奇跡(4)
詰所に戻り、シャワーを浴びて着替えた後、二人は頭を付き合わせるようにして報告書を書いた。
自殺志願者と認定されたあの老人は、意識を戻さないまま、保護局員に連行されていった。保護局員の話では、“あわよくば救助に来た左巻きを生け贄として巻き添えにする”ために、発信器の投棄をギリギリまで待ったのだろうということだった。
その場合、ただ自殺しようとして救助されてしまった人よりも、罪が重くなる。
生きている内に再びお日様を見ることはないだろうね、と言った保護局員は、たぶんこちらを元気づけるためにそう言ってくれたのだろうけれど、マリアラの気持ちは晴れなかった。自由になろうとした人を無理矢理捕まえて保護局員に引き渡したかのような、後味の悪さを感じる。
報告書を書き終えるとちょうど五時になり、ふたりの日勤はそれで終わった。次に夜勤に入るメイカとジーンに引継ぎをして、ふたりは並んで詰所を出た。
フェルドも少し疲れているようだった。口数少なく並んで歩いて行く。
「体調、悪そうだね。すごく広範囲に神経使ったから……あの、治そうか? 少しほぐして寝たら明日楽だよ」
そう言うとフェルドは笑った。
「大丈夫だよ。明日は休みだし、筋違ったわけでもないし。ただ疲れただけだしさ」
「そう……?」
「明日は非番じゃなくて、休みだから。〈アスタ〉に頼まれても断っていい日だから。荷運びも雪かきも浄水場の交代要員も全部断る。目覚ましかけずに好きなだけ寝る」
「わたしもそうする」
助けてくれなどと頼んでない、と言う人がいるのと同じように。
疲労を、治されたくない時もあるだろう。マリアラとしては治してあげたいけれど、無理強いするのはよくないことだ。
ふたりは階段を降りていた。フェルドの居住階、十八階に続く踊り場を曲がったところだった。後ろから軽やかな足音がやって来る、そう思った時、優しい美しい声が言った。
「フェルド、待って」
ぎくり。
フェルドが一瞬、硬直したのに、マリアラは気づいた。
やって来たのは長い黒髪を持つ、とても美しい人だった。ミランダに少しだけ印象が似ているのは、そのつややかな黒髪のせいだろうか。背が高い。すらりとしていて、動きがなめらかで、指先まで優雅だった。まるで人魚のよう。
睫が長い。完璧な美貌、という言葉がしっくりくる。ララと同い年くらいのその人は、とてもまろやかな優しい声で言った。
「今日は大変だったんですってね。詰所で聞いたわ」
「イェイラ」
フェルドは彼女に向き直り、軽く頭を下げた。
「ご無沙汰してます」
「本当よ。ちっとも医局に来てくれないんだもの。最近ケガをしていないんなら、いいことなんだけれど。……相棒を得たんですってね。ミランダから聞いたわ」
「はい。この子が相棒の、マリアラ=ラクエル・マヌエルです」
「そう。……初めまして。イェイラ=レイエル・マヌエルよ」
イェイラと名乗った女性ひとは優雅な仕草で頷き、にっこり笑った。マリアラは微笑んだ。
「初めまして、イェイラさん。よろしく――」
「ねえフェルド、遭難者が自殺志願者だったって聞いたわ。ケガはないの?」
「……、大丈夫です」
フェルドが歩き出し、イェイラがその後に続く。マリアラはどことなく、疎外感を覚えた。どうしてだろう、そう思った時、イェイラがちらりとこちらを見た。
なぜだか、ぎくりとした。
何だろう、今の目。
「魔力をたくさん使ったのね。自殺志願者が初の救助対象者だったなんて、災難だこと」
「じゃあ俺、こっちだから」
フェルドがマリアラを見て言った。「ああ、うん」マリアラは頷いた。
「お疲れ様――」
「じゃあまたね、フェルド」
イェイラはそう言い、左手をフェルドの背に宛てた。
あっ、と、マリアラは思った。
――治した。
今日あれほどの範囲の吹雪を押さえ続けたことによる筋肉のこわばりや疲労を、左手のひと撫でだけで霧散させた。その鮮やかな治療の腕と、何よりその親しげな仕草にマリアラは衝撃を受けた。フェルドは何も言わずに歩いて行く。その背を、イェイラが見守っている。
