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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の日常
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奇跡(3)

 目の前を舞い狂っていた雪片が静止していた。

 耳を聾するほどだった風の音も遠くなった。

 その範囲は半径2、30メートルにも及ぶだろうか。眼下に逆巻き荒れ狂いながら【壁】に向かって進んでいく波涛が見えているが、この範囲に入ると波も僅かに穏やかになる。フェルドはフィの柄を握りしめて目を閉じている。蝋燭の炎を消していたときよりももっと、張り詰めて緊張しているのが伝わってくる。


 マリアラは双眼鏡に目を宛てて静まりかえった範囲をぐるりと見回した。雪は、荒れ狂っていたときは怖ろしい程の密度に思えたが、静止した今は視界に苦労するほどではなくなっていた。やはり発信器は海に落ちたらしかった。電波はこの辺りから発信されているのに、ヨットはどこにも見えない。


「進むね」


 マリアラはフィの柄を掴んだ。左手に双眼鏡を掴み、周囲を見回しながら、海流に沿って【壁】に向かって進んでいった。範囲の外で吹雪は未だ荒れ狂っているが、ここはやけに静かだった。雪片は空中に静止したまま動かなかった。風を抑えるだけではなく、水を操るのと同じやり方で、雪に意思を伝えているのかもしれない。


 もしわたしが、魔力の強い相棒だったら――。そんな考えが、心の表面を撫でていった。

 もし自分がジェシカやミランダのような相棒だったら、フェルドが風を押さえた範囲の雪を全て溶かして、もっと視界を広くすることができるのだろう――。


 そう思ったが、不思議に胸は痛まなかった。先程まで感じていた危惧も心配も焦燥も、遠のいた。心が鎮まっていく。――研ぎ澄まされていく。フェルドの魔力が行き届いた空間に満ちた雪片たちが、身近に感じられるようになっていく。

 雪は今や障害ではなく、味方だった。何よりも頼もしい味方。マリアラの意思を尊重して、その願いを叶えようと待ち構えてくれている、忠実な仲間のような感覚。


 この感覚には覚えがあった。

 フェルドの水の力を借りて、森の浄化を続けたときと、同じだった。


 マリアラはいつしか双眼鏡を使うのをやめていた。それどころか、自分の目を使う必要も、なくなっていた。フェルドが吹雪を押さえてくれている範囲、全てを、見通すことができた。雪のひとつひとつが、まるでマリアラの目になってくれたかのよう――


「――いた!」


 叫んだ瞬間、周囲が音を取り戻した。ミフが矢のように飛んだ。逆巻く波の間に、小さなヨットが一艘、もみくちゃにされながら進んでいた。乗っているのは、雨合羽を着た人だ。意識はあるらしいが、舳先にしがみついて顔を伏せている。


 正面に、聳える【壁】が見えている。


 あちらは晴天だった。晴れ渡った青空には雲一つ見えない。その青空は神々しいほど大きく、目の前に聳え立っている。ゾッとするほど近い。でも、間に合った。何とか見つけられたのだ。ミフの穂から係留フックを取り出し、ロープを引き出した。ヨットに追いつき、艫にフックを引っかけようとしたが、波が高くてヨットが乱高下するため巧くいかない。


「失礼します! 救助のマヌエルです!」


 マリアラはそう声をかけ、ヨットに乗り込んだ。がつん、大きくヨットが揺れて倒れ込んだ。ヨットはずぶ濡れで、底にかなり海水がたまっている。良く今まで転覆しなかったものだ。マリアラは必死で体を起こし、艫にしがみつき、係留フックを引っかけた。


『よっしゃー!』


 ミフがロープを引いた。ぐうん、ヨットが大きく引っ張られ、【壁】が少し遠のいた。マリアラは、はああああ、と大きく安堵の息を吐いた。間に合った――何とかやり遂げた。これでもう大丈夫だ――


 と。


 舳先にしがみついていた雨合羽の老人が、こちらに向き直った。

 フードの隙間から覗く白髪はざんばらで、皺深い口元から覗く歯は黄ばんでガタガタだった。表情はうつろで、まるで洞穴のようだった。マリアラはその表情の異様さに、思わず息を吸った。老人は震える手でヨットの縁を掴み、こちらに覆い被さってきた。生臭い。


