みの日なのに。ラーメンもうどんも立ち食いそばも入るのは憚られ、と言って見慣れたチェーン店の味ではせっかく町まで出てきた意味がない。高級そうなレストランにひとりで――普段着で――入る勇気もない。ああどうしよう、と思った。どうしたらいい?
「ちょっとちょっと」
笑いを含んだ声がした。
振り返るとそこに、見覚えのある人が立っていた。五十代くらいの、とても優しそうな顔立ち――ディアナ=ラクエル・マヌエルだ。以前コオミ屋で詐欺に遭いかけたとき、颯爽と助けてくれた、治療院の魔女だった。
そうだった。コオミ屋の近くには、この人の治療院があるのだった。
「こんにちは、マリアラ。こんなところで、どうしたの? 今日はお休み?」
「はい。こんにちは、ディアナさん。あの……済みません」
必死の形相で、マリアラは訊ねた。
「オススメのお店、教えてもらえませんか。もう、もう、何を食べたらいいのかわからないの」
「ええ、いいわよ」ディアナはくすくす笑った。「砂漠で餓死しそうな顔してる。そうよねえ、久しぶりのお休みの日、せっかく町に繰り出したのに、美味しくないもの食べるわけにはいかないわよね。いいわよ、とっておきのお店、教えてあげる。遅いお昼ご飯、一緒に食べてくれる人がいてあたしも嬉しいわ」
行きましょ。ディアナはマリアラの腕を取って、歩き始めた。彼女は当然のことながら、この辺りの飲食街に詳しいようだ。程なくたどり着いた店は、エキゾチックな印象の店だった。小さな象――体は人間――が入口にいて、鼻でこちらを差し招いている。
「辛いの平気?」
「はい、大丈夫です」
正直に言えば、辛いものは少し苦手だった。しかしこの店の放つ匂いを嗅いだらもう、他に行くことなど考えられない。
スパイシーな匂い。ココナッツミルクの匂い。香草とナンプラーの匂い。
信じられない。ここはエスニック料理のお店だ。特別なお休みの午後に、これ以上相応しい店などあるだろうか。
ディアナはメニューを見て、さっさと注文してくれた。今の状態では、それが本当にありがたかった。平日の午後一時過ぎというこの時間、店内は空き始めていて、注文した品はスムーズに届けられた。まず机に並んだのは、生春巻き、春雨サラダ、真っ赤なスープ。ディアナに勧められ、マリアラは早速生春巻きに手を伸ばした。甘くてぴりっと辛いソースと新鮮なしゃきしゃきした野菜が、とても美味しい。
思わず呻き声が漏れた。
「あああ……美味しいい……!」
「それは良かったわ」
真っ赤なスープは見た目を裏切る味だった。全く辛くなく、酸っぱいのだ。しかしコクのある爽やかな酸っぱさだった。春雨サラダはとても辛いが、香草の風味がアクセントになっていて意外に平気だ。続いて肉団子のようなソーセージのようなものが届いた。食べてみると、中には餅米が詰まっていた。かりっとした皮ともっちりした感触と、付け合わせの香草が良く合っていて美味しい。続いて、鶏肉がどーんと乗ったご飯の皿。半熟のフライドエッグが乗っている。次にエビと野菜のココナツカレー。辛くてまろやかで、チーズ入りのナンがもちもちカリカリで、マリアラは一心不乱に食べた。チーズ入りのナンなんて初めてだ。
ディアナは機嫌良さそうに言った。
「どんどん食べてー。あー、嬉しい。あたしひとりじゃどんなに頑張っても三品くらいしか食べられないもの、こんなに色々、ずらーっと並べて一口ずつ食べられるなんて幸せだわあ。フェルドも連れてくれば良かったのに」
顔を上げると、ディアナは何とビールを飲んでいる。少し胃が落ち着いてきて、周囲が把握できるようになったマリアラに、ディアナは悪戯っぽく微笑んだ。
「今日の仕事はもうお終いだもん。いーでしょいーでしょ、可愛い子と一緒に美味しいもの食べながら昼からビール、サイコー! 頑張って働いた甲斐があったー!」
「午後、休診なんですか」
「うんそう、木曜日はいつもそうなのよ。冬は急患も増えるから、まちまちになっちゃうけど」
ディアナはそう言ってビールを飲み、青菜の炒め物を一口食べた。マリアラも一口もらった。辛い。でもしゃきしゃきしていて美味しい。
「なんか、昨日は大変だったみたいね」
切り出され、マリアラは苦笑した。
「良くご存じですね……」
「そりゃあね、可愛いひ孫の門出だもの、耳はそばだたせているものよ。災難だったわねえ、よりによってアシュヴィティアの信奉者に当たるなんて」
「アシュヴィティアって、……何なんですか?」
前にも聞いた単語だった。確か、何故か【魔女ビル】に入り込んでいた魔物が、その言葉を口にしていたような気がする。ディアナは鶏肉を一口食べ、うーん、と唸った。
「毒のことみたいよ」
「え、……毒?」
「そう、【毒の世界】に満ちた毒、そのもの。広がろうとする意思、侵略しようとする本能、全てのものを飲み込み、汚染し、同じ色に染めようとする存在……それを、アシュヴィティア、というらしいわ。この世界を牢獄と捉える人にとっては、【毒の世界】は天国。アシュヴィティアは天国を治める神……なのかな、あたしも良くわからないけど、たぶんそんな感じよ」
「ふうん……」
「ただ闇雲に【壁】に飛び込んだら即死する可能性が高すぎる、だからアシュヴィティアの信奉者は、嵐の日に海流を目指す。海流が流れ出る先は、少なくとも大地の底やマグマの中、ということはあり得ないだろう、というのが彼らの考えよ。世界の均衡を考えると、高度数千メートルから落下、という末路も考えにくい。海流は海流のまま、どこかの海につながっているはず――そんな保証なんてどこにもないのに、まあ、狂信者の考えることだからねえ」
ごめん変な話になっちゃって、とディアナは言った。
促されてマリアラは、再び食べ始めた。どの料理も本当に美味しい。辛いけれど、ほどよい辛さだ。
食べ物があらかた片付くと、ディアナはマリアラのために、ラッシーを頼んでくれた。舌に残る辛さがすっと遠のく。
「……製薬の助っ人にも入ってるって、聞いたわ。冬のマヌエルは、本当に忙しいわねえ」
ディアナが言い、マリアラはまた苦笑した。マリアラやフェルドの日常は、そんなに色んなところに吹聴されているのだろうか。
2017/3/6 ディアナの名前を修正