それから彼女は、こちらを見た。
冷たく澄んだ微笑みが、その美しい顔に浮かんだ。
「お疲れ様」
「あ――」
「あのまま眠ったら疲労が取れないもの。彼ったら意地っ張りなんだから」
相変わらず穏やかな声で言って、彼女は階段を降りていった。
マリアラは何も言えなかった。何を言えばいいのかわからなかったし、さっき自分が衝撃を受けたこと自体が衝撃で、頭が混乱する。治した、という単語だけが頭の中をぐるぐる回る。治した。治した。さっきマリアラが治そうかと訊ねてフェルドに断られたあの疲労を、イェイラは一瞥で見抜いてひと撫でで治した。
胸がざわざわする。
そして、その理由が、マリアラにはさっぱりわからない。
イェイラがいなくなるのを充分な時間、待ってから、マリアラは再び階段を降り始めた。今日は一日、色んなことが起こりすぎて、頭の中がめちゃくちゃだ。リンとダリアのところに行きたかったけれど、昨日行ったばかりだし、吹雪の中を飛んで行ったら驚かれてしまうし、何より疲れてその元気もなかった。
十六階に付いた。とぼとぼ歩いていると、向こうから、誰かがやって来るのには気づいた。でも、顔を見る元気もなかった。すれ違い、そのまま進むマリアラの背に、冷たい声がかけられた。
「いい気にならないでよね」
ジェシカだった。マリアラは足を止めた。あああああもおおおおお、と思った。まだ何かあるのか。今日は一体何なんだ。厄日なのか。
ジェシカは冷たい声を投げつけてくる。
「……あのやり方は、確かに効率的ね。でもそれは、あなたの魔力の弱さをカバーできるってことにはならないのよ。同じやり方であたしが作れば、あなたよりずっともっといーっぱいっ、薬を作れるんだから」
ジェシカを見ると彼女はマリアラを睨んでいた。その目に宿る憎しみの濃さにマリアラは少しだけ驚いたが、今はちっとも怖くない。
「……あー、そうだね」
「弱いなら弱い魔女らしく他の邪魔にならないようにしなさいよ、あんたみたいな子に大きな顔されたら迷惑なの。勘違いがこれ以上広まったらたまったもんじゃないんだから!!」
フェルドの言った言葉を思い出す。そのとおりだとマリアラは思った。
――後でどんな我が儘な遭難者に会っても、可愛いもんだって思える。
確かにそうだ。ジェシカなんて、あの老人とイェイラに比べたら、わかりやすくて可愛いものだ。
「別に大きな顔なんてする気ないよ。同じやり方で作ればあなたのほうがいっぱい作れるというのは事実なんだし。これからの冬のためにいっぱい薬、作らなきゃいけないんだから――」
「だいたい何で」ジェシカはマリアラの言葉を遮った。「あんたみたいな子がフェルディナント=ラクエル・マヌエルの相棒なのよ。全然釣り合わないし、足手まといだし。何で辞退しなかったの? あなたのせいで六ツ葉のフェルディナントさんが普通の仕事させられてるのよ、恥ずかしくないの?」
急に、腑に落ちた。
そうか、――それが本音か。
「好きになったらだめよ」嘲るようにジェシカは言った。「あの人には、ミランダがいるんだからっ!!!」
ジェシカはふんっ、と息をつくと、憤然と歩み去った。たぶん――と、マリアラはぼんやり考えた。ジェシカが始めからマリアラを知っていて、魔力が弱いという事実も把握していたのは、どうやらこれが理由らしかった。
はああああ、とため息が漏れた。ジェシカにとっては、マリアラのような魔力の弱い人間が、フェルドの相棒に選ばれて、それを辞退しなかったことが、そもそも腹に据えかねていたのだろう。
――あの人にはミランダがいるんだから。
ミランダなの? とマリアラは思った。
イェイラじゃないの?
頭の中は益々ぐちゃぐちゃで、もう何にも考えられない。マリアラは残りの廊下を走って帰った。部屋に駆け込んで、制服のままベッドに飛び込んだ。枕に顔を埋めて叫ぶ。
「わああああああああー!!」
喚くと少し、少しだけ、スッキリした。……ような、気がした。
ラセミスタは、今日も部屋に帰ってこなかった。