「おまえひだりまきか」


 腐ったような息と共に吐き出された言葉は不明瞭で、一瞬意味がわからなかった。老人は硬直したマリアラの頭越しに手を伸ばして、今取り付けたばかりの係留フックを掴んだ。がきっ、耳障りな音と共に『え――?』ミフの声が遠く離れていく。


「じゃまをするな」


 老人は再び舳先に向き直った。吹雪が抑えられている影響で波が静まっている、それを見て取って、老人は船底からオールを取り出した。その外見とは裏腹な力強さで船をこぎ始める。


「じゃまをするな! 助けなどいらん! 私は――私はエスティエルティナのもとへ! 崇高な闇の女神の治める、アシュヴィティアの世界へ行くのだ――!」


 海流に乗って、船は再び【壁】に向かって進み始めた。ミフが舞い戻ってきた。その穂からぶら下がる係留フックをマリアラが掴もうとすると老人はオールを振り回した。鋭い痛みが肩に走りマリアラは倒れ込んだ。老人はマリアラに馬乗りになり高らかに叫んだ。


「お前も連れて行こう! マーセラの左巻きを捧げよう! 邪魔するな、もう少し、あともう少しで私の長年の夢が叶うのだ――!」

『ちょっとちょっとあんたっ、何言ってんの!?』

「助けてくれなどと頼んでない! 発信器は海に棄てたはずだ! アシュヴィティアに逆らう幼子、波涛に揉まれる落葉のごときお前に、私が箱庭を出ることを邪魔させはせぬ! お前たちに人々をっ、箱庭に閉じ込める権利などないのだ!!」

『マリアラ……!』


 ぶん、ミフの柄が空振りした。

 老人の体は骨みたいに痩せてるのに酷く重く強く、死ぬほど不快だった。ミフはマリアラの不快さと嫌悪と恐怖を感じ取って慌てているし、何より救助対象者を滅多打ちにしていいのかどうか判断できかねて混乱している。マリアラも同様だった。肩がズキズキ痛み、遭難者に攻撃される事実が信じられず、老人の言葉の異様さが怖ろしかった。狂信者みたいだ。エスティエルティナと言えば紛う事なき邪神の名だ。その懐に行きたがるなんて。


 助けに来たのに。

 吹雪と嵐の中を飛んできたのに。

 心配したのに。見つけたのに。助けられるのに。目的を遂行したいのに。


 ――助けてくれなどと頼んでない、とこの人は言った。


 青い【壁】が迫る。海流は【壁】に近づくにつれぐんぐん速度を増している。老人は【壁】を振り仰ぎ、同時にその腿でマリアラの胴体を押さえつけた。両腕を挙げて高らかに叫んだ。


「ああ! 今行きます! 左巻きを生け贄に携え、この箱庭を抜け出して私は――!」

「るっせ」


 酷く冷たい声がした。同時に振り下ろされたのは情け容赦のない鋭い一撃だった。船縁に降り立ったフェルドは老人の背中に躊躇いのない蹴りをたたき込んだ。

「ぐっ――」

 老人はか細い声を残してヨットから転落した。

 たちまち周囲の海が凍った。沈みかけた老人はそのまま凍り付いた。マリアラは茫然としてフェルドと、その向こうに見える青い【壁】を見ていた。海流の速度は益々増して、もはや濁流にも似た速度で流れている。


 その波が収まった。

 ――いや、凍り付いたのだ。凍り付いていく。ヨットの回りの海流がぴきぴきと音を立てて凍っていく。


 ヨットがその進みを止めた。時間まで止まったような気がした。

 静寂の中、フェルドの冷たい声が聞こえた。


「行くなら俺たちの担当時間外にしろよ」


 ごっ、轟音とともに吹雪が再開した。フェルドはミフの係留フックを艫に引っかけ直した。フィが氷漬けになった老人を引き揚げた。ヨットの中に乱暴に投げ出された老人は、既に溶けていた。「うう……」呻き声を上げた老人を嫌そうに見て、フェルドはマリアラに向き直った。


 そして、しゃがみ込んだ。


「……遅くなってごめん。怖かっただろ」

「う、ううん……そんな。ありがとう……」

「ほんとごめん。――ケガは?」


 その時。

 フェルドの持っている無線機から、〈アスタ〉の声が流れ出た。


『フェルド、お待たせ。許可が下りたわ。自殺志願者への攻撃を許可。抵抗を封じて無力化して構わないわ。やり過ぎないように気をつけて』

「どーも」


 フェルドはまだ険の残った声で言い、無線機を切った。マリアラにまた向き直って、訊ねる。


「ケガは?」

「だいじょ」


 言いかけて、思い出した。相棒に自分の体調不良を隠してはいけない。自殺行為になりかねない。


「ちょっと、ちょっとだけ、肩を……でも大丈夫、すぐ治せるから」

「……そっか」


 俯いて、フェルドは小さく息を吐く。

 フィとミフは並んでヨットを引き、三人の乗った乗り物はかなりの速度で本土へと向かっている。吹雪は相変わらず酷い。が、ヨットの周囲だけは穏やかな静寂に満ちていた。その範囲は先程までよりずっと狭く、5、6メートルと言ったところだろうか。


 マリアラが自分の肩の治療をする間、フェルドは老人の方に顔を向けていた。その横顔に、さっきの、集中していた様子を思い出す。

 老人を探すために、あれほどの広い距離の吹雪を押さえたのに。押さえ続けたのに。


 ――助けてくれなどと頼んでない、とあの人は言った。


「……こんな人も、いるんだね……」


 今の今まで、マヌエルに救助されることを喜ばない人間がこの世に存在するなんて、想像したこともなかった。


 この老人は、邪教の信奉者なのかも知れない。海流に乗って【壁】の向こうに行けば、エスティエルティナの治める、なんとかという国に行けるのだと信じていたらしい。無線機は棄てた。助けてくれなどと頼んでいない。私をこの箱庭にとどめておく権利などお前たちには――


「たまーに、いるらしい、な。なんかの記事で読んだことある。ホントかよって思ってたけど……神話ではさ、俺たちの住んでるこの世界は、マーセラの白い腕の中ってことになってるだろ。で、それを“閉じ込められてる”って解釈して……逃げ出したがるっつーか」

「そっかあ……」

「せっかく見つけたのになー」


 言い方が軽い。敢えて軽くしているのがわかる。マリアラはしみじみと頷いて見せた。


「せっかく必死で、追いかけたのにねー」

「双眼鏡まで使ったのになー」

「吹雪をあんなに広い範囲押さえたのにー」

「よく見つけたよな、マリアラ。けっこ遠かったし雪も邪魔だったのに」

「フェルドも。わたし、あんな風に吹雪押さえるの見たの、初めて。それもあんなに広い範囲」

『あたしもあたしも! ちょー頑張った! おっさん怖かったけど立ち向かった!』

『俺も俺も! ちょー頑張って飛んだ! ちょー引っ張ってる今!』

「せっかく出動したのに!」

「すっげー頑張ったのに!」

「助けてくれなんて頼んでないって言ったんだよ! 失礼しちゃうよね!」

「死にたいなら船出す前に発信器棄てろってんだ!」

「そーだそーだ!」

『そーだそーだ!!』

『そーだそーだ!!!』


 皆で喚いている内に、なんだか元気が出てきた。肩の痛みもすっかり癒えた。マリアラが笑うと、フェルドも笑った。


「まあさ、初出動がこれってのは、考えようによっちゃラッキーだよな。すっげーレアな要救助者に初っぱなから遭遇したわけだし」

「記念になるね! 絶対忘れないし」

「最初がダメだと、あとでどんな我が儘な遭難者に会っても可愛いもんだって思えそうだし」

「それだ! そうだよ、それだよ! これは必要な試練だったんだ! まさか攻撃的な――」


 ――自殺志願者への攻撃を許可。


 無線機から流れ出た〈アスタ〉の声を突然思い出した。

 マリアラは思わずフェルドを見た。

 フェルドが老人に蹴りを入れた、後に、許可が下りたって、こと?


 フェルドも、マリアラが気づいたことを悟ったらしい。居住まいを正した。


「えー、……要請があります」

 こほん、咳払いをして、フェルドは言った。

「今から報告書書くけど……その前に、事実関係の確認をですね……」

「……さっきはホントに色んなことが起こって怖くてびっくりして、わたし、どっちが先だったかとか、あんまり覚えてない」

「そっか。うん、俺も」


 けれど。

 今さら、ちょっとだけ、ゾッとした。

 許可が下りなかったら、どうするつもりだったんだろう。いや、マリアラとしては、待たないでくれて助かったのだけれど。